俺は本が好きだ。漫画やライトノベル、歴史書なんてものまでも偶に読む。ただ一番に好きなのは小説で、バイト代の殆どはこれに消えている。
小説を読んでいると偶に自分でない誰かになったかのように感じることがある。自分を小説の中の人物が上書きして、本当にそこにいるかのような。
そんな感覚が好きだ。暇を潰せるからというのもあるが、一番は自分の世界が広がる。そんな気がするから。
「いっぱい買っちったな」
信号で待っている間に買った本を鞄にしまう。まだ昼飯も食べてないしどこか寄っていこうかな、そんな事を考えながら歩いているとすれ違い様に声をかけられた。
「新庄さん……ですか?」
誰かと思い振り返るとそこにはリュックをしょって、右手にでかい袋を持った燐子さんがいた。
買い物帰りなのだろうか。少なくともまだ昼だから練習帰りということはないだろうし、これから練習に行くという風には見えない。
「この前はありがとう……ございました」
「いえ、大したことじゃないですし……」
そう言うと何だか変な空気に。それっぽく言ったが自分の家に人を入れるなんて大層なことだ、それも異性となれば更に。
そう言えばよかったのかもしれないが、変な風に誤解されるのもあれだ。気でもあるんじゃないかと感じられたらたまったもんじゃない。
こんな時に限って信号は中々変わらない。話す物も簡単には見つからないから、少し嫌だけどあの話題を出すことにした。
「あー……あの時の約束ってやつですけど……ごめんなさい、やっぱり思い出せませんでした」
「い、いえ、大丈夫……です。大したことじゃ……ないですから」
あのうるさい雨の中、確かに聞こえたその言葉。あの時は急だからというのもあった、しかし時間をかけて思い出そうとしたが本当に覚えていなかった。
そも会ったことすら覚えていないのだ、約束をしたかどうか、その内容までなんて覚えているはずもない。
でも覚えていないと答えた時のあの悲しそうな顔は、視界を遮るような真っ黒な雨の中でも確かに見えた。
今回だってそう、大したことじゃないと視線を下に落としながら答えるその姿はどこか悲しそうに見えてしまう。
だというのにそれがなんなのかを聞こうとすれば誤魔化される。隠されてしまうと気になってしまうのは仕方がないだろう。
「えっと、この後って時間ありますか?」
「は、はい……今日はRoseliaの練習もないので」
「それなら……どっか寄りませんか?」
俺がそう聞くと燐子さんは酷く怯えたようにひっと声を漏らす。やはり嫌われているのではないか、そう思わされてしまうような反応。
もしかしたら思い出せるかもしれない、そう思っての誘いだったのだがやはり急すぎたか。
駄目なら大丈夫ですよ。そう言おうと思ったのだが燐子さんは俺の言葉よりも早く、肯定の言葉を被せてきた。
「どこに……寄るんでしょうか?」
「……嫌ならいいんですよ?」
「だ、大丈夫……です」
「それなら……駅前のカフェにでも行きませんか?」
目線をそらされながら言われるのでやはり嫌なのだろうか。更に一歩引いたかのように答えられるので周りからは俺が暴力的な人間に見えてるかもしれない。
それも込み、単純な善意も込みで荷物を持ちましょうかと訊ねるがそれも大丈夫ですと答えられた。
単純に持たせるのが悪いと思ったのか、中に入ってるものが壊れやすいものなのか。はたまた俺のような人間に持たれたくないのか、そのどれかは俺にはわからない。
一歩だけ、俺と燐子さんの間の距離が遠のいた。
「おまたせしました~」
カフェに来たはいいものの先ほどのせいかなんだか話しづらい雰囲気を感じてしまい、結局注文するものが届いてくるまで話すことはなかった。
誘ったのはこちらなのだから流石に悪いと思い何を話そうかと思案する。
思い出せるきっかけとなるものが理想なのだろうが、それで思い付くなら苦労しない。
何でもいいとは思っているものの流石に変なことを聞くわけにはいかないし、とりあえずと当たり障りのないことを聞くことにした。
「今日は何をしてたんですか?」
「買い物に……行ってました」
「何を買ってたんですか?」
「えっと……」
そこで会話が止まる。答えにくいものなのか、やらかした。答えなくても大丈夫ですよと言おうとしたところで燐子さんの方から話しかけられる。
「新庄さんは……何をしてたんですか?」
「本を買ってました」
「本……好きなんですか?」
「そうですね、燐子さんは本読みますか?」
燐子さんは小さく頷いて、それに対し俺は小さく喜んだ。話の種が出来た、それもあるがもう一つ、もしかしたら本好きの人と話が出来るかもしれないという喜び。
数が少ないせいか知り合いに本が好きな人は一人もいない。それこそSNSの人とおすすめしあうくらいしか出来ないが、やはりネタバレ防止というのもあり話すことなど殆どできない。
だからこそ本について話せる人というのは欲しい。好きなもののジャンルが合っていればこの上ないが、別のジャンルを知れると思えば良いことだ。
「好きなジャンルとかってありますか?」
「特に好き嫌いは……ないですけど、クロスワードとかそういうのが……好きです」
「それなら今度俺の好きな本貸しましょうか?」
「な、なら今度私のお気に入りの本も……貸しますね」
お願いします、つい嬉しくなりほぼ反射でそう返した。何を貸そうか、出来ればマイナーなやつの方がいいだろう。
だがしかしきちんと面白いもの。クロスワードの本は持っていないが、クロスワードが好きならばあれとかいいかもしれない。
そんな事を考えているだけでとても楽しい。今どんな顔をしているのかわからないし、わかりたくもない。だがここまで楽しみだと思ったのは久しぶりだ。
ふと燐子さんの方を見ると顔をそらされてしまった。顔が少しだけ赤くなっていたが実は熱でもあるのだろうか。
「あの……えっと……」
「具合が悪いなら帰っても大丈夫ですよ?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
ならいいのだが、一体どうしたのだろうか。結局俺は当初の目的も忘れ、約束なんて一切思い出す気配もなく数十分ほど話してから燐子さんと別れ家に帰った。
「あー、うるせー」
家に帰り今日買った本を読もうと思ったのだがどうやら近所で工事が始まったらしく、その騒音はなんとも激しいもので耳障り。
本来なら音楽を聴きながら本を読むことはしないのだが今回ばかりは仕方がない。騒音を聞き続けるよりはいいだう。
何を聴こうかと思ったが、昨日リサからRoseliaが練習している時の動画が送られてきたことを思い出した。
バックグラウンドとして聴くのはなんだか悪い気もするが他に聴きたいものもないし仕方ない。それにこれ一回だけでどうしたらいいのかを教えるわけではないのだし。
……あと、あいつらの音楽は嫌いじゃないから。
ページの捲る音、それは音楽に隠されて聞こえない。一度聴き終えたらいちいち本を読む手を止めてまでリピートする、それをさせられる程の力がこの動画にはあった。
無論本への集中が出来ていない証拠なのだがそれでもいい。というよりも途中から買ってきた本を読むのをやめ、燐子さんに貸すようの本をどれがいいかと積んである本から探していた。
一度読んだ本、しかしそれでも自分で面白いと思えた本。それでもこの耳から聴こえるものに勝るものは未だに見つけられなくて。
「にしてもほんとにいい音してるよな……」
俺はピアノ以外何もわからない。だから湊がどのような技術を用いているのかはわからないし他の楽器も同様だ。
だがいい音を出している、それだけは確かにわかる。こうして次の本を探す手を止めて聴き入ってしまうくらいには。
ここまでの演奏はライブハウスで長い間バイトしているといえ聴いた覚えがない。
これでいいかと本を探し当てると栞を挟んで閉じ、この演奏を聴くことに集中することにした。
「燐子さんの音って……」
確かに聴こえてくるキーボードの音は優しくて、どこか安心するかのような音で、この前のライブより遥かに柔らかいものが聴こえていた。
本人はあのように人見知り。というよりかはおどおどしているのは演奏にも反映されていて、少し音が他と比べて弱い。それでも上手だと思わされる。
自己評価だが音楽についてはなかなかに口うるさい方だ。というのも小さい頃からピアニストの母親の音を聴いていたのだしそうなるのも仕方がないだろう。
それでも素晴らしいと思えるこのキーボード、その音はどこかで聴いたことのあるようなもので……
「……聴き覚えがある?」
つい口からそう溢れてしまう。似たような、ではない。この音には聴き覚えがある。
勿論多少の誤差はある。しかしこの優しくて、安心するかのようなこの音は、記憶の底にあったものと照らし合わせれば一致した。
ということは俺は燐子さんの演奏を聴いたことがある、つまりはどこかで会っていたことがあるということだ。
しかもこうして覚えているということは……少なくとも一度ではないと思う。
ならこれはいつのものなのか、どこで聴いたものなのか。
それはコンクールで、何度も聴いたもの……
「っ……!」
イヤホンを外す、本に挟んだ栞が落ちる。だからどうした、それだからといって大したことではないだろう。俺には既に関係のないものだと何度自分で思ったものか。
ああ、そうわかっている。ならなんなのだろうか、このイラつきは。
「……寝るか」
外から聞こえてくる工事の音に漏らしたその声はかき消され、いつの間にカラカラまで渇いた喉に冷蔵庫から水を取り出して入れる。
寝室に向かう途中目に入ったあの部屋を、なぜだかわからず見つめていた。
彼女と会ったことがある。なら約束とは一体何なのか、もしかしたらあの部屋に入ってみればわかるのかもしれない。
だけど……ああ、昔を思い出すような事はしたくない。悪いけれど、彼女にはごめんなさいと偽ることにしよう。
「俺は……ピアノは嫌いだ」
何故だろう、本当によくわからないことばかりだ。それこそどうしてそう呟いたのかすらわからない。瞳を閉じて目を覆う。
だけれど瞳の裏に昔の光景が浮かんできて、そのせいか眠ることはおろか落ち着くことさえ出来なかった。