<佐為の見守り霊>
佐為よ。
あなたは私を知っていますか?
知る筈はありませんね。私は誰にも見えないものだから。
平安の御世には、私のような見守り霊と呼ばれるものは、少なからずいたものでした。
霊が見守る人間は一人だけ、偶然か定めかは存じません。
その者とともに一生を過ごし、ともに神のもとに召される、ただそれだけのもの。
もちろん、神がいたとしてですが。
平安の頃には私は疑いを持ちませんでした。
でも佐為とともに千年を過ごした今となっては、私は何をも信じられない、何をも疑うこともできない、そんな気持です。
… … …
<佐為>
神様、なぜ私ではないのですか。私では、だめなのですか。
あの者と至高の対局を果たせたと思ったのに。
それが私のためのものではないなどとは。
ヒカルにその一局を見せるために、あなたは私に千年の時を永らえさせたというのですか。
ヒカルが輝かしい道を歩む。なぜ、私ではないのか。
ヒカルなんか私に勝てないくせに。
もっと碁が打ちたい。永遠の時間が欲しい。
そう思っている時に、お蔵に泥棒が入ったという話が耳に飛び込んだ。
もしや、私の寄る辺となる碁盤すら消えてしまうのか。
私は、ヒカルをせっついて、急いで碁盤を見に行った。
幸いに碁盤は盗まれては、いなかった。
ただ、碁盤のシミは、儚く薄くなっていた。
私は運命を呪いましたとも。
最強だと思っていたこの私が、ネット碁のおかげで、まだまだ強くなれることを知ったのに。
私はまだまだ成長できるのだ。
もし、私が、もう一度碁盤に戻れれば、私は神の一手に届くのだ。
ヒカルみたいな子じゃなくて、そう、例えば塔矢アキラに憑けたら。
私の未来はバラ色になれるのに違いない。
ああ、神様、お願いです。もう一度私のわがままを聞いて下さい。
そう願う私の耳にヒカルの能天気な声が聞こえた。
「お前が消えるわけないだろ。さあ、行くぞ。何だよ。怖い顔しちゃって。」
私の苦悩など知りもしない、腹立たしいヒカル。
ヒカルは先に立ってお蔵の階段を下りていく。
私はその背をじっと見つめた。
今しかない。私は決めた。
私は自分のために碁を打つ!
「な、な。何するんだよ。佐為。よせよ。危ねえじゃねかよ。わあっ。まさか嘘だろっ!佐為~…」
ヒカルの驚愕の声が階段の下へ消えていった。
私は押してなどいない、絶対に。
ヒカルが勝手に階段を落ちたのだ…。
だって私は何にも触れることは叶わない身。
そんなことが、できるわけがない。
ヒカルも私も神の定めに従うだけ。従っただけ。
でもただ一つ。私には分かっている。
私はこれで碁盤に戻れる。戻れるのだ。それだけは確かだ。
ああ、もう一度、私の願いを聞いて下さい。
私は、ただ碁を極めたいのです。
… … …
… … …
それは夢。
千年の時の流れからしたら、ほんのひと時の。
もう名前も定かではない…。
あるのはただ黒と白の碁石の響きだけ…。
… … …
… … …
<佐為の見守り霊>
見守り霊は何もできない、ただ一緒に人生を歩むのみ、ただ見守るだけ。
辛い思いをする者にはそっと共に涙を流し、喜ばしいことが起きれば、微笑みながらそっと祝福し、毎日をしずしずと過ごす、ただそれだけのもの。
私は何の力も持たない。力を及ぼさせることはない。無力なもの。
それでも、思うことはあるのです。
私はあの時、あなたに付いて、あなたを見守る霊になれて、本当に嬉しく思いましたとも。
官位は決して高くはないけれど、帝の囲碁の指南役に推奨され、雅なあなたが、しなやかな指先で碁石をすっと盤の上に置くのを誇らしく見守ったものでした。
普段は役所で、そつなく仕事をして、同僚の皆さんと和気あいあいと過ごし、時に帝の前に召され囲碁のお相手をする、平和なひと時でした。見守り霊としても、この上もなく幸せなひと時でしたよ。
あなたを陥れた男の名を覚えていますか。
菅原顕忠。
他の見守り霊の噂からですが、彼の謀は、ほどなく露見、あなたの名誉は回復されました。
都落ちした彼は、とある片田舎で、その辺りの郷士の子弟に囲碁を教えながら、静かに一生を終えたようです。
あなたが入水した時、私はそれを止めるすべは持ちませんでした。
私はあの時、あなたと水の中で、その役目を終えるのだと信じておりました。
見守り霊としてただ悔し涙にくれながら、ともに水の中でもがき、あなたの執念が碁盤に取りつくのを見守るしかありませんでした。
結局、あなたの執念は生きながらえた。ですから、その後の千年を共に過ごしてきました。
あなたも霊になったのですから、もしかしたら私を見れるのではないか、親しく話ができるのではないかと、そんな儚い夢も見たものでした。
私は見守り霊ですから、そのようなことは起こり得ようはずはないのに。私は姿も形もないものなのに。
あなたが虎次郎と巡り会えた時、私はとても嬉しく思いましたとも。
あの時のあなたは、とても謙虚でした。
あの子どもに、心の片隅に住まわせてほしいと、そっとお願いしていました。
あの子とともに、あなたの囲碁の力は花開きましたね。
元々才能豊かなあなたでしたが、時宜を得たのです。
虎次郎にあなたがどう認識されたのかは、分かりませんが、あの時の対局は、あなたひとりが思い通りに打ったわけではなかったのですよ。
虎次郎もまた同じ考えを持って打っていたということをあなたは分かってはいなかったでしょうね。
虎次郎も野心溢れる碁打ちでしたよ。それがそのまま、あなたに重なったのです。
でも私は虎次郎の見守り霊ではありません。あくまでもあなたの見守り霊ですから。
あなたが夢中になり碁に身を委ねているのをそっと祈りながら見守っていました。
虎次郎が病に倒れ、あの時、私は2度目の覚悟を持ちました。
その時にはもう私の周りには、見守り霊など、どこを探してもいませんでした。
だからやっとこれで、私は役目を終えて、他の者たちのところに戻れるのだと。
でもあなたは虎次郎と運命を共にすることなく、すっと碁盤に戻ってしまった。
私は慌てましたよ。あの時。私はまだあなたを見守らなくてはならない?
やっとあのヒカルという子に見つけてもらえた時は私はほっとしたものです。
あなたはあの時、なぜあんなに尊大だったのですか?
もしあの時、虎次郎にお願いしたように、心の片隅に置いて欲しいと言っていたら、どうなっていたのだろうかと私は思うこともありました。
でもあの子は強い子です。丸ごとのあなたをそのまま受け入れたのですから。
見守り霊でもなかなかできないことです。
あの子の潜在力があなたを惹きつけたのは確かでしょうが、それがなくても、あなたとヒカルのコンビはなかなかに楽しく幸せなものでした。
あなたはそうは思わないのですか?
それはあの子は、あの年代のあの時代の子ども特有の傍若無人ぶりで、ハラハラさせはしましたが。
でも頑張って、あなたのためにネット碁を打ってくれたではないですか。
何よりもあなたが願ったあの者との対局を、ただ一人、捨て身で画策し、実現させたではないですか。
あなたは、あの子との時間が楽しくは、なかったのですか?
私は千年の時を伸ばすことはできない。まして永遠の時など。
元々なんの力も持たない、役立たずの見守り霊ですから。
でも私の残りの時間をすべて捧げます。
仲間のところに戻してくれなどという望みも捨て去ります。
神様。どうぞ、一度だけ私の願いを聞いて下さい。
私が見守り続けた佐為の願いを何卒、聞き届けてやって下さい。
もし願いが届けば、二人にだけ違う時が流れることになりますけれど。
でも佐為とヒカルは出会ったのです。確かに。
誰にも認められない私が、まもなく消える私が、その私だけが唯一の証人なのです。
何の役にも立たない私が、それでも存在し続けたのは、このことのためであると、せめて思いたいのです。