zeldaこと、和谷はごろっとベッドに転がり、思いっきり声を出しました。
「わー、俺、悔しいかも。でも痺れた~。」
こいつ、本当に小学生?プロが遊んでるのと違うか?
だって、小学生でまじこんだけ強いって。そんなの噂の塔矢くらいじゃないか?
これってまさか塔矢?そんなわけないよな。第一、塔矢にtwinkleはないよな。
もし院生だったら、俺が知ってる筈だ。関西の方かな。いや、院生のレベルじゃねえよ。
でも、楽しかったから俺とまた打ちたいっていったよな。こいつ。
それにしてもこの対局。俺の次に打ったのって、これってすげー対局じゃねえか。
こいつの相手は間違いなくプロだ。それもうちの師匠と腕変わんねーんじゃないの。
その相手に、小学生がここまでの碁が打てるのか。
俺との対局見てたんだ。だから聞いたんだよな。
本当に小学生かって。YESだってさ。
絶対、こいつもプロだよ。見つけてやる。こいつが誰か。
うちの師匠に言うと、さっさとプロになれとかなんか言われるよな。
でもプロにならなきゃ、見つけられないか。
いや、もしこいつとプロ試験争ったら、まじやばくねえか。
そんなことよっか、こいつとまた打ちてえよ。
その和谷にtwinkleはないと言われた塔矢ですが、彼もまた大いなる悩みを抱えておりました。
僕の家がおかしい、変だ!
いつ頃からだろう。家の居心地が何となく悪くなってきたのは。
アキラがそう感じ始めてから、少なくももう半年は経っているでしょう。
お父さんとの朝の一局は変わらずに打っている。
そのお父さんに、特に変わったことは認められない。
お母さんは、優しく「行ってらっしゃい」と言って、毎日学校へ送り出してくれる。いつも通りに。
お弁当だって、いつも美味しいのを作ってくれるし。
いや、そんなこととは違う。もっと別のことだ。それが何かが、分からない。
強いて考えてみると、最近、お母さんが疲れているみたいじゃないか。
時々ためいきをついている。どっか悪いんじゃないか。
お父さんはそういうことには気が付かない人だ。そしてお母さんは我慢する人だ。
でも、そういうこと以上に、お母さんに普通にどうしたのかと聞けない雰囲気が家に充満しているんだ。
それが変なんだ。
こういう時、いったい誰を頼ったらいいのか、アキラには分かりませんでした。
もしおばあちゃんに連絡したら、どっちのおばあちゃんにしても、絶対大ごとになる。それは確かだ。
大ごとになるってどうなるのか、具体的にはアキラにはわかりませんでしたが、少なくともお母さんがますますため息をつきそうなことが起きると思えました。
市河さんは、いい人だけれど、こういう家の中の微妙さを相談するには、ちょっと。
なんだかんだで、アキラが、ため息をついているのを偶然聞いたのは、アキラのお友達で、早耳の、でも肝心なところは聞き逃すという芦原でした。
「おい、アキラ。どうしたんだい。ため息なんてついて。学校で嫌なことでもあったのかい。」
「ううん。違うよ。最近何か、お母さんが元気なさそうなんだ。」
芦原の気楽な口調にアキラもすいとそんな言葉が出てきました。
「へえ。」
最近緒方さんが先生のお宅へ足を運ばなくなったからかな。
そういえば、あの時、僕が言った言葉で、もしや…。
「緒方さんも大変なのかな。」
「緒方さん?緒方さんがどうかしたの?」
「いや、なんでもないよ。塔矢先生はどうだい?」
「変わりないと思うけど。」
「そうか、そうか、うん。まあ、アキラが気にすることはないよ。大人の事情さ。ま、騒ぎになることもなかったわけだしね。」
最後の言葉は口の中で呟いたつもりでしたが、アキラには聞こえました。
それって、何かあったのか?緒方さんに?何のこと?
でもそうだとしてもそれとお母さんに何か関係あるのか?
芦原のお蔭で、ますます訳が分からなくなって、もやもやが強まってしまったアキラでした。
そして、アキラは見かけたのでした。
公園で、明子とヒカルが親密そうに話をしていました。
あれって彼じゃないか?
名前は忘れていたけれど、特徴あるヘアスタイルは見覚えが。
お母さんと何を親しげに話しているのだろう?
でもお母さんは、話しながら深いため息をついている。
一体何を話しているのだろう。
アキラは頭がグルグルしてきました。
すぐに行って、話に加わればいい筈なのに、それもまたできませんでした。
もしかしておかしいのは僕なんじゃないだろうか。
アキラは、生真面目にも、そう思ったりしながら、結局そのまま、母親がヒカルと別れ、駅に向かうのを見送ったのでした。
アキラはその日、囲碁サロンで少しふさいでいました。
家に戻ると、明子はいつものように優しく「お帰りなさい」と、出迎えてくれました。
いつも通りだ。でもいつも通りって? お母さんが普段どんな生活を送っているかなんて、僕、考えたこともなかったな。
アキラはヒカルが自分の母親と何を話していたのか、気になって仕方がありませんでした。
母親には、どうしても聞けなかったアキラは、ヒカルに聞こうと思いました。
今悩んでいることについては、そこが突破口の気がしたのです。
アキラに似つかわしくなく、うじうじしているうちに日は過ぎ、初夏の季節になっていました。
アキラは、ついに決心しました。
でも僕は、彼がどこに住んでいるか、知らない。名前も覚えてない。
そこで碁サロンに着くと、アキラは、そろそろと市河に切り出しました。
「あのね、前に僕に傘を貸してくれた…」
「ああ、進藤君ね。」
市河はあっさりと言いました。
そうだった。進藤。そういう名前だった。
「この前、ちらっと、見かけたんだ。話す暇はなかったけど。」
「あら、そう。進藤君はねぇ。確か去年の11月だったかしら。碁サロンに来てくれたのよ。」
「えっ?」
「なんでもあの囲碁教室が大人ばっかりだから、子どもがいるところを教えてとか言ってたけれど。どうしたかしらね。また来てくれればいいのにね。」
「進藤がどこに住んでるか知ってますか?」
「あら、アキラ君。どうしたの。」
「うん。ちょっと、彼と話したいかな。」
へえ、市河は珍しいものを見るようにアキラを見つめました。
あの時、碁友達でなく、お友達って言ったけれど、本当にそうなるのかしら。
でもこれは。うん。よし。アキラ君がその気になるなんて。
「家は分からないけれど、たぶん、この近くの区立小学校だと思うのよ。あの囲碁教室にずっと通っていたらしいから、そこで、聞けば分かるんじゃない。家は教えてくれないでしょうけれど、学校は教えてくれるんじゃない。」
善は急げではありませんが、気のせくアキラは、その次の囲碁教室のある日、保健センターへ向かいました。
ここの先生って、確かお父さんの友達の森下先生のお弟子さんだ。
森下先生はすごく強いのに、なぜか、タイトルを取れないんだよね。
お父さんは、巡り合せとかって言ってたけれど。
アキラの父を行洋と呼び捨てにするのは森下だけでした。行洋も森下と呼び捨てにしていました。
でもいいな。碁を打つ仲間にそういう相手がいて。僕にもできるのかな?
プロになったらできる?
でもお父さんと森下先生はもっとずっと前からの碁を打つ同志なんだ。
そんなことをぼんやり考えて、教室が終わるのを待っていました。
時間が来たらしく、受講生たちが教室から出てきました。
先生は、とアキラが目で追っていると、「あれっ、塔矢じゃないか?」という声が背後からしました。
丁度、教室から出てきたあかりは、ヒカルのその声を聞き、そこにいる子を眺めました。
これが塔矢君なんだ。 明子おばさんに少し似てるかな。