「本当に、私のことを何と思っているのかしら。」
明子でもいらいらすることはあるのです。
夫の性格は分かっています。今更です。
今の生活に不満はございませんことよ。
夫もできるだけ私に負担をかけないようにしてくれている。分かっていますとも。
研究会を棋院で開くのも、そういうわけでです。
でも妻が碁に関心を示すことは夫には不満なのでしょうか。
夫は幽霊さんの代わりに石を置かせていることを申し訳ないと思って、碁に関心を持たなくていいと言ったのよね。
そう思いたい明子でした。
問いただしてみれば、行洋の真意も恐らくその辺りかもしれません。
あの言葉はそれでも、対局に集中したいから出た言葉でしたが。
それでもです。妻が何に関心を持っているのか、気にしないということはあるのかしら。
そもそも私が幽霊についてどう思っているのか、聞いてみたこともないわ。
夫と自分の生活の中にあるすれ違いに明子は、歯噛みしたい気分でした。
それにしても私もつくづく若かったのよね。
こんな人に良く惚れて結婚したものよね。
何で見合いの時、あれほど行洋に夢中になったのか、今となっては分かりません。
かといって、他の男だったら、いいとかいうものでもなし。
明子には他の男と一緒にいる自分など、想像できませんでした。
例え、今夫と自分の間にある距離感に悩んでいても、夫を嫌いだとかいうものでもないのですから、厄介です。
本当に人間で、面倒くさいものよね。
食事もおいしいのか、まずいのか好きなのか嫌いなのか、反応はありませんし、特に会話がないのですから。
でも同じように主婦してる友人に聞くと、おいしいとは言わないけれど、まずい時は言うのよ、とか、
料理の腕ではなくて、単に好き嫌いしかないのよ、とか、そういう話。
何も言わずに食べてくれる方がいいというのがみんなの意見なのです。
会話なんてあるような無いようなものよ。とも言われました。
それでも明子には何となく、すまながっている夫の気持がほんのり伝わっては来るのですから。
それがあるから、やっていけるのよね。
今一番やりにくいのは、幽霊について、アキラに伏せておくということでした。
アキラさんが幽霊を怖がる?
それはあの時はそう思いましたが。
でも息子が幽霊を怖がるとはとても思えないのです。
行洋が、今幽霊についてどう思っているのか、それが聞きたい明子でしたが。
碁は打たなくていい。石を置くだけでいいからと言われた時から、わだかまりがあって、明子は、それ以上、幽霊について、行洋と話ができなくなっていました。
いろいろ話し合いたいことがあるけれど、それを話せる人が、明子には今いないのです。
これが、単なる夫の愚痴なら、友達はいます。
でも幽霊を信じる人がいるかは疑問です。
そもそも、夫も緒方さんも、幽霊さんと打ってはいても、それでもその存在に半信半疑なのよね。
夫はそういうことを考えるのを止めるすべにたけているから、今はそのことを何も考えていないかもしれないわ。
ところで、最近、佐為は、週1、2回の対局に不満を持ってきていました。
鍛練?
どういう鍛練をしたのか分かりませんが、佐為は、以前より幽霊として碁を打つ体力がついてきているようでした。幽霊に体力があるのかという疑問はさておきです。
行洋も緒方も最新の棋譜をあちこちで検討したり、いろいろな棋士と打ち合いをしたりしていますが、佐為はそれを知る機会がありません。
緒方と行洋が自分の前で、対局の検討をした時に目にすることがやっとなのです。
私はなかなか強くなれないではないですか。
それは何も明子のせいではないのに、佐為はそのイライラを明子にぶつけるのです。
明子には、その佐為のイライラが家を覆っている気がするのでした。
そこで明子もイライラするのです。
誰か信じてくれる人と思いっきりお喋りしたいわ。
それは息子のアキラが一番に違いないのですが、それができないとは。
そういう時にです。気の合いそうな人間に出会ったのです。
碁はやったことはないけれど、興味はある。
アキラと面識がある。年齢も同じ。
彼は幽霊を信じるかしら。
「君は進藤君っていうのね。君は幽霊とか信じる?」
突然に話が飛んだのですが、ヒカルは驚くこともなく明子を見つめました。
「おばさん、幽霊を見たの?」
「そうねえ。見たというより、家に住みついてるのよ。」
「へえ、すごいんだ。じゃあ、塔矢の奴も幽霊を知ってるの?」
「それがね、幽霊を見れるのは私一人なのよ。」
「へえ、そうなんだ。幽霊って誰にでも見えるもんじゃないんだな。おばさんてすごい能力持ってるのかな。」
この子は、幽霊を認めることができる子ね。
そこで明子は、幽霊の話を詳しく話して聞かせたのです。
ヒカルは、幽霊が碁盤についているという話に、何か心を惹かれました。
かといって、それで逆行の記憶が覚まされたというわけではありませんでした。
「おばさんは、塔矢のお母さんなんだよね。やっぱり。
碁は打たなくても、何か、碁と関係があるんだよ。だから幽霊が見えるんだ。
幽霊もきっとおばさんに会えて嬉しがってるんじゃないの?」
「さあ、それはどうかしら。」
明子は、そういうと、幽霊との関係やら何やら、悩みをすっかりヒカルに話していました。
夫婦の関係などヒカルにはちんぷんかんぷんではありましたが、そんなことは何も関係はありません。
ヒカルは、断言しました。
「俺がおばさんみたいな立場だとしたら、きっと俺も碁を打ってみたくなるよ。絶対。碁って何か知りたいと思う。だって自分だけが、なんか仲間はずれみたいで悔しいじゃん。」
その時、ヒカルは、明子にとってぴったりの聞き手でした。
まさに望んでいた通りの人物ね。
明子は、ヒカルの言葉に嬉しそうに頷きました。そうよねえと言おうとしたその時でした。
「ヒカル?何してるの?」
美津子が買い物袋を提げて、通りかかりました。
「どなた?」
「あっ、お母さん。このおばさんは、塔矢のお母さんなんだ。」
「塔矢?くん?クラスのお友達?」
明子はさりげなく如才なく挨拶をしました。
「初めまして。私、塔矢明子と申しますの。息子は進藤君とは学校は一緒ではありませんけれど、この前の雨の時に、進藤君に傘をお借りして、助かったと申してますの。今日はたまたま出会ってお話して偶然、そういうことが分かって、ついつい話し込んでしまって。ごめんなさい。」
明子の立て板に水の喋りに美津子は、いえいえと言いました。
「俺、そん時塔矢に店でお茶をご馳走になってさ。」
ヒカルが、一言、口を挟みました。
お茶を?ヒカルは塔矢って言っているけれど、息子さんて一体いくつ?この人、私と大して年は違わなくない?店でって、一体どこでお茶をご馳走に??
疑問が頭に浮かび、美津子は言っていました。
「もし、お時間あったら、家に寄っていらっしゃいません。ちょうどお茶菓子、買ってきたところですの。家まで、5分もかかりませんし。」
舅のところへ持っていこうと思っていたけれど、別に今日じゃなくてもいいわ。
そんなことを考えながら、美津子は道々話していました。
「ヒカル、子どもっぽくて。」
「あら、そんなこと、全然ありませんわ。むしろ大人って感じがするわ。堂々と落ち着いていて、お母様のお仕込みがよろしいのでしょうね。」
明子は先ほどのヒカルの言葉に対する賛辞を込めて、最大限に褒めそやしました。