明子は、美津子の申し出に喜んでついて行きました。
その時に決心していました。
進藤君に囲碁をやってもらわなくちゃ。
彼を囲碁教室に通わせるというのは、いい考えだわ。
だって、私にはできないことですもの。
明子はすぐに美津子の懐柔に取り掛かりました。
明子は策士ではありませんが、塔矢行洋のような男と結婚して、永年うまくやってきたのです。
結婚してから磨きのかかったおっとりとした精緻な話術で、明子は話をしました。
お茶を出しながら、美津子はうんうんと頷きました。
そう、この人のご主人は囲碁の棋士なの。
変わった職業だけれど、要するにお見合いで一目ぼれして結婚したわけね。
きっと大変なのよね。接待とか、後援会とか、もしかして政治家の奥さんとか見たいじゃないの?
美津子は美津子で、明子の話の内容を脳内でさらに加速させていきました。
要するに人付き合いだけでなく、碁の雑用も引き受けてきたので、自分も囲碁がどういうものか知りたいと思ったのね。息子がやっているのよね。お父さんと同じ棋士を目指して。
主人が何をやろうが構わないけれど、息子がやるものを母親が知らないっていうのは、納得いかないわよね。
でも、ご主人は口出しするなってわけね。それって横暴じゃないの。
別に口出しでなくてちょっとわかりたいってだけでしょ。
「ヒカル君の持っていた囲碁教室のちらしだけれど、是非そこに通ってみてほしいの。私はその白川先生という方とは面識があるからまずいのよ。その方の先生が、主人と友人なんですの。だから是非ヒカル君が碁を習って、私に少し教えてくれると嬉しいのですけどねえ。」
「俺?」
ヒカルは二人の話を無視してお菓子をぱくついていたのに、急に話が振られて目を白黒!
「ヒカル。囲碁教室へ行きなさい!」
美津子の一声です。
美津子は大体、子どもにああしろこうしろと言うたちではありませんでした。
明子とは違った意味でおっとりしたところがあるのです。
今まで、ヒカルがやりたいと言わなければ、何をしろと言ったことはまずありませんでした。
平八に碁を教えてもらいに行けと言ったほかはです。
夫の正夫がそういう性質なのです。
ほっとけというのが彼の口癖でした。
子どもの自主性を尊重するというより、面倒くさいというのが本音かもしれませんが、ヒカルにとっては、実にありがたい親でした。
「碁を覚えて、おじいちゃんを驚かせてあげなさい。喜ぶわ。きっと。」
敬老の日のいいプレゼントになるんじゃないのという気持で、美津子は言いました。
「塔矢さんの息子さんは、中学はどちらへ?」
「主人が海王中の出で、あそこは囲碁が盛んな学校なんですって。ですからそこを受けさせるつもりですの。」
「まあ。頭が良くていらっしゃるのね。」
「いえ、そんな。ですけど、もしかしたらそれは囲碁の効用かもしれませんわ。最近学習効果を狙って、碁を取り入れる学校が増えてきているという話を聞いたことがありますわ。」
まあ、そんなことが。それは一石二鳥かも。
そんなこんなで、明子と美津子はずれあったまま、意気投合。ヒカルは囲碁教室へ、通うことになりました。
すぐに入った囲碁教室ですが、碁会所と同じ、大人ばっかりです。
おじさんとおばさんばっかで、子ども、一人もいないぜ。
もしかしてここは大人専用と違うんじゃないか。
ヒカルは、びびりました。
そこににこやかに、先生がやって来ました。
学校の先生よりは、優しそうな感じだな。
そういや、この先生の先生が、塔矢のお父さんと友達って言ってたな。
ややこしい。
「君は何で囲碁を始めたいと思ったの?」
「うん。実はじいちゃんが、碁を教えてくれるって言ったけど、何言ってるか全然分かんなくてね。無理って、諦められたんだ。俺も興味はなかったし。この間、たまたまこの囲碁教室のちらし貰ったんだけどね。お母さんがそれを見て、ここへ行って、囲碁を覚えておじいちゃんをびっくりさせなさいって言うんだ。それで、ちょっと来てみたわけ。」
ヒカルの話に、白川は考え込みました。
実は。ヒカルが入会すると言ってきた時、とても張り切っていた白川でした。
大人も悪くはないけれど、もう少し、何というか…。
若い子が入ってきたと期待してたのに、もしかして、そんなに出来の悪い子なのか?
しかも碁が面白そうとか、そういう興味を持っていない子なんだ。
僕は何と星の巡りの悪い人間なんだろうか。
だけれど、待てよ。
今どき、理由はなんであれ、碁をやろうという子は貴重だ。
この子が碁を楽しむようになれば、碁のすそ野が広がる役に立つのだろうか?
そこまで、深い気持ではありませんでしたが、とりあえず、この“出来の悪そうな”子供を、碁を楽しめるようにしてやらねば、そのおじいさんとやらと打ち合えるようにしてやらなければと、責任を感じてしまった白川でした。
そうなのだ。進藤君の未来は、僕の腕にかかっているわけだ。頑張らねば。
この子が途中でやめてしまう事態だけは絶対に避けなければならない。
固く決心した白川でした。