「燐子は今日もこの後練習?」
「はい……コンクールまで時間、ありませんから」
「そっか、頑張ってね」
Roseliaの練習が終わってコンクールの練習。時間はもうない、一分も、一秒ですらも無駄にできるものじゃない。
「えっと、りんりん」
「あこちゃん……どうしたの?」
Roseliaの練習からコンクールの練習へと切り換える意味を込めて目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をしたところであこちゃんから話しかけられた。
なんだろう、彼女の瞳からは寂しさみたいなものが読み取れる。最近遊べてないことやNFOができていないことが不満なのだろうか。
ごめん、あこちゃん。でも今は駄目なんだ、コンクールが終わったら……全部終わったら一緒に、一杯遊ぼうね。
彼女らしくなく言葉はない、視線もあちらこちらへと向いている。言いにくいことなのか、私はその言葉を待つしかない。
「無理、しないでね」
「……うん、わかってるよ」
「……それだけ。頑張ってね、りんりん」
あこちゃんは嘘が下手だ、何を隠しているかはわからなくても何かを隠していることは用意にわかる。
他にも言いたい事があったのだろうにそれを全部飲み込んだ。何故? そんなものきまっている。
「……ごめんね」
あこちゃんが去って私一人になったスタジオでそう呟く。小さな声だがよく聴こえたのは罪悪感のようなものがそれをより強いものとしたからか。
また目を閉じ、深呼吸。指を足に当てリズムを取る。安心して、無理はしない、約束だから。
無理はしない、無理じゃない。できる、やれる、やらなきゃ、やらないと。
指を落とす、鳴らした音は部屋の中に嫌なくらい響いていた。
「お腹、空いたな……」
ふと、そんな声がどこからか聞こえてきた。ベッドに座り込んで息を吐くと一気に疲れがやってきた。
最後にご飯を食べたのは……昨日の夜、あれ、昼だっけ? どうにしろ目を覚ましてから食べていないのだけは覚えている。
お父さんもお母さんも仕事でいない。家には私一人、なんだか寂しく感じてしまうけど、とりあえずは何か食べよう、そう思って立ち上がろうする。
「あれ……?」
立てない、なんでだろう。足に力が入らなくて、手で身体を浮かすこともできず、ただただぼーっと目の前を見つめていた。
何もない、だけど視界はそこから動かせない。いや、その表し方は不適切か、どうにもそのような行為すら億劫で。
今日も朝から練習をしていたし疲れてしまったのか、ああでも……駄目、頭もうまく働いてくれてない。
今倒れ混んだらもう、起き上がれる自信はない。空腹で、思考も不明瞭、こんなになるまでしたからにはもう……
もう? もうなんだ? 私はこれで満足しているのか?
まさか、まさか、そんな筈はない、そんな風であってはいけない。
沸き上がってきた思いを使い、ベッドを強く押して立ち上がる。
取り敢えずは何か食べよう。何があったっけ、そんな風に思った直後にスマホの音が耳に入ってきた。
誰だろうと確認してみるとそれは予想外の人物で。
「ど、どうして……」
明日会えませんか、理由も場所も、時間もない、ただそれだけの簡素な文。
断るべき、そんなことはわかってる。実際にそうしてきたのだし、ごめんなさいと打ち込むだけで解決してしまうものなのだ。
なのに……なのに、そう返すことはできなくて。
大丈夫です、なんて真逆の文を返してしまっていた。
「……はぁ」
どうしてこんなことをしているのだろう。練習しないとと思ってるのに、焦ってるのに、どこか楽しみに思ってる自分がいる。
こぼれたため息は真っ白で、すぐに溶けて空に消えて行く。もう少し厚着しておけばよかった、なんてのは今更で。
「蒼音さん……」
呼ぶのはこんなことになった原因、彼からの申し出を断れる筈もなく受け入れてしまったけれど後悔はしていない、ただ何故今なのかだけがわからなくて。
集合場所となったのは喫茶店でも彼のバイト先でも、互いの家でもなく本屋さん、となればその理由は予想できる。
練習ばかりだから息抜き、ということなのだろうか。最近は本も読めていないしコンクールが終わった時に読む用の本を買っておくのも悪くないかもしれない。
「お久しぶりです」
久しぶりに会った彼の挨拶には返すことができなかった。
バクバクと破裂しているかのような音が身体の中で鳴り響き、何か喉に詰まりものがあるかのように息がうまくできなくて。
私が彼と会う時はいつもこうだったか、もう思い出せないけれどこうだったかもしれないし、こうじゃなかったのかもしれない。
「え、えっと……」
ようやく絞り出したものは言葉ですらなかった。
口にしようとした言葉は空気に溶けて消えていき、目を合わせることすら恥ずかしくなってしまってそっぽを向く。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……です」
大丈夫じゃない、とは冗談でも言えないからそう返す。このままでは何もできないまま時間だけが過ぎてしまう、胸に手を当て大きく息を吸った。
「今日はどんな用……なんですか?」
そんな意気込んで尚勢いは転落するかのように落ちてしまい、先程以上の恥ずかしさにも襲われる。
「あこちゃんから、最近燐子さんが元気無さそうって言っていたので」
「……それだけ、ですか?」
「はい」
そうですか、と呟く中で落胆と歓喜、その相反する感情を抱いていた。
彼が心配したからじゃないという、最近会ってもいないから仕方のないことなのに抱いてしまう傲慢さ、会ってあげてと言われてないのにこうしてくれるという程度の事。
となればすぐに解散か、いやいやそんな訳がない、あってほしくない。ああでも練習をしなければいけないことを考えるならそれは喜ばしい筈で。
「どうかしましたか?」
「い、いえ、この後……どうするのかなって」
「本を見て昼飯でもって思ってましたけど……嫌なら」
「そ、そんなことないです!」
ぶんぶんと頭を振って否定し、思考を振り払う。理性が邪魔だ、練習の時間が削れているのは彼も同じ、であれば構わない、それでいいではないか。
彼から逃げてしまうかのように入り口の方に向かい、それでは意味がないから数歩戻ったのだった。
「今日は付き合ってくれてありがとうございました」
「い、いえ……こちらこそ」
あっという間だった。まるで世界に私一人取り残されてしまったかのように時間は溶け、本を買って昼食も済ませてしまった。
覚えてる、今日何をしたかどんな風に思っていたか。だからこそこれ程までに時間が過ぎている事が不思議でならない。
来るべきじゃなかった、練習しておくべきだったと、あんな風に考えさせていた理性は何処に行ってしまったのか。もう、全部蒸発してしまっていて。
だけれど来ない方がよかったと微塵も思ってないわけではない。息抜きのようなものだと頭では理解してる、だけれどもこれは、あまりにも甘くて痺れるような時間だった。
「練習、頑張ってください」
終わらせたくないと思ってしまっている、終わってほしくないと願ってしまっている。だけどそんな優しくない、終わりはもう目の前だ。
仕方がない、しょうがない。コンクールの練習をしなくては、そしてそれは彼も同じなのだから。私の言葉を待たず背を向けた彼に、手が伸びた。
「れ、練習……一緒にしませんか?」
なんと言ったのだろう、熱された頭はゆっくりと冷えていき、自分が何をしているのか自覚する。
私は彼の手を掴んでいた。冷えた頭がまた沸騰しだして、だけれどもその手は離さない、離せない。
「えっと、それは……」
「今から、です」
恥ずかしい、でもその手は緩めない。息が荒くなる、でも目はそらさずに。
「駄目、ですか?」
「……大丈夫です」
風が吹いた気がした。季節外れの暖かい風、どこか優しいものが肌を撫でた。
どうしてこうなってしまったのだろう、なんて全部自分のせいなのに現実逃避気味に考える。
一緒に練習しましょうと言うまではよかった。問題はその後、どこでそれをするか。
何処かのスタジオを態々借りようという話にはならなかった。つまり彼の家か私の家、どちらにするかという話になって。
それで私が誘った、私の家なら大丈夫ですと。今思い返してみれば熱くなって火傷して、肌を食い破って炎すら現れそうなものだ。
理性なく本能での提案、思案は何一つとしてなく願望だけでの発言、であればどうなるかはわかりきっていて。
「…………」
当然、こうなる。よくよく考えなくても当たり前、そもそも私は何を期待していたのだろう。
ピアノの音がする、それは私によるものじゃない。彼は今、私とは別の場所にいる。彼は確かに目の前に、だけれども凄く遠くの場所にいる。
手を伸ばせば触れられるだろうけど、声をかければ返ってくるだろうけど、そんなことしようと思えないからそういうことだ。
喉が鳴った、胸の前に持ってきた手は動かせない。心臓が激しく脈動するがそれは何故だろう、どちらなのだろう。
あなたのことが好きだからなのだろうか、それともあなたの音楽が好きだからなのだろうか。多分、どっちもで。
まるで金縛りにあったかのように身体を動かすことはできず、ただただずっと彼の演奏を聴いていた。
遠くの誰かを見るように、テレビの中の誰かのように、作り物の世界の誰かのように。
「そろそろ燐子さんも弾きますか?」
「……え?」
ふっと、声が零れると同時に身体を縛っていた何かが消えた。
言われた言葉の意味を考えてみたらすぐ気づく、それはそう、これは彼一人での練習ではないのだから。
提案したのは私、一緒にと言ったのだこうやって見続けるのを彼はよしとしないだろう。
「どうかしましたか?」
「な、なんでもないでふ」
焦りすぎて舌を少し噛んでしまい、気付かれてないだろうかと不安になってしまう。
身体が重いし胸が潰れてしまいそうだ、伸ばした背筋が冷えて頭がクラクラとさえしてきた。
こんなに緊張したのはいつぶりか。緊張、そう、緊張だ。視界がぶれた、立っているのか座っているのかすらわからなくなってしまうほどに。
彼の見ているところ、彼の演奏の後、そして弾くのはあの曲。私の演奏は彼に届くだろうか、いや、遠い場所にいる彼に私の演奏が届く筈がない。
怖い、恐ろしい、失望されるか、呆れられるか。隣を見てみれば蒼音さんは不安そうにこちらを見ている。
その不安はなんなのだろう。考えたくない事まで考えてしまうから無理矢理ピアノの前に座ろうとした。
「あ……」
躓いて、転びそうになる。無様だ、こんな調子でコンクールなんか出られるのか。無理だ、やっぱり私なんかじゃ……
「……燐子さん」
貴方は何も悪くない、だからその表情をやめてください。いっそ煽ってくれる方が、馬鹿にされる方がいい、だからそんな心配そうな表情を私なんかに向けないで。
手に何かが当たる。何かと思って見てみれば蒼音さんが私の手を握っていた。
「大丈夫です、燐子さんなら」
安心する、すっと心を覆っていたものが払われたみたいだ。
「俺がついてます、ってむしろ逆効果か……」
だから貴方は何も悪くないのだ、そんな事を言わないで。
「少し一緒に弾いてみますか? そしたら少しは緊張も解けるかも」
そうだ、とそんな事を言ってきた。ああ、もう限界だ、自分が自分でなくなってしまいそう。
私は今、蒼音さんに触れている。
「蒼音さん」
「なんですか?」
「……ごめんなさい」
貴方が悪いのだ、何もかも。
気付けば私は床に倒れこんでいた。彼を、押し倒すようにして。