私は鈍感ではない。だけれど賢くもない。
それだから彼が何か悩んでいることはわかっても、何故悩んでいるのかまではわからない。どうするべきかも、何が出来るのかも。
言えないことと蒼音は言った。ならば関せず、放置すべきというのはわかる。わかるが、納得できるかは別の話。
燐子の事だと聞いて彼はなにも返さなかった。否定も肯定もなく、つまりそういうことなのだろう。沈黙というのは、わからずとも伝わらないものではないのだ。
「何があったのかしら」
言いたくないではなく、言えないというのであるからにそれは大層なこと。喧嘩なり、恋仲になるなり、私に言えないとするならばそんなところか。
前者であれ後者であれ、彼が言えないというのだから本人に聞くわけにもいかないからこうして一人考えている。
「私だけ……」
怒りはなく、あるものは疎外感。一人など慣れたもので、寂しいなど最後に感じたのはいつだったのか覚えていなくて。
ああ、それもそうか。彼がいて、Roseliaがあって、それに慣れてしまったからもう、駄目なのだ。
どうにかしたいと思うのが当然だろう、どうにかしなければと思うことが普通なのだろう。羨ましいと思うことは、きっとどこかおかしなこと。
無為に時間が過ぎていく。何をするでもなく、何を待つわけでもない。音もなくゆっくりと、視界だけが傾いて……
明かりが、上から降っている。
今が夢なのか現実なのか、それすらわからぬ夢心地。顔でもつねってしまえばいいのだが、これが夢だからなのか、単に億劫なのか知らぬが出来ぬまま。
紙が床に落ちていると、視界に入るわけではないが理解できる。私の視界に移るものも紙ではあるが、そこに書いてあることはあまりにも甘ったるくて、寝起きもあってか吐いてしまいそう。
こんなものをもし見られたのなら、どうともないが、それでもいい気分はしないと思う。その行動にも、ここに書いてある内容にも。
「……寒い」
季節もあって冷えきっていて、ああもしや、身体が動かないのは凍えて固まってしまったからかもしれない。なんて馬鹿らしい事を考える程度には余裕がある。
もぞもぞと、寒さへの抵抗を見せるためかほんの少しだけ身体が動かせるようになってきた。暫くは大したことなかったが、一分やそこらで上体を起こせる程度に。
それでもまだ立ち上がれないのだから、冬の朝というのは絶望的なものなのだろう。
「まだ早いわね」
時計を見てみれば朝の五時と、早すぎるといって差し支えない時刻。昨日何時に眠ってしまったのかなど知らないが、ともかく二度目の睡眠を咎めるものはないだろう。
実際、今日はRoseliaの練習もあるが昼過ぎから。むしろ万全を期すという体裁の元であれば推奨されるものでこそあるのだが……
「あなたは……」
口にするのは蒼音への曲、その一端。書いて消して、考え飛んで手直しては台無しで。
付けっぱなしの明かりを消して、床に落ちていた紙を拾い上げる。余裕など、ある筈もない。考えること思う事、わかる筈なのにいざ書き表そうとすれば夢のように消えてしまう。
昨日なんて少し進むどころか手直しも出来ず、ただ眺めるだけに終わっていた。
「……相談してみようかしら」
曲の内容ではない。これは私のことで、私のものだから、手など加えさせはしない。
昨日の事、どうも頭から離れてくれぬ。ぐしゃりと歌詞を書いていた紙を握り潰して投げ飛ばすが、目的とは外れ床に落ちる。
いくら考えても纏まらないからこうして何度か捨ててはみているが、結局出るものは似たり寄ったり。やはり今回のも前回のも、暗唱できる程に記憶しているのが原因なのか。
ため息が零れて、起き上がった筈の身体は再度机の上に突っ伏していた。
あれはあれ、これはこれと、そんな風な分別は出来ているつもりだったのだが、どうもそうではないらしい。公私混同と言うには少し違うかもしれないがそういうもの。
ぎゅっと、締め付けられるように胸が痛い。胸の中にあるもの全部吐き出して、吐き出して、吐き出して、吐き出すものがなくなって咳き込んだ。
「駄目ね、これも」
殴り書きのような汚い字、読める読めないは兎も角として、書き記したその内容に偽りはない。音楽では、自分の気持ちには嘘をつきたくはないから。
だが、駄目なのだ、羅列ではなく意味がいる。でなければわざわざ音楽とする必要がない。
難しい、面倒だ。ああ、だけれども、だからこそ、音楽というものは美しくあって人の心を射つことができる。
雑念を抱いてよいものなど出来る筈もなく、であるからには問題を解決しなければならない。厄介だが仕方のないことであり、望むこと。
曇り空の心の内、あるがままに手を走らせた。
彼の事、彼への曲の事、どちらも気になるような状態でする練習など結果は見えている。自らの首もとに手を置いて、首を横に振った。
宙ぶらりんな今、すべき事は単純明快。燐子の方を見れば今までよりも随分と調子がよさそう。コンクールを終え一皮剥けたか、荷が下りただけか、それとも……
全く、彼女は出来ていたというのに私は練習に集中する程度の事すら出来ていない。
中断してしまうのも申し訳ないし、解決まで持っていけるわけでもないのだから練習が終わったら聞こう。そう決めたのに、彼女を見て、強く自らの手を握った。
宙ぶらりん。自らを制御出来る筈もなく、集中なんてものは出来ることはないまま時間だけが過ぎていく。
「ねぇ、友希那」
「……なんでもないわよ」
「まだ何も言ってないでしょ」
全部勘づいている癖してよく言うものだ。気まずそうな表情を浮かべられて居心地が悪くなったかと思えば、彼女は燐子の方を見た。
ほらやっぱり、気づかれている。でもだからといってなんだ、強がって何も言えやしない。本当に歌う以外では不器用な口だと自分でも最近思うようになってきた。
そう思って尚行動できないのは、私自身の愚かさゆえだろう。
「聞いといてあげようか。喧嘩、じゃないんでしょ?」
「……大丈夫よ、どうにかするわ」
「できるの?」
「私は子どもじゃないのよ」
相談しようか、なんて思っていたくせしてこの様。
その後どうだったかなど言わずともわかること。集中をしていながら、不思議といつも以上に楽しそうな燐子の事を見れば、きっと意味のないこと、なんて言い訳ばかりして。
私は、子どもじゃないだけで大人にはなりきれてない。
ふと、気がつけば蒼音の事ばかり。予定もなく、寒いだけの空の下、ため息をついてみれば白い息が舞い上がる。
思考と行動が結びつかない。こんなにも彼の事を考えてはいても、彼のために何もすることが出来なくて。
一体何が、それは彼の事でもあり、私の事でもある。
イラついている、今日の練習の時からずっと。寝不足、栄養不足、理由となるものに思い付くものはあれどそうではない、そうではないとわかっているのだ。
私自身にイラついて、蒼音にも、そして燐子にも。
「……はぁ」
白い息を吐き出してぶるぶると、音でもたててしまうかのように震えてみれど、その程度で納められる程の熱など起こせるはずもなく。
それなりに厚着をしているしているつもりではあるのだが、この間リサから貰ったマフラーの端を摘まみ、もう一度首に巻いて見せる。
口が隠れて息苦しい。誰を待つわけでもなく、何をするわけでもなく。情けなさから一人過ごしている。
目の前になど誰もいる筈もなく、見上げてみてもそれは変わらず。絡み合うわけでもなく、綺麗に張り巡らされた電線を向こうに見ていたらアクビが出た。
喉が渇く。からからと、がらがらと、咳き込んでみても解決せず。声が思うように出せなくて、だけれどため息はつくことが出来てしまって。
ふと、明日には雪でも降ってきそうだと考えスマホを取り出すが、厚い手袋をしたままでは動かすことが出来ず、大した事でもない故に真っ暗な画面を覗き見るだけ。
「……言ってくれたなら」
言ってくれなければわかる事も出来ない私が悪いのに、言いたくないことだと知れている筈なのに。
私のためと彼のため。一体どちらのものなのか、混じり溶けてわからなくなってきた。
……認めればいいと、わかっている。言い訳ばかり思い浮かぶが、つまるところ彼の事が気になって仕方がない。
素直になるというのは存外難しいもので、元より素直であったとは誇張してでも思わないが、これは直そうとして直せるものなのか。
我が強く、誰も気にすることではない小さな事を隠し遠そうとしたり。ああ、気にしないでいたけれど思い返してみれば随分と馬鹿らしいこと。
なら、そんな私は一体どうしたいのか。だからそれがわからないと言っている。
では、そんな私は一体どうあってほしいのか。それは、最初からわかっている。
「あなたには、前を向いていて欲しい」
ああ、私は臆病になっていた。彼が嫌がるかもしれない事をするなど今更で、事実私は彼が嫌がっていたことをしていた。
……実際彼がどう思っていたのかは知らずとも、表面上では確かにそうだった。
そうとわかればすることは一つ。善は急げと言うもので、時間の事もあれ、退けばまた足踏みすることなど目に見えている。
立ち上がり、深呼吸。急に風が吹いてきて目を瞑る。
目を開けば、空は少し暗くなり始めてきていた。
一人が好きかと問われれば、嫌いじゃないと答える人が大多数だと思う。
煩わしいのは好きじゃないし、かといって一人きりということに喜びを抱く程でもない。極端に振り切るなど不自由極まりないことで。
「……遅いわね」
一時間、多分それくらいは経っていると思う。蒼音の家のインターホンを鳴らしてみたけれど反応はなく、ならば帰ってくるのを待とうと思い時間だけが過ぎている。
これで居留守でも使われていようものならば……駄目、そんなことを考えては。それに、彼ならばそんなことをしないだろうと思っている。
期待ではなく望みでもなく、それは信頼で確信だ。その信頼に漬け込もうとしている事に罪悪感がないわけでもないが、仕方がないことで。
コンビニで暖かいものでも買おうと思ったが持ち合わせがなく、時間もあってか寒さを耐えるのもそろそろ限界。
だから、早く来て欲しい。元よりまた後日で、などという考えは持ち合わせていない。
私と、彼と、今日この場で。そう決めたから。
だけれど不安になって、何度かインターホンを押してみたけれど反応はない。
外から見ればきっとおかしな人に見えるのだろう。そして、おかしな事だと自分でもわかってもいる。
スマホの充電がないわけでもないのだから、電話の一つでもしてしまえばそれで解決だ。何よりそんな長くを話すつもりもない。
だが言葉など、言葉だけだと、きっと伝わらない。彼の思いも、私の気持ちも、言葉だけでは足らなすぎる。
足が棒にでもなってしまいそうに辛くて、意思もあり、その場にしゃがみこんだ。
「……何してんだ」
なんと言おうと考え時間が過ぎ、ようやくその時がきた。立ち上がるとそれなりにしゃがんでいたからか、膝の辺りが痛くなる。
彼は賢いから、きっとわかっている。だから何も言わず、せずとも、白い息を吐き出した。
「……悪いけどまた今度な。今はちょっと、疲れてるんだ」
だけど、蒼音は私の事を無視して鍵を取り出す。
長い間待っていたのにとか、無視される事だとか、そんなことはどうでもいい。
「駄目よ。今、ここで」
「言いたくないって、言っただろ」
「なら言わなくてもいいわ。けど、私はあなたにそんな顔して欲しくないの」
彼の手を掴めば、ほら、止まってくれた。振りほどこうとすれば簡単な筈で、こちらを見る目は暗さもあって良く見えなかった。
「何で構うんだ」
「そんなの、あなたが好きだからじゃ駄目かしら?」
ああ、冷えてきた。いつもならどうだ、とりあえず上がるかとでも言ってくれていた気もする。こんな時でもそんなことをちょっとは期待すれど、目的には変わりない。
「……やっぱ駄目だ」
だから、その返答は予想外のものだった。
するりと彼の手が私から離れ、彼が鍵を回す。再度止めることはできず、声も発せず、ただ眺めるだけ。
「……ねぇ、一つだけ聞いて」
掠れたかのような声。絞り出すかのようで、水中かのように息苦しく、火花でも散っているかのように視界のあちらこちらが白く光る。
「私は、何があってもあなたの事が好きよ」
「……俺も、どうあったとしてもお前の事が好きだ」
時間が解決してくれる事なのか、あなたでなければ解決できぬことなのか。私では、どう足掻いたところで糸口にすら慣れぬのか。
それが情けなくて悔しくて、そのままドアの向こうに消えた彼の姿を見送った。
空はもう、星によって照らされていた。