ヒカルの碁の腕は、逆行前の状態へと、急速に覚醒していきました。
逆行前の生活の記憶は、よみがえらないのですが、囲碁のスキルだけは、それとは別に、碁に触れる度に、目覚ましく回復していたのです。
楽しい。棋譜を並べるのも詰碁も何もかも楽しい。もちろん対局も。
それがヒカルのたった一つの気持でした。
もちろん消えたものは必ず探すさ。でも今はこれが楽しいんだ。
秋風が吹く頃には、既に平八とは置石なしで勝てるようになっていました。
「ヒカル。強くなったのね。」
あかりはそれを見て言いました。
「本当にヒカルは、すごいぞ。お前は今の教室にずっと通うのか?」
平八は聞きました。
ヒカルは首を横に振りました。
「辞めるつもりさ。だって、先生といつも打てるわけじゃないし、あそこですることはもうない気がするんだ。」
「私、その教室に行ってみようかな。ヒカルがそんなに強くなれたんなら、私もやってみたいもん。」
11月になった時に、ヒカルは教室をやめると白川に告げました。
うん。やっぱりか。進藤君には、もうこの教室のレベルはつまらないんだね。
進藤君は、阿古田さんとは最近対局はしていないけれど、もう阿古田さんも勝てないだろうね。
とすると、僕の楽しみは無くなって、阿古田さんだけが残るのか。
白川は、ため息をつきました。
ヒカルは実際のところ、阿古田に対する強力なストッパーでした。
阿古田はひどくあくどい手で、弱い者いじめをするのですが、ヒカルが強くなってくると、そうもしていられません。
それでもたまにいじめにあい落ち込んだ生徒の相手を、白川はヒカルに頼みました。
ヒカルは実にうまく、いじけている相手の気持ちをほぐしてやることができました。
「おじさんもすぐ打てるようになるよ。楽しいと思えたら、すぐなんだ。俺なんてさ、碁は打てない、向いてないって言われてたのにさ、この教室で教わったら、楽しくってさ、ずいぶん打てるようになったんだよ。あっ、そこよりこっちの方がいいよ。ほらね。」
そんな話をしながら…。
「進藤君は、今日でやめるんだってね。」
「寂しいわね。たまには顔を見せに来てちょうだいね。」
教室で親しくなった人たちが残念そうに言いました。
「うん。もちろん。」
「ふん。わしにしっぽを巻いて、逃げるとは残念だね。」
阿古田は、内心ほっとしながらも、早速、嫌味を一言。
ヒカルはまだ阿古田と対局していませんでした。ヒカルに、もうその気が失せていたからです。
ヒカルは阿古田の言葉を余裕でかわしました。
「俺の代わりに、次から俺の友達が来るって言ってるから、よろしく。」
「あら。進藤君のお友達が?それは楽しみね。先生。」
「そう言ってたね。同じ学校なんだって。」
「うん。同じクラスなんだ。俺が打っているのを見て、碁に興味が出たんだってさ。」
また若い子が来てくれるのは嬉しいけれど。
進藤君はいじめられるような子じゃなかったけれど、その子は大丈夫かな。
白川はちらりと阿古田の顔を見ました。
阿古田は手ぐすね引いて待っているといった風情でした。
阿古田のあくどい対局で、この教室を去った人の数を、白川はそっと数えてみました。
その日、指導が終わった後、ヒカルは白川に聞きました。
「先生。もう少し強い人のいる教室を教えてよ。あっ、教えて下さい。」
白川はうーんと腕を組みました。
「うーん。進藤君に向いているところね。ちょっと、考えてみるよ。しばらく待ってて、くれるかな。」
もちろん教室はいろいろ知っているけれど、彼に合う教室となると…。難しい。
というか、わずか8か月ほどの間に、ここまで打てるようになった子を手放すのは惜しい。
間違いなく進藤君は逸材だ。
そう思う白川でした。
ヒカルのことはさて置き、次の週の教室の日です。
その日は、白川にとって、記念すべき日になりました。
「藤崎あかりです。よろしくお願いします。」
「あら、進藤君のお友達って、女の子さんだったのね。」
あかりは、得意の全方位外交で並み居る大人たちをがっちりと捉えました。
元々の素質に、自然と覚えた明子のスキルも加わっているかもしれません。
特に、阿古田さんがあかりにメロメロになったのでした。
「阿古田さんてこの教室で一番強いんだって、ヒカルが言ってました。」
あかりは、そう阿古田に言いました。
あいつは意外にいい奴なんだな。
阿古田はヒカルのことをそう考えました。
「いやいや。ははは。何でも聞いていいからね。」
阿古田は鼻の下を伸ばして嬉しそうです。
阿古田の弱い者いじめは、この時からピタッとやみました。
あの阿古田さんが、何とかなった。
藤崎君にお礼を言わなくっちゃ。いや、進藤君にお礼を言うべきなのかな。
白川は、心も軽く生徒の対局を見て回りました。