女体化上杉君が天涯孤独になって中野家に預けられる話 作:悠魔
世界に置いていかれたような感覚。
皆んなは脇目も振らず歩いていくけれど、私一人だけが変われずに、その場で足踏みをしていた。
それでいいと思っていた。私はいつか役に立つ人間になれればそれでいい。勉強さえしていれば、いつだって私は前に進めるはずだって。
だけど、私は過去からやってくる鎖に絡め取られて、身動きが取れなくなってしまっていた。暗いのは怖い。不確定な未来は何が起こるか分からない。だから、目を向けていたくない。
過去に縛られ。
未来を恐れて。
私はただ、放棄という名の停滞を繰り返しているだけだった。
「上、ーー上杉ーー」
不意に声がした。
今はそれすらも煩わしい。目を開けてしまえば、現実を見なくてはいけなくなる。
夢想に逃避してしまえば、あとは楽だ。何も考えずに揺られているだけでいいーー
「ーーー上杉」
「………ッ」
ぱっちりとした瞼。輪郭のある鼻。同性から見ても魅力的な顔立ち。
何度も見た顔がすぐ近くにあった。
しかし、この子達に限ってはーー何度、顔を見ようとも、顔だけでは誰かが分からない。少し離れて見ると、腰まで伸びたロングヘアと、頭についた黒い蝶のリボンが目に入る。ーー二乃だ。
中野家の五つ子は、こういう小物でしか判別がつかない。ーー至極面倒くさい。そしてこの苛立った口調から推察するに、おそらくまた面倒な事になりそうな気配。
「ーー何度も呼びかけたんだから、すぐ起きなさいよ」
「…………ん」
「まあ、いいわ。今からご飯作るけど、何か食べたい物とかある?」
「……別に、ない」
「あっそ。じゃあこっちで適当に作っとくから、荷物運んでくれた四葉に礼でも言っておくこと。いい?」
「……………」
首を微かに動かす事で返事した。
二乃が溜め息をついてキッチンに向かうのを見ると、伸びをしてーー身体が動かない事に気がついた。
ソファに沈み込んだお尻が離れない。長いことここに座っていたからだ。
(ーー寝すぎた。疲れてたんだ……人の家で寝るなんて、私ったら………いや、もう私の家なんだっけ)
夜の空に散りばめられた星を見て、もう夜なのかと呆けた頭は認識した。星を数えている内に、意識は覚醒していく。やらなければならない事が沢山ある。年金や保険証などの手続きにも行かなければならないし、定期テストも受けていないので追試に向けて勉強せねばならない。優秀な成績、かつ止むに止まれぬ事情ということで、ほぼほぼ形だけのテストだと言われたけれど。
ーーー明日からでもいいか。
「家庭教師、どうするの」
「んー……?」
「パパがね、あんたを引き取る時に言ってたの。家庭教師の仕事は強制しない、って。もし辛いようなら辞めてもいいし、それであんたを追い出すような事はしないって」
(………………)
「あんたが休む、ないし辞めるんならその時は別の家庭教師をつけるって言ってた。……だから、結局はあんたが続けたいかどうか、ってわけ」
随分と良い条件だ。
寧ろ、ここまで良くしてもらっていいのだろうか。彼の鉄仮面の下に詰まっていたのは意外にも優しさだった。
……バツが悪い。勝手に恨んで、勝手に感謝して、自分の子供っぷりにほとほと呆れ返る。しかし、素直にその優しさを全て受け入れるほど、単純な子供でもなかったが。
自分は捻くれたガキだ。
中野丸男にここまで良くしてもらっても、どうしてもあの男が純粋な善意ではなくーー贖罪のために奔走する咎人のように思えてしまう。
(同族嫌悪、かな。罪といえば、私もーー)
「じゃあ伝えたから。……あとね、上杉」
「何?」
「問題集、役に立ったわ。あれのおかげで前より良い結果が出せた。全教科赤点回避とはいかなかったけれど。……ありがとう。私達への迷惑とか、気にしなくていいからね」
「……………………」
しばらくの間、その言葉をただの音としか捉えられていなかった。それを意味として理解したのは、もうしばらくしてからだった。
ごちゃごちゃ考えるのが面倒臭くなって、自分に充てがわれた部屋に入っていく。もともと大して物を持っていなかったので、中は簡素なものだ。
(ーーずっと欲しかった個室。私だけの、どれだけ散らかしても、どれだけ汚しても誰も文句を言わないーー個室ーー)
皮肉なものだ。
家族を失った代わりに孤独を手に入れた。
いくらお金を貰おうとも、いくら良い生活をしようとも、満たされることは無い。
心の穴だけは塞がりはしない。
死体安置所に行った時、既に父親と妹は死体として扱われていた。
青白い皮膚が恐ろしく冷たかったのをよく覚えている。あちら側とこちら側に存在する、どうしようもない隔たりに気付いてしまったのだ。
ただそれだけだ。
死んだ人は生き返らない。その事実を突きつけられた瞬間、これでもかと心が抉られーー大きな風穴が開いてしまった。
この穴は、未だ埋まらず。