ヒカルは、囲碁教室を辞めましたが、特に当てがあったわけじゃありませんでした。
そういうことをあまり考えないでことを進めるのがヒカルらしいことなのです。
この頃、塔矢のお母さん来ないな。
ネット碁、どうなったんだろう。
俺もじいちゃんにパソコンねだってみようかな。
でも小学生じゃ早いって言われそうだなあ。
そうだ、一度、あの碁サロンに行ってみようかな。
ヒカルは、駅前の碁サロンへと足を向けました。
「こんにちは。」
「あら、えーと…。」
「進藤ヒカルだよ。」
「そう、進藤君だった。元気にしてた?」
「うん。」
ヒカルは、店内を見回しました。
「今日は塔矢、いるの?」
「来てないわ。」
「そうなんだ。」
「進藤君。少しは打てるようになった?」
「うん。あのチラシの教室に、四月から通ってたからね。」
「そう、もう半年以上は経つのね。」
「うん。」
その時、通りかかった芦原が声をかけました。
「市河さん。その子は?まさかアキラのライバルとか?」
いや、アキラより強い子なんて、いるわけないよな。
でもアキラに友達っていうのも、もっと変かも。
まあ、芦原さんは、アキラ君には友だちがいないと決めてかかっているのね。
まだお友達とは言えないけれど、でもお友達になれる子よ、進藤君は。
そういう期待を込めて、市河は言いました。
「芦原さん。進藤君はお友達なのよ。アキラ君の。“碁”友達ではないわよ。“お”友達なのよ。」
ヒカルは、その言葉に首を傾げました。
友達っていうんなら、塔矢のお母さんの方が友達みたいだな。
「へえ。アキラにもいるのか。そうだよな。いなくちゃな。うんうん。じゃあ、また。」
にしても碁抜きの友達だって?
芦原は、納得したようなしないような気持で、出ていってしまいました。
芦原の後姿を見ながらヒカルは言いました。
「少し打てるようになったら、来てみるって言っただろ。だからちょっと来てみたんだ。」
「進藤君の相手になりそうな人ねえ。アキラ君がいてくれたらいいのだけれど。」
市河は、店内を見回しました。
「いいよ。別に打たなくたって。それよりね。あの教室、大人ばっかでさ。もう少し子どもがいるところってないのかなって思って、聞きに来たんだ。」
何となくやめたと言いにくいので、ヒカルはそう、遠回しに言いました。
市河は意外に理解を示しました。
「そうねえ。進藤君の学校には囲碁部はないのね。」
「ないよ。小学校だぜ。」
「あら、小学校だって、あるところにはあるのよ。じゃあ、中学は囲碁部のあるところがいいわねえ。」
「俺、受験しないよ。」
「中学の大会じゃ、公立中もたくさん参加してるわ。君が行く予定の中学、お友達にお兄さんとかお姉さんが行っている人いないの?どんな部活があるのか聞いてみたらいいんじゃないの?そうね。なかったら進藤君が作るってのはどう?」
ヒカルはそれを冗談だと思いました。
そういや、あかりの姉さんて中二じゃなかったっけ。あかりに聞いてみよう。
次の日、ヒカルは学校の帰りにあかりに聞きました。
「碁サロンに、ちょっと行ってみたんだよ。そうしたら、中学で囲碁部に入ったらって言われたんだ。葉瀬中に囲碁部があるか分かんないだろ。あかりの姉さんなら知ってるんじゃないか。」
「うーん。聞いたことないけど。でも聞いてみるね。だけど、ヒカル、まだ中学生には、なれないよ。だって5年生だもん。」
「うん。分かってるよ。そんなこと。」
あかりはそれから思い出したようにヒカルに言いました。
「そう言えば、白川先生がね、暇な時に覗いて欲しいようなこと言ってたよ。」
「へえ。もしかして、教室が見つかったのかな。」
翌週の囲碁教室が終わる頃、ヒカルは教室を覗きました。
「あら、ヒカル君じゃないの。藤崎さんのお迎え?」
「えっ、違うよ。久しぶりにおばさんの顔を見たくなったんだよ。」
そのおばさん、もとい熟年女性は、「まあ」と言って、それでも嬉しそうに笑いました。
ヒカルの周りには結構な女性が集まって、何やかやと話が弾みました。
若い男の子は何といってもいいものです。少々若過ぎるかもしれませんが。
ヒカルにも、明子のスキルが身についてきたのでしょうか。
それとも、もともと年上にもてるタイプなのでしょうか。
進藤君は、碁だけじゃなくて、そういう才能もあるのか。いいな。僕にはない能力だ。
白川はその様子を横目で見ながら思っていました。
皆が帰った教室で、白川はヒカルに話しました。
「進藤君は、碁をずっとやっていって、どんなことがしたい?ただ強くなりたいわけじゃないと思うけど。」
プロになりたくないかいというメッセージを込めて、尋ねました。
「えっ?」
ヒカルには白川の意図がつかめませんでした。ちょっと目をぱちくりしました。
実は、強い人と打って勝ちたいと思っていただけでしたから。
要するにただ強くなりたかったのです。
それ以外には何もないけれど。
でも、まさか、そういうわけにはいかないよな。
ヒカルにもその程度の気働きはありました。
「この間ね。囲碁部に入ったら、同い年くらいの子たちと打てるって言われたんだけどさ。小学校にはないし、行く中学にも囲碁部があるか分からないんだよね。まだ俺五年だけどさ。」
そうか、囲碁部か。囲碁部の大会とか出たいのか。でもそういうレベルではないのだけれど。
君は、囲碁暦が一年に満たないのに、もう院生試験をらくらく突破する力を持っているんだけどね。
「進藤君。いろいろ教室のことを考えたんだけどね。君には教室より、上手の人にたくさん打ってもらうのがいい気がしてね。それで、私の師匠に、弟子をとる気がないか聞いたんだけれどね。今はプロを目指す弟子が一人いて、手いっぱいで無理だからって言われてね。」
「先生の師匠?」
って、塔矢の親父さんの友達だよな。どんな人なんだろ。
「それでね。私が教えたらいいんじゃないかって言われてねえ。」
自分から君を弟子にしようとは言い難い白川です。何となく回りくどい歯切れの悪い話し方になりました。
でもヒカルはずばりと言いました。
「もしかして、それって俺を白川先生の弟子にしてくれるってこと?」
「弟子って程じゃないけれど、当分僕が君の相手をしようと思ってるんだ。」
「わあ、嬉しいな。それで、弟子って何をすればいいの?」
「いやいや、特に何かしてもらうほどのことはないよ。君はまだ小学生だ。とりあえずは時間が空いているときに君と打つってことを考えてるんだけどね。」
「はい。お願いします。」
「ここじゃまずいので、場所は、やっぱり僕の家になるのかな。何かいい方法を考えようか。」
幸い白川の家は、一駅ほど離れたマンションでした。
試みとして、週に二回ほど、白川の暇な時に、通うことになりました。
美津子は考えました。
弟子って雑用をする人のことよね。付け人?
美津子の思考は、少しずれていました。
小学生だから、打つだけでいいって言われたのよね。
要するに個人レッスンということよね。
とすると、お月謝とか必要でしょう。おいくらかしら。聞かなくては。
冬休みに入る前には、ヒカルの弟子生活が順調に始まりました。
一局ごとにヒカルは力を伸ばしました。
そして白川もまた、そのヒカルの技量に触発されていきました。
さて、一月の下旬でした。あかりが言いました。
「明日、中学の創立祭があるんだよ。いろんな部活がお店を出すんだって。ヒカル、行くでしょ。」
あかりはヒカルの返事を期待などしていません。当然イエスだと思っていますから。