アキラが自分に会いに来たとは思っていないヒカルは、あかりに向かって言いました。
「先生に言うことがあってさ。来たんだ。一緒に帰ろうぜ。待ってて。」
「うん。」
ヒカルが、教室に入ったのを見ながら、あかりはアキラを見ました。
アキラは、ヒカルが出て来るのを待っていました。
ヒカルがあかりに向かって言った言葉を自分に言った言葉だと脳内変換しているに違いありません。
アキラは、あかりの方を見向きもしませんでした。
会釈もなしで、全くの無視です。存在していないかのようでした。
実際のところ、今のアキラにとって、ヒカル以外は存在していないのでしたから。
あかりは明らかに気分を害しました。
明子おばさんのことがあるから、我慢するけれどね。何か失礼よね。
でもこの子、何しに来たのかしら。先生に用があるのかな。
ヒカルが出て来るのを待ってるのよね。
ヒカルはすぐに出てきました。
あかりが何か言う前に、一直線に男らしくアキラは言いました。
「進藤。君に話があるんだ。聞きたいことがある。」
「急ぐのか。」
ヒカルは聞きました。
「うん。今すぐだ。」
「ヒカル。私、先に帰ろうか。」
あかりが、そっと言いました。
「構わねえよ。こいつ、別に二人だけでって言ってねえもん。」
ヒカルはアキラを見ながら考えていました。
何が聞きたいのだろう。もしかして幽霊話を聞いたのか?
だとしても、なんで俺に話があるんだ?
それとも、囲碁教室の話か?まあ、いいや。
まあ、幽霊のことは、俺は話さねえよ。
「で、碁会所に行けばいいのか?」
「あそこはちょっと。どこか他の場所で。」
「長い話か?」
「君次第だよ。」
なんだ、こいつ?偉そうな言い方だな。
ま、いいか。そういう奴なんだなろうな。
逆行前の付き合いの名残がヒカルには残っているのかもしれません。
「じゃ。ともかく少し歩こうぜ。」
そう言って、公園に向かって三人で歩きながら、ヒカルは聞きました。
「で?何が聞きたいんだ。」
「少し前に、君が僕の母と歩いているのを見たんだ。」
この間おばさんが、ヒカルに登録名を考えてくれた時ね。とあかりは思いました。
ヒカルの方は、のんびり答えました。
「ああ、そんなことあったな。で、お前のお母さん、元気にしてるか?」
その言い方が何となく気に障ったアキラでした。
芦原さんと同じような反応じゃないか。まったく。
それは置いておいて、アキラはとにかく、聞きたいことを尋ねました。
「君は、僕の母と知り合いなの?」
「昔からの知り合いじゃねえよ。お前に傘を貸した後、ちょっとしてからだったかな。駅前で偶然出会ったんだ。俺があの囲碁教室のビラを落として、それが風で飛んで行って、ちょうど歩いていたお前のお母さんの足元に落ちたんだ。」
アキラは特に言葉を挟むふうでもなく聞いていました。
「でもって、それを拾ってくれてさ、碁を打つのかって言われて、碁サロンでもらった話をしたら、お前のお母さんだっていうじゃないか。そんでもって、お互い驚いて、偶然てあるなっていうんで、ちょっとベンチに腰かけて話してたら、俺んちのお母さんが買い物帰りに通りかかってさ。」
ヒカルは一息入れました。
「で、俺がお前に店でお茶をご馳走になったって言ったら、家に来いって、お前のお母さんを家に連れていったんだよ。お返しっていうことかな。」
アキラは話の成り行きに少し驚きながら聞き入っていました。
「でもって、家でさ、話すうちに何か俺のお母さんと、お前のお母さんが二人で盛り上がってさ。すんごく仲良くなって、それから、時々家にお喋り来るんだぜ。お前のお母さん。
この間もおすそ分けのお菓子持ってきてくれて、その帰りに、俺と出会ってお喋りしてたんだ。」
アキラは話の接ぎ穂がなくて、しばらく黙ったままでした。
それから聞きたいことを訊ねました。
「それで、君はあの時僕の母と一体何を話していたんだ。僕は、その話の中身を知りたいんだ。」
ヒカルは困りました。
「えっと、俺って何を話してたんだっけ。」
そう言ってあかりの方を向きました。
「ヒカル。ネット碁の話じゃなかった。」
「そうだった。俺がネット碁をやれることになったって話したんだ。」
アキラはヒカルの大雑把な話し方が気に入りませんでした。
「君はだいぶ長い間、僕の母と話していた。そんな簡単な話じゃなかったと思う。」
その言い方にヒカルはむすっとしました。
俺が何か隠してるって言うのか。大体、こいつ、いつから見てたんだ?
もしかしてストーカーか。母親の?
ヒカルは黙ったまま、アキラを睨みつけました。
あかりが、ヒカルに向かって話しました。
「ヒカル。言ってたじゃないの。あの時。ネット碁するなら、パソコンを買ってもらえるのかって、明子おばさんが聞いたから。だからヒカルは高野さんとのこと、話したんだよ。」
アキラはやっと、あかりに目を向けました。
「高野さんって誰?それと一体君は誰なの?僕は今、進藤と話しているんだ。部外者が余計な口を挟まないでくれないか。」
部外者が口を挟むですって。許せないわ。
あかりは、無視されてきたことから始まって、そのアキラの言葉で、完全に頭が沸騰してしまいました。滅多にあることじゃありません。
「あのね。あの時、私も一緒にいたんだよ。ヒカルと明子おばさんと三人で話をしてたのよ。」
途中から一緒になったというのは省きました。
「記憶がない。」
アキラは言下にいいました。
ヒカルにとってありがたいことに、あかりがまくしたてました。
「前に高野さんの子どもが怪我しそうになった時、ヒカルが助けたの。それでね、高野さんがお礼を言いにヒカルのうちに来た時、小学生にパソコンはどうかっていういう話になって。ネット碁をやるだけなら、知り合いの人が近くにいるから、頼んでくれるって言ったのよ。その話をヒカルはおばさんに話したの。そしたら、登録名がいるわねっていう話になったのよ。」
あかりの話も舌足らずでわかりにくかったのですが、ヒカルが話すよりは、ずっとましだったでしょう。
「何で、うちの母が、そんなにネット碁の話に興味を持つんだ。母は、碁をやらないのに。」
幸か不幸か、アキラの関心は碁の話に移りました。
「やるわよ。あなたのお母さんだって。いいじゃないの。おばさんが碁をやって、何が悪いの。」
あかりには、前に聞いた話がよみがえっていました。
『夫は、打つ必要はないっていったのよね。私は碁がどんなものかちょっと知りたかっただけなのに。』
おばさん、かわいそうだわ。父親も父親なら、子どもも子どもね。
「僕の母は碁が打てない。」
アキラは当然のように、確信に満ちた声で言いました。
「打てるわよ。ヒカルが教えたんだから。」
アキラは驚いて口をあんぐりあけました。それからヒカルに言いました。
「初心者の君が教えただって? そんなことをしたら、ひどい碁を打つようになるじゃないか。」
あかりが何か言う前に、今度はすばやくヒカルが言いました。
「確かにな。でもな、お前のお母さんは、別に碁打ちになろうとか、強くなりたいとか、そういうんじゃないんだ。自分の周りで、みんなが熱心にやっている碁って、どんなものかちょっと分かりたいって、そう思っただけなんだ。
そうしたら、お前のお父さんが、碁を打つ必要はないって言ったんだよ。でも知りたい。そう思った時、俺と出会って、碁の教室のチラシを見たんだ。
それで、おばさんは、自分は通えないから、俺に代わりにちょっと通って、教わったことを教えてくれって、ちょこっとやり方を知りたいんだって、言ったんだよ。」
あかりは、かっかしながら言い足しました。
「おばさん、今はかなり打てるわよ。私もそれまで打てなかったけど、今は時々おばさんと打ったりもするのよ。いいじゃないの。ひどい碁だって。
普通の人はね、たいして打てなくても、お互いにいろいろ教え合って遊んで楽しむんだって。阿古田さんが言ってたわ。今はあまりそういう場所がなくなったから教室に通ったりするけれど。」
ヒカルは阿古田が、そんなことを言ったと聞いて驚きました。
へえ、あの阿古田さんが。って、それより、あかりがすげえよな。
あの阿古田さんにそんなこと言わせたのかよ。