話はほんの少しだけ遡ります。
元々逆行しているのですから、ちょっとぐらい遡ったところで大したことはありませんが。
雨の日にこうなるとはなあ。傘を差して、傘を取りに行くなんてさ。やんなっちゃうよな。
先日、眼科に行った時に忘れた傘を、ヒカルは、取りに行かされたのです。
「予備の傘はもうないのよ。」
母親の厳命でした。
あれ? あいつ?
ランドセルを背負い、パンパンに膨らんだ手提げ袋にペーパーバッグを左右に持ち、軒下にかろうじて、身をすくませている少年がいました。
傘ないのか。もっとも、あの様子じゃ、傘があっても差せないだろうけどな。
そう思いながらも、ヒカルはひょいと傘を差しだしました。
「貸してやるよ。どこまで行くんだ?」
「あ、ありがとう。駅前まで。」
「丁度良かったぜ。俺もそっちに用があるんだ。それ持ってやるよ。差せないだろ。傘。」
「えっ。悪いよ。」
「いいからさっさと寄こせよ。何だ、軽いじゃん。」
少々強引なのが、ヒカルらしいところです。
「うん。段ボールの工作だから。」
「お前、何年?」
「僕4年だよ。」
「なら同じじゃん。」
道々聞くと、学年末で、いろいろ持ち帰らなければいけないとか。
この前、ちょっと休んでいたら、まとめて持って帰ることになってしまったというのです。
「君は傘を持って誰かを迎えに行くのじゃないの?」
「そういうわけじゃないさ。こっちは予備の傘でさ。この前忘れたから取りに行かされただけ。」
そうこうしているうちに駅が見えてきました。
「あっ、僕は駅じゃなくて、そこのビルに行くんだ。四階。」
「へえ。ついでだから持ってってやるよ。そこまで。」
エレベーターに乗って四階に着くと、そこは店でした。
「あの、良かったら、お茶飲んでいかないか?」
初対面なのに大胆なお誘いです。
「えっ?だってここ店なんだろ。金かかるんじゃないか。」
もっともな、ためらいです。
「ここ、僕んちのお店だから。」
「へえ?」
ヒカルはその言葉に物珍しそうに、その子について、ドアの中に入りました。
「あら、アキラ君。雨大丈夫だった?濡れなかった?」
受付の女性がそう声をかけます。
「うん。傘、貸してもらったから。」
そう言ってアキラと呼ばれた子は、ヒカルの方を見ました。
「こんにちは。」
ヒカルはぺこんと頭を下げました。
「あら、お友達?」
「雨宿りしてたら、通りかかって、貸してくれたんだ。傘。」
「一本余ってたからな。ほら、これ、荷物。」
ヒカルは袋をアキラに差し出しました。
「ありがとう。」
そう言うと、その子は言いました。
「ねえ、市河さん。お茶出してくれる?」
「あら。君も碁を打つの?」
ヒカルはきょとんとしました。
「碁って?ここってお茶飲むのに碁を打つの?」
市河はくすっと笑いました。
「ここは碁会所っていうのよ。」
「ゴカイショ?」
「そう、ほら、テーブルに碁盤と碁石が置いてあるでしょ。」
「そういや。置いてある。」
「君は碁は打たないのね。」
「うん。打てない。一度教えてもらったことあるんだ。じいちゃんに。でもさ、次の時にはいつもすっかり忘れちゃうし。俺、物覚え悪いんだ。とうとう、じいちゃんが諦めたんだよ。」
それからアキラに言いました。
「お前って、ずっと碁、やってるの?」
「うん。僕は二歳の時からね。」
「すげえんだな。お前って頭よさそうだしな。」
それを聞いていた近くの客が言いました。
「アキラ君は、そのうちプロになるんだよ。名人のお父さんみたいにアキラ君も名人になるんだよな。」
アキラはそれに堂々と答えました。
「いつか父に追いつき、越える。それが僕の目標ですから。」
ヒカルは、アキラのその様子に、目を丸くしました。
変わった奴だな。何というか。碁を打つってことも変わってるけど、その言い方がなんかさ。
そこに市川がお茶を持ってきました。
「はい。どうぞ。」
「お茶って、お煎茶なんだ。」
「あら、紅茶だと思った?」
「ううん。俺、お茶っていうとさ、こういうの、思っちゃうから。」
ヒカルは、湯呑みをくいっと回して、両手で支えて飲む真似をしました。
「お茶ね!まさか、君お茶なんかやってないわよね。」
ヒカルの姿はどう見ても、今風のカーゴズボンに流行りのスニーカー。前髪は金色で毛先も少し跳ねています。
「えっ?やってるよ。そんなに堅苦しくない奴だけどね。俺は作法通り飲むだけ。お点前は俺の友達がやるんだよ。」
市河とアキラは驚いてヒカルを眺めました。
「君って変わっているんだね。」
お前に言われたくないと、ひそかにヒカルは思いました。
「お前の方が変わってるよ。碁やってる方が。」
アキラはテーブルに座ると、ヒカルに言いました。
「碁って難しくはないよ。君のおじいさんがどうやって教えたのかは知らないけれど。」
それから黒石を一つつまみ、ピシッと碁盤に置きました。
「こうやってね、次に白をこう置くでしょ。それでこうやって、ほらこうやれば白の勝。」
「へえ、それ面白いな。」
「これは石取りゲーム。初めはこうやって慣れていくといいかもね。」
ヒカルはアキラに誘われて、二、三回石取りゲームをしました。
「俺、黒と白の色が好きなんだ。碁って茶色のイメージがあったけど、碁も悪くないかもな。」
「茶色?」
アキラは不思議そうに言いました。
「僕は、碁って黒と白だと思ってたよ。」
「黒と白ぉ。」
ヒカルは頓狂な声を出しました。
「だって、こうやって黒の石と白の石を交互に置くんだよ。で、盤の上は黒と白に埋まっていくでしょ。」
「ああ、そうか。考えもしなかった。俺、碁盤は茶色だからって、ずっとそう考えてたよ。」
それからあたりを見回して言いました。
「ここじゃあ、碁を教えてるわけじゃないんだろ。」
「うん。」
市河が言いました。
「そうねえ。ここにもプロの先生が来ることは来るけれど、初心者向きってわけじゃないし、毎回料金もかかるしねえ。少し離れたところに保健センターがあるでしょ。あそこで初心者教室をやってるわよ。覗いてみたらどうかしら。」
「うん、考えてみるよ。打てるようになったら、ここに打ちに来るよ。俺、そろそろ行かなきゃ。」
そう言ってヒカルは立ち上がりました。
「待ってるわね。」
市河はそれから、カウンターで、ノートを差し出しました。
「君の名前もまだ聞いてなかったわね。書いてくれる。」
「俺、進藤ヒカル。そうだ、お前は?」
「僕は塔矢アキラ。」
ヒカルは出された筆ペンで、個性豊かな筆跡で名前を記しました。
「みんな、ここに名前書くの?」
「そう。それで、棋力を聞いて、同じくらいの人を紹介するの。」
「棋力って何?」
「碁の腕前のことね。同じくらいの人と打てば、楽しめるでしょ。」
「そうかあ。」
市河はヒカルの字を見て言いました。
「君って達筆なのね。」
「達筆?普通じゃない?」
ヒカルが出て行ったあと、市河はつくづくその筆跡を眺めました。
「扇子に書いても面白い字だと思うのよねえ、これって。」
それから思いました。
考えてみれば、アキラ君も普通の子とは違うけれど、進藤君て子も変わってるわ。
アキラ君といい友達になれればいいのだけれど。