神の気まぐれ(ヒカルの碁逆行コメディ)     作:さびる

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20.四者四様

ヒカルは、白川にプロにならないかと言われて、初めて自分の心の内を覗きました。

 

本当は、とても嬉しい。白川先生は俺のことをそれだけ評価してくれている。

そして、何より俺はプロになりたいんだ。ずっと前からそうだったんだ。

それなのに、俺は何を躊躇っているんだ。

いや、俺は何を言ってるんだ?ずっと前からって。一体いつからっていうんだ。

 

ヒカルには分かりました。

ずっと前から。それって、碁の教室に行く前からだ。塔矢に会う前からだ。

そうなんだ。分かっていたのに。

 

ヒカルは、心の内を覗いて、微かに繋がっている記憶の片鱗を感じ取りました。

それはヒカルの中で、逆行前と今の生活が、繋がり始めた瞬間かもしれません。

少なくもヒカルの中で、実質、プロ第一戦の三段を破ったその時の棋力と、碁への限りない憧憬が重なったのです。

 

俺が躊躇っている理由は。俺が思い出そうとしている何かと関係があるんだ。

ヒカルは、はっきりと悟っていました。

 

それは、もしかしたらプロにならなければ、思い出せないのかもしれない。いや、どうなんだろう。

プロになったら思い出せなくなるなんてことはないよな。

 

自分の中にある躊躇いとは何か、ヒカルは、もやもやを抱えたまま、最強の六年生になったわけです。

塔矢アキラはまだ父親と三子置きで打っていました。多分。

 

 

四月が来て、六年生の生活が始まった頃です。家にお客がありました。

 

「やっと東京に戻って来たのでご挨拶に。」

それは、四年前にヒカルが、歩道橋の事故で、クッションになった子どもの親で、高野といいました。

 

あの事故の後、ヒカルの家に一度お礼に来たのですが、すぐに転勤で東京を離れていたのです。

毎年、律儀にお歳暮が届くので、ヒカルの家では、恐縮していました。

助かった子はもう、小学二年生でした。

 

「ヒカル君が息子を助けてくれた年になりましたよ。でも、うちは相変わらず小粒で。」

「いや、ヒカルもまだ小粒ですよ。でも中学生ぐらいになると、男の子は急に伸びますから、心配ないですよ。ご両親とも背が高くていらっしゃいますからね。」

正夫は、そう言いました。

 

「うちのは今サッカーに夢中ですが、ヒカル君はどうされていますか。」

「ヒカルは、学校じゃ、体育だけが取り柄の子ですわ。」

美津子はそう言ってから、付け加えました。

「でも今は囲碁にも夢中で、ネット碁をやりたがっていて、どうしたものかと考え中ですの。」

 

高野はほうという顔をしました。

「碁ですか。それは、すばらしい。碁や将棋を教育に取り入れている学校もボチボチあると聞いてますよ。」

「碁はいいんですけど。ネットって、どうなのかと。小学生でパソコンて早くないか。それが、ちょっと心配で。」

 

高野は頷きながら、聞きました。

「でもなんでネット碁なんです?」

 

「周りにやってるお子さんが少なくて。碁会所には、いるらしいんですけれど、お高いらしいですし。小学校には囲碁部はないとかで。」

「はあ、なるほど。それなら、どうでしょう。」

 

高野がそう言い出した時、ちょうど、ヒカルが帰ってきました。

ヒカルは、居間にいる高野を見て、首をかしげました。

 

何か見たことある人だなあ。

「あれっ、もしかして高野さんかな?」

親子で写っている写真つきの年賀状で顔を覚えていたヒカルでした。

 

高野はニコニコとして頷きました。

「ヒカル君。ずいぶん、お兄さんになったねえ。しばらくは東京にいるので、うちの拓と遊んでやって下さいね。」

「はい。」

 

「ところで、今、お父さんとお母さんに伺ったんだけれど、ヒカル君は碁をやるんだって。」

「うん、やっと一年くらいになるかな。」

「強いの?」

ヒカルは何といっていいか戸惑いました。

「強いか分からないけれど、面白いよ。碁。」

 

高野はニコニコしました。

「ヒカル君は、ネット碁をやりたいのだと今ご両親から伺ったのだけれどね。」

「うん。」

「できたら少し手伝わせてくれないかなあ。」

「手伝い?」

 

ヒカルが不思議そうに首を傾げると、高野はヒカルの両親の方に向き直り言いました。

 

「私は碁のことは何も知りませんけれど、ネット碁のことなら少しお手伝いできるかもしれません。仕事でパソコンは使ってはいますが、私もネット碁とかゲームには疎いんです。

でもそういうことに詳しい男を知ってるんですよ。気の置けない友人で、実はあの歩道橋の事故の時も、その友人を訪ねた折のことなんです。

そいつは、いろんなゲームの開発にも興味を持っていて。一度オフィスに遊びに行きませんか。ここからそうは遠くないところですから。彼に聞けば、ネット碁とか子どもがパソコンをやることとか、いろいろ情報をくれると思うんですよね。」

 

「それって、お邪魔では。」

「いえいえ、ヒカル君は息子の命の恩人ですから。前々から何かヒカル君にしてさしあげたいと思っていたのですが、やっとその機会に恵まれたと思えるんです。

まあ、パソコン云々はともかく、そこで二、三度、ネット碁を試してみたらいかがでしょう。まだやったことないんでしょ。ヒカル君は。」

 

ヒカルは頷きました。

「試してみてパソコンを購入するとかはそのあと、ゆっくり考えたらよろしいのじゃないですか。そういったことにも詳しいでしょうから、相談に乗ってくれると思うんですが。」

というわけで、高野がその友人に話を通して、世話をしてくれることになりました。

 

 

ところで、一足先にネット碁に触れた佐為ですが、saiという名前には反応しましたが、それは自分が強くなった時の感覚が呼び戻されただけでした。

彼の為にネット碁を打ってくれた人間については、何も思い出しませんでした。

 

佐為の最初の対局は、十時半ごろから初めて昼過ぎの一時頃まででした。

それはたまたま韓国のプロ七段との対局でした。幸いにもその時に、緒方のリストアップした名前があったのです。

それは、佐為には楽しいものでした。

 

一方の明子は、あの楽しかったネット碁がこんなに疲れるものだとはという思いでいっぱいでした。

緒方君が、持ち時間を一時間か一時間半に設定するように言ったのは、正解だったわ。

もうくたくたよ。

いつも碁盤を通してやる対局より疲れるのはなぜかしら。

 

明子は、佐為の顔を見る気にもなりませんでした。

終局と同時に明子はサイトを閉じ、パソコンの電源を落としました。

そしてまっすぐ居間の方へ行きました。

 

 

残された佐為は、一言も発しないで、ネット碁を終了させた明子にひどく腹が立ちました。

せっかく楽しい対局が出来たというのに。満足感が急にしぼんでいきました。

 

前は一日中、日に何局もやれるだけ目いっぱい、ネット碁をやっていましたよ。

だのに、今日は、これで終わりというのでしょうか。

 

逆行前、ヒカルは夏休み、午前中からネットカフェに入りびたり、お昼は取らずに、持ちこんだ補助食をかじりながら、打ち続けていたのでした。若さのなせる業です。そして特に何もする仕事を持たない子どもだったからできたことでした。

 

佐為は明子の後ろ姿を恨みがましく睨み付けていました。

奥方は一局でやめてしまったけれど、今の対局はやりごたえがありました。あの画面の中にはもっと、面白い打ち手が潜んでいる筈です。

ネット碁が好きなだけできるというのに、一体奥方は何を考えているのか、理解できない。なぜあんな女性としか、繋がれないのでしょう。しかも話すことすらできないとは、もしかして、私は間違ってここにきてしまったのでは。もっと私が望むだけ好きなように打てる場があるのでは。

 

望んでいた行洋との対局はもう十数局にも上っていたのですが、佐為はそれをすっかり忘れていました。

 

 

明子は、疲れ切っていて、居間に着くと、座布団を三枚並べてその上にどさっと倒れこみました。

こんな時はベットが、せめてソファーがあるといいのに。塔矢邸は畳の生活でした。

でも今は誰もいないから、お行儀は悪いけれど、仕方ないわね。

あら、誰もいないって言ったけど、幽霊さんがいるわ。

そんなことを思いながら明子は目を閉じました。それっきり明子は寝入ってしまいました。

 

しばらくしてハッと気づくと、もう四時を過ぎていました。

お昼も食べなかったけれど、ものを食べる気力もないわ。

のろのろと起き上がり、お茶をやっと入れると、明子は、ふっとため息をつきました。

 

それからしばらく、明子は佐為と顔を合わせないようにしていました。

夫の書斎の掃除もしませんでした。

佐為が見えない範囲だけで生活していたのです。

 

でもいつまでもそうはできません。

一週間ぶりに明子が書斎の掃除をしているところに、佐為は現れました。

その姿を見て明子は諦めました。

結局、いつものように明子が折れて、週に一度ほどですが、一局だけネット碁をやるようになりました。

 

 

緒方は、登録名を明子に伝え、佐為との対局はネット碁に切り替えました。

俺には、この方があっている。明子夫人の顔を見ながら打つより、あるいは、俺の表情を見られずに打つと、勝てる気がしてくる。俺は絶対幽霊に勝つぞ。絶対に勝てる。

 

緒方には確信が沸き起こっていました。佐為との対局を重ねてきた結果の思いです。


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