「雨……降ってきちゃった」
今日はあこちゃんからNFOをしようという誘いが来てて、何かお菓子と飲み物を買うだけと思いコンビニに来たのだけれど雨が降ってきてしまった。
すぐに帰るつもりだったし、天気も見ていなかったから傘なんて持ってきていない。この服はお気に入りのものだし、今日はもうお風呂には入ってしまったから体が濡れるのは少し嫌だ。
それに、約束の時間まではまだ暫くあるから。
早く止まないかな、そう思いながら雑誌コーナーの前で真っ暗な空を眺める。
こんな雨の日はいろんな事を思い出す。初めてのコンサートの日、上手くいかなかったあの日のこと。
彼を、新庄さんの事を知った日を、彼を好きになったあの日の事を。
彼は私がピアノを始めたきっかけだ。今日のように雨の中、そんな日にお母さんに連れて行かれたコンサート。
そこで新庄さんのお母さんの演奏を聴いて私もこうなれたら、なんて思った。
だけれどもステージの上に立つ自分を想像することなんてできなくて、あの人は私と住んでいる世界が違う、私はこうはなれないんだろうなとも思わされて一人落ち込んでいた。
でもその後の彼の演奏、それに私は心を奪われた。いや、演奏の前に彼がピアノの前に座った時には既に心引かれていた。
顔もよく見えないというのにそんな風にさせられた理由は一つ、紹介された彼が先ほどの女性と同じ名字で、私と年齢が同じだったということだけ。
なんだか見てるこっちまで緊張してしまったのは今でも覚えている。でも私の思いなんて届いてもいないかのように全く緊張した様子なく、とても楽しそうに弾く彼に酷く憧れた。
まるで遠い国の誰か、そう思わされた。そう、世界の違う誰かのようではない。遠い国、同じ世界で、限りなく遠くにいる人。
同い年な彼だからこそそう感じさせられて、私もこうなれるんじゃないかと思わされて。
あの時の心臓の高鳴りは物凄くて、それこそ演奏に打ち勝ってしまいそうなくらい煩かった。
あの時の演奏は今でも私の中で特別で、大事な物として残っている。
まるで何かが始まったかのような、そんな感覚は人生であれが始めてだった。
「思えばあの時は……まだ憧れてただけだったのかな」
あの後お母さんにお願いしてピアノ教室に通わせて貰うことにした。ピアノが楽しかった。どんどん上達して、上手くなっていくことが確かにわかったから。
でもピアノが上手くなる度に彼との差がどんどん広がっていってるような感じもした。彼が出来ることが私には出来ていないと、上手くなってしまったが故にわかってしまったから。
でもそれでよかった。諦めようとしなかった、出来なかった。憧れていたからそれが普通なんだと思えていた。ちゃんと練習して、私も大きくないコンクールでなら受賞をするくらいになることもできるようになれたから。
でもあの日、コンクールで失敗してしまった日。少し挑戦してみようなんて先生に言われてしまって挑戦をしたけれど、たくさんのお客さんに見られていると思ったら頭が真っ白になって、練習で出来ていたことが出来なかった。
悲しかった、恥ずかしかった。できるのならば消えてしまいたい。そんなことが頭の中で暴れ控え室で泣きそうになっていたところに彼はやって来た。
「あの曲難しいよね」
「ふぇっ……あ、あれは先生が私なら出来るって……」
「でも弾いたってことは自分でも弾けると思ったんでしょ?」
「そ、そうですけど……私は結局弾けなかったし……」
「やらずに成功するよりやって失敗しろ、母さんがよく言ってるよ」
一体どうして私なんかに話しかけたのか、それは今でもわからない。
暇だったからか、私の弾いたものが偶々彼の気になるものだったのか。それとも泣いていて目障りだったからなのか。
でも理由なんてどうでもいい。その言葉は確かに私に突き刺さったから。
今でも鮮明に思い出せる。言葉だけではない。あの時の彼の笑み、何か暖かい感情も全て。
彼は私の次の出番だからあんまりお話出来なかったけど去り際に彼は言った、いつか一緒に弾けたらいいねと。
それだけの言葉で溢れてしまいそうだった涙は枯れたように止まり、彼の演奏を聴こうと控えに向かい足は無意識の内に動いていた。
ステージの上で演奏する彼を見ることは少なかったわけではない。だけどこの時はいつもと違う風に思わされた。
先程まで話していた彼と、ステージ上で演奏している彼。それが同じ人物には見えなくて……
──まるで、王子様のように見えたから。
子供らしい、でもその思いは本物で。
それによって私の中の憧れは形を変えた。憧れるだけには留まらず、私は彼への恋に落ちていった。
「友希那さんとは……どんな関係なんだろ?」
この前あこちゃんと待ち合わせをしていた時にカフェで友希那さんと新庄さんが何か話しているのを見てしまった。
もしかして……付き合っているのだろうか。そう思うと胸が苦しくなる。でも私なんかがどうこう思っても何かが起きるわけではないし、起こせもしない。
彼は友希那さんの誘いを断り続けたというのをあこちゃんから聞いた。どうしてなのだろう、彼のピアノは私よりもずっと上手な筈なのに。
「確かRoseliaの……燐子さん?」
「はっ、はい……そうですけど……」
そんな風に考え事に耽っていたら突然横から声をかけられる。もしかしてファンの方だろうか、いや、私なんかにそんなものができるわけがない。
きっと友希那さんや氷川さんのファンで、偶々同じバンドの私を見つけたから声をかけただけ。そう思ってそちらを向くと……そこには新庄さんがいた。
頭が一瞬で真っ白になる。夢か何かかと思うほどに混乱し、思わず外に飛び出した。だけれど雨は未だに止んでないどころか先程よりも強くなっている。
まるで閉じ込めるように降るそれ、真っ黒に染まったかのようなその雨は視界を遮るほどに降り続け、走る車の明かりしか目に映らない。
「傘、持ってないんですか?」
彼も私を追ってか屋根の下に来てそう言ってくる。雨は止みそうにない、だけどこれ以上遅くなるといよいよ濡れて帰ることを覚悟しなければいけないから。
それもあるけど、ちょっとの期待を込めて私は頷いた。
「それなら……入ってきますか?」
「お、お願い……します」
急に顔が熱くなって彼の顔を見ることが出来なくなった。どんな表情をしているのか、それは自分でもわからない。視線を落とすのが最大限の抵抗、こんな顔見られたくなくて。
道を聞かれたので答える……嘘のものを。家までは遠くない、普通の道で帰れば5分程度で着いてしまう。少しでも彼と長くいたくて、つい嘘のものを教えてしまった。
「…………」
せっかくの時間なのに恥ずかしくて、何を喋ったらいいのかわからなくて会話をすることが出来ない。
望んだ今を夢想していた頃の私はどんな風なことを話していたのか。ああきっと、彼はまだ私にとって憧れで。
私に歩幅を合わせ、車道側を歩く新庄さんの顔は暗くて見えない。彼は今、どんなことを考えているのだろう。
いや、そんなことよりも何かないのか。そう思って頭を働かせていると、ついに彼から話を振られてきた。
「Roseliaは上手くいってますか?」
「は、はい……みんな一生懸命で……どんどん音が合っていってます」
一度話してしまえばこちらのもの、会話を途切れさせないように話す。その全てどうでもいいこと、それらに私と彼との関係性などありはしない。それでも会話をしていること自体が嬉しく感じられる。
一生懸命に話していると小さく笑われた。あの時の笑顔とは違い、どこか安心しているかのように。
「な、何かおかしなこと……言いましたか?」
「いや、もしかして俺って嫌われてるのかなって思ってたので」
「そ、それは……私、人見知りなので……」
目線が合ったらそらしてその次には逃げてしまったのだ、そう思われても仕方がないのかもしれない。
そんなことはないんですと説明しようと改めて彼の方を向くと、彼の傘を持っていない方の肩が少しだけ濡れていることに気がついた。
彼は優しい人だ、それは付き合いなんて言うのもおこがましいものだとしてもわかれている。
少しの隙間を更に詰める。水浸しになった地面を歩く度にほんの少しの水が跳ねる、錆び付いたかのような匂いが嫌に気になった。
「ここですか?」
「あ……はい、そうです」
家にたどり着き、そう言って私が屋根の下に行くと彼は帰ろうとする。
また会える、その確信はある。彼のいたライブハウスに行けば会えるだろうし、そうしなくたって彼と友希那さんの仲を考えればまた会うことはできるだろう。
ではそれに甘えてもいいのか、ただ会えればいいのか。そうじゃない、そんなものじゃない。気がつけば私は、今までで一番大きな声を出していた。
「あの!」
「……どうかしましたか?」
雨は未だに強い。叩きつけるような音がして、そんな遠くにいないはずの新庄さんが遠くにいるかのように感じさせられる。
ちょっとでも声を小さくしてしまえばかき消されてしまいそう、届かないまま消えてしまいそう。そんな風に思いながら私は声をあげた。
「あの時の約束……覚えてますか?」
また一段と、雨が強くなった気がした。
『りんりん、今日はあんまりチャットしないね』
『ごめんね、ちょっと考え事してて』
子供の頃、まだ小学生の頃のもの。それも対したことじゃない、ふと漏らしたようなもの。だからそう返されて当然で。
嘘を言われていないのは彼の口調からわかる。もしかしたら約束どころか私と子供の時に会っていたことさえ覚えていないかもしれない。
『りんりん、次のフロアでボスだよ』
「うん、気を引きしめていこ」
悲しかった、寂しかった、それは間違いない。あの約束を引きずっているのは私だけ、子供の頃からずっとそれにすがっている。
憧れていた、好きでいた。あの約束が私をピアノに向けさせていた。
なら覚えていないと言われた程度でこの思いは消えてしまうのか。そんなことはない、その程度で消えるものではない。
『ふっふっふ、あことりんりんの消えない闇の炎で燃やし尽くしてくれようぞ!』
燃料なんてこれから手に入れればいい、とにもかくにもこの思いは消えることはない。冷めて覚めようと、例え雨に当てられても焼き尽くすかのように燃え盛る。
私は彼の事が好きだ。長い間思っていたそれを、今日始めて、本当の意味で再確認した。
『うわーっ! りんりん、攻撃来てるよ!』
『ご、ごめん、ぼーっとしちゃってた』
……とりあえず、今はNFOに集中しよう。