…
佐為~。
ヒカルには、何が起きたのか、理解できませんでした。
一番初めに、視界から消えたのは、佐為でした。
それから走馬灯のように、三段との対局やら何やらが、逆回りするように過ぎて行きました。
白石と黒石が舞い散り、佐為との日々が薄れていく。
えっ、何。どうなってるんだ。
佐為も碁も何もかも消えていく。
でも存在の証はある。
消えた証に、そこには何もない空洞が残っているだろ。
いや、それも縮んでいっている?
もしかして、その証も消えてしまうのか。
声が響く… ...すべてなかったことに...
ああ、俺、もう何もわからないよ。
俺も、もしかして縮んでいる?
...もっと、前に。赤子の時まで。そうすれば穏やかな時が始まる...
その声に抗うようにヒカルは必至で空をつかみました。
ふわふわしてる?白い?黒い?
声が響く ...もっと、もっと前に。だめだ。そこで止まってはいけない。それでは消せない ...
ヒカルは抗いました。
渦巻くような流れの中で、花ビラのような、白い光と黒い影のような、その色だけが、ヒカルの中に妙にからみつくように残りました。
そこには、戻りきれなかった時の証が、細い道のように、微かに続いていました。
…………… …………… ……………
なんだ?
白くて黒くて、もしかしてふわふわしてた?
ヒカルにそんな感想が浮かんだ時、声が聞こえました。
あかりか?
「ヒカル。目を開けたよっ。」
救急車に乗せられる時でした。
「体のあちこちに打ち身があるので、しばらくは痛みが残ります。
でも奇跡ですよ。この程度の怪我ですんだというのは。
運動神経が優れているのでしょうねえ。
厚手のジャケットを着ていたことも幸運でした。
確かに、頭を打っているので、多少意識の混濁があるようですが、一過性のものと思います。」
ヒカルがその歩道橋の転落事故に出会ったのは、2月の初旬のことでした。
階段を登ろうとしたヒカルの上に、降りてきた子どもが足を滑らせて落ちてきたのです。
一緒にいたあかりの母親が詳しい状況を美津子に話して聞かせました。
「ヒカル君は、ぶつかったというより、受け止めようとしたのよ。
ヒカル君がクッションになって、その子も大した怪我はしていないって。
3歳だとか言っていたけれど、小柄だったから良かったのね。」
ヒカルは、入院することなく家に戻りました。
2、3日は、家で安静にということで、ヒカルはベッドに転がってぼんやり考えていました。
今がしっくりこない。その感覚を誰にどう話せばいいのだろう。
でもどう違うのかも言えない。
部屋に見覚えのないものは何一つない。本も漫画もゲームも、服も。
ランドセルに、ペンケースも、中の消しゴムのちびり具合まで、記憶通り。
これですべてなのだろうけれど、それでも、何か足りないものがある。
それが何かは分からないけれど、何かが違う気がする。
俺、どうしちゃったのかな。
ヒカルは、土日を挟んだ月曜から登校しました。本当はすごく不安でした。
俺、学校のことよく覚えてない気がするんだ。
本当はここじゃないはずだといういうそれが、ヒカルの気持を重くしていました。
美津子はランドセルを背負うヒカルに心配そうに言いました。
「ヒカル、食欲なかったけれど? 無理しなくてもいいのよ。」
「うん。少し痛いけど、大丈夫だよ。行ける。」
教室が分かるだろうか。少し不安だ。
でもどうせなら早く知りたい。
ここが俺の居場所なのか、合っているのか、いないのか。
「おばさん。おはよー。」
迎えに来たあかりの元気に誘われて、ヒカルも勇気を奮って登校したのです。
学校に着くと、体が反応して、自然と、間違いなく自分の下駄箱に行き、教室に向かえました。
ヒカルが教室に入ると、「ヒカル」と、クラスメートが駆け寄ってきます。
知ってる。分かる。みんなの顔も名前も。
そんでもって、俺の机の場所もばっちり分かる。
ヒカルの顔にほっとした笑いが浮かびました。
俺は間違いなく小学2年生だ。大丈夫。正しいんだ。
学校での一日は、そうして何も問題なく終わりました。
「ヒカル。一緒に帰ろう。」
道々、あかりは話しをしていました。
「今朝は元気なくて、心配したんだよ。
でも学校に着いたら元気になって良かった。」
あかりはいろいろ話かけてきます。ヒカルは頷くだけです。
元々ヒカルは、口達者じゃないので、あかりは、ヒカルが無口でも、いつものことと気にしません。
別れ際に、それでも、あかりはぽつっと言ったものです。
「ヒカル。あの時、気絶しちゃったし。みんな、大変だったんだよ。
うわ言っていうんだって。
消えたとか、黒いとか、白いとか、なんか分かんないこと言ってたから。」
「ただいま~。」
ヒカルは、おやつのパンをかじりながら、自分の部屋に行きました。
俺、大丈夫だったけれど、でも、しっくりこない。やっぱり。
ヒカルは、ベッドの脇のぬいぐるみをつかみました。
お前みたいだよ。白くて黒くてふわふわ。
お前があの時、出てきたのかな。
ヒカルには、あかりの言っていた言葉が引っ掛かっていました。
“消えた”
忘れてたけど、俺そんなこと言ったんだ。
そうだ。そうなんだ。
心のどこかに何か靄のようなものが、かかっていて。
これがすべてですかと問いかけてくるんだ。
ヒカルはパンダのぬいぐるみをしっかりと抱きしめました。
それにつかまっていれば、消えない…。