進藤君を囲碁教室に通わせるのは成功したわ。
ついでに、私も一応碁について知ることができたわ。
明子は時々、ヒカルの家を訪れ、ヒカルにいろいろ聞きました。
ヒカルには確かに、逆行の記憶が眠っているに違いありません。
碁についての説明が的を得ているのです。
明子は、初心者なりに碁の打ち方が分かってきました。
たまにはあかり相手に打つことすらあるのです。
今では、それこそ、囲碁教室に入ったばかりの同年代の人たち程度には、打てるようになっていました。
碁がつまらないとは思わないわ。そう、面白いものだとは思うわ。
でも私は、碁はこのくらいで、いいかな。
あまり野心の無い明子は、そう思うのでした。
美津子さんやあかりちゃんとのおしゃべりも楽しいわ。
いろいろ分かって気分も晴々してくるけれど。
ただ、自分の家の居心地は、相変わらず、よくありませんでした。
あの幽霊さんを何とかしないといけないわ。
その佐為ですが、自分がどうしたいのか、明確には、分かっていませんでした。
でもこのままでいいとは、とても思えません。
私は、確かにもっとあの者と打ちあいたいと願いました。
その願いは叶っています。
しかもあの者だけでなく、もう一人の強豪とも打ち合っているのに。
それなのに、中途半端な気持ちがぬぐえないとは。
私は一体何を望んでいるのでしょうか。
前に人に憑いていた時は、何も考えなかった佐為でした。
碁を打つことがすべてで、充実した時が流れていたのに。
碁を打つことで派生する諸々のことは憑かれた人間が考えればよかったのです。
ヒカルはだから棋士になったのです。
虎次郎は、優れた棋譜をこの世に残したのです。
あの奥方は、私を見ることができるのに、なぜ私はとりつけないのでしょう。
私ではなく、あの奥方のせいです。
あの奥方が、心を開いてくれないから、とりつけないに違いありません。
明子は時々佐為が恨めしそうな何とも言えない形相で、自分を見ているのに、嫌気がさしていました。
私はやれることはしてあげていると思うのに。
確かに夫も緒方君も、幽霊さんと打っているにしては、この幽霊さんに冷淡すぎる気もするわ。
でもそれは私の問題ではなく、夫や緒方君と幽霊さんとの問題でしょう。
だから明子には、佐為が自分に対して、執拗に絡んでくるような態度にはとても腹が立つのでした。
一体、私に何を期待しているのかしら。
幽霊さんは、もしかしてアキラさんとも打ちたいのかしら。
夫や緒方君に飽きて、もっといろいろな人と打ちたいとか思ってるのかしら。
もしかしたらきっとそうなのね。
そんな時、明子は、その話を聞いたのです。
「白川先生はネット碁はしないんだって。でも碁会所は大人だと一回千円はとるだろ。だから、ネット碁をやってるって人が何人かいるんだよ。あの教室でも。」
ヒカルがあかりに話しているのを聞いたのです。
「ネット碁って難しくないの?」
「さあ。知らない。けど、やり方が分かれば、あとは碁を打つだけなんだろ。ちょっと興味があるよな。」
「ヒカル、やるの?」
「だって、うちパソコンないもんな。」
「おじいさんに頼んだら。」
「じいちゃんに?うーん。でもさ中学生にならないとダメって言われるかもな。あかりんちにはないのか、パソコン。」
「ないよ。お姉ちゃんが高校生になったら、買ってもらえるかも。」
「高校かあ。」
先の話だな。
ネット碁ですって?
あの幽霊さんの何とも言えない表情を見るぐらいなら、そうだわ。
佐為に嫌悪と同情の両方を抱いていた明子は決心しました。
夫にはないスキルですから、緒方にまた連絡を取りました。
「緒方さんは、ネット碁をなさってるのでしょ。」
かくかく云々、幽霊が、最近体力?をつけて毎日のように打ちたがっているみたいなのよ。
「で、奥様がネット碁を?」
「ええ、あの納戸を整理したの。テーブルも置いたからあそこにパソコンを置いて、ネット碁ができるようにしたいのだけど。」
夫の書斎にパソコンは置けないだろうと思う明子でした。
緒方は、明子を通して幽霊と対局している弱みもあって、協力を約束しました。
それに幽霊がネット碁を打つというのには、興味がありました。
あわよくばネットでも、あの幽霊と打てるわけだな。
まあ、それでなくても、弱者相手にどんな手を打つのか、みてみたいものだ。
緒方はそう思いました。
アキラの部屋にはすでにネット環境が整っていましたから、納戸で、ネットができるようにするのに、それほど時間はかかりませんでした。
アキラさんに分かってしまったら、それまででしょ。
居直っている明子でした。
「というわけでね。幽霊さんにネット碁を打たせてあげようと思うのよね。」
「わあ、いいな。」
ヒカルは明子からその話を聞いて、羨ましそうに言いました。
「それで、名前を何にしようか迷ってるの。」
「名前?名前って?」
「ネット碁って、本名でもいいのだけれど、登録名っていうので打つのよ。何でも好きな名前で打てるの。好きなドラマの主人公の名前借りたり、いろいろ。」
「おばさんの名前の明子じゃだめなの?」
「うーん。でも私は操作するけれど、打つのは幽霊さんでしょ。でも幽霊なんて名前で登録するのは、あまりにひどいし。」
「あのさあ。その幽霊、名前ないのかな?」
「あっても話ができないのよ。聞けないわ。」
「ほら、指で書いてもらったら、できるんじゃないかな。」
ヒカルは座っているベンチの空いているところに、ヒカルと自分の名前を書いて見せました。
明子は、なんで今まで、そういうことを考え付かなかったのだろうかと思いました。
「そうね。そうだわ。考え付かなかったわ。ありがとう。」
明子は、 緒方から、ネット碁のやり方を教えてもらいました。
佐為は自分の不運やら不満を嘆くのに忙しくて、すぐ傍で何が行われているのかに、全く気を使うことがありませんでした。
佐為には、明子が何をするのかなどに、全く関心がないのです。
佐為にとっては、明子というのは、石を置くのに必要な人物ではあっても、碁が打てない、あるいは凡庸な碁しか打てない人間なのでした。
だから碁を打つ時以外に何をしてようと構わなかったのです。
自分がいかに甚だしい勘違いをしているのか、気付かない佐為でした。
幽霊さんと筆談をする?
何で私はそこまでしなければならないのかしら。この失礼な幽霊さんに。
でもやるしかないのよね。ここまできたら。
あまり優しい気持を持てないままに、明子は佐為に向かって言いました。
「あなたのお名前を教えてちょうだい。指で畳に書いてくれればいいわ。そうね。ひらがなかカタカナがいいわ。読み易いでしょう。」
佐為はいきなりの明子の言葉に驚きました。
藤原姓など書くまでもないことなので、佐為は、言われるままに畳に指で『サイ』と書きました。
「サイ?そう、サイさんでいいのね。分かったわ。」
何だか、ずい分あっさりした名前ね。