ヒカルは、ベッドに寝そべりながら、碁サロンで貰ったチラシを眺めました。
『初心者向け囲碁教室。気軽に始めてみませんか。』か。
あの時、じいちゃんが教えるのをあきらめたって言ったけどさ。
俺、じいちゃんに碁を教わったのって、いつだったっけか。
実のところ、ヒカルには、その記憶は残っていませんでした。
母親が、ヒカルが落ち着きがなかったという話をするときに聞かせたことが頭にあるだけなのです。
ヒカルに碁を教えるという話が出たのは、小学校に入ってしばらくした頃でした。
保護者会の後、担任に呼び止められた美津子は、ヒカルが、授業中落ち着きがなく、教室を歩き回ったり、退屈そうに、他のことをしていると聞いて、ショックを受けました。
たまたま舅の家でその話をすると、碁を打つと落ち着きが出ると言われたのです。
家に戻って、夫の正夫にその話をすると、「まだ学校に慣れないだけだ。大丈夫だよ。碁なんてやめとけ。」そう言われたものでした。
でも美津子は、試しにヒカルに「おじいちゃんに碁を教わってらっしゃい。」と言いました。
ヒカルは、じいちゃんもばあちゃんも大好きでした。
歩いていけるところですし、小遣いをもらえると聞いて出かけました。
でもです。正座は無理、あぐらでも5分座っているのも辛抱しきれなくて。その上、言われたことはチンプンカンプン。もともと自発的に興味を抱いたわけでもなんでもないので、身を入れることができなかったのです。
ひと月後に平八からの、まだ早すぎるようだとの断念の言葉を受けて美津子は諦めたものでした。
幸いなことに、正夫の予言が当たり、ヒカルは2学期が過ぎた頃には、教室で一応落ち着いていられるようには、なっていました。
あの時、正夫は妻に話したものでした。
「おやじは教え方が下手なんだよ。俺もおやじのせいで、今でも碁アレルギーだよ。」
正夫が子どもの頃に、平八が碁仲間と一緒に毎年出場していた囲碁大会というのがありました。
そこで無敵を誇っていたのが井上さんという強者。
「アスカ町に住んでてさ。確かおやじより10くらい年上だったかも。アマの全国大会にも出たことがあるという人だった。」
ある年、その井上さんに平八は、勝ったというのです。
「親父は、それからはもう大威張りの天狗でさ。アスカ町の井上さんに勝ったのはわしだけだの台詞ばっかでさ。」
その井上さんの息子が碁が上手らしく、平八が対抗心を燃やして、正夫に無理やり碁を教え込もうとしたらしいのです。アスカ町は葉瀬町の隣のそのまた隣の町ですから、比較的ご近所なのです。
「俺は碁も将棋もそういうの好きじゃなくてさ。親父はわめくばっかでさ。」
正夫がいうには、おやじが碁をヒカルに教えようとしたのはきっとその井上さんの孫が碁をやってるからじゃないかというのです。
そのことを思い出して、ヒカルは呟きました。
俺、お父さんと同じで、碁はだめだよな。きっと。でもあの塔矢って奴のあれ。
ヒカルは塔矢アキラの指先を思い起こしました。
人差し指と中指でぴしっと石を置く動作。あれって結構かっこいいし、しびれるよな。
そう思うと、何となく未練たらしく、チラシをポケットに突っ込みました。
間もなく春休みとなりました。
「ヒカル?どこ行くの?」
美津子が外に出かけようとするヒカルを呼び止めました。
「別に、散歩だよ。」
ヒカルはぼんやり考えていました。
じいちゃんをびっくりさせてやるというのは、ちょっとそそられるけど。
やっぱ、俺には無理なんじゃないか。
何でそんなに碁のことが引っ掛かるのか、ヒカルには、分かりませんでした。
ジャケットのポケットにねじ込んでいた、くしゃくしゃの紙を引っ張り出しました。
実にタイミングよく、風が吹いてそれが飛んでいきました。
ヒカルはそれを見つめて、これでふっきれたのかなと思いました。
しかし、そのチラシは近くを歩いていた人の足元に転がり、その人はそれを拾い、ヒカルを見つめました。
君の?という目です。
ヒカルは、仕方なく頷きました。
その人はヒカルに渡す時に、ちらとそのちらしに目を通しました。
「あなたは囲碁をやるの?」
「いや、それ貰ったんだけど。」
「どこで?」
「駅前に碁サロンがあるんだよ。そこで。」
「碁会所に行っているの?」
「ううん。」
ヒカルは何となくその人と話をする羽目になりました。
「ちょっとそこに腰掛けましょうよ。」
ベンチに腰掛け、かくかく云々と傘を貸した話をすると、その人は目を見開き言いました。
「そう、あなたがそうなの。奇遇だわ。私、その塔矢アキラの母親なのよ。あの日帰ってきた息子が傘を貸してくれた話をしてくれてたわ。どうもありがとう。」
「ゲッ、塔矢のお母さんなの?」
その女性は、その言葉に笑い、言いました。
「君は碁をやってみようか迷っているのね。私は一度も碁を打ったことないけれど、私と違って、あなたは若いんだから、どんどんトライしたらいいのに。」
「うん。俺も、碁をやってみようかなあと思ったんだけどなあ。でもなあ、俺、碁に向いてないかもしれないし。」
ヒカルも何となく深ぁ~いため息をつきました。
それを見て 女の人は、また笑いました。
「そういうため息は私がつくものよ。夫も子どもも碁を打つことしかない家なのよね。その家で、ちょっと初心者が碁を打ってみたいと思うと、教えてもらえないのよね。」
「おばさんは、なんで碁を打ちたいと思ったの?」
ヒカルは尋ねました。