「もうすぐ夏休みだね。お休みはどう過ごすの?」
白川は、ヒカルの母親お手製の弁当を美味しそうに食べながら聞きました。
「はい。夏休みはネット碁と英語の特訓をすることになってます。」
ヒカルは、言葉遣いに気を付けながら、答えました。
前に、白川が言ったのです。
「進藤君は、いずれプロになるんだから。いや、なるべきだよ。その時、公に話すときは、“俺”はダメ。仲間内や、非公式では構わないけれどね。年齢に関係なく、“私”と言わなくちゃならない。
もちろん言わない人もいるよ。でも仕事に就くと、進藤君のお父さんも会社じゃ、“私”と言っている筈だから。僕もそれほど言葉遣いがいいというわけじゃないけれどね。」
白川は、十段戦は、決勝トーナメントで、緒方と決勝を争って惜敗して、挑戦権を取り逃がしました。しかし天元戦は準決勝までコマを進めていました。碁聖戦は残念ながら準決勝で敗退。でもどれもリーグ残留を果たしていました。しかも次の次の名人戦の予選も順調に勝ち進んでいました。
今や彼は森下門下の星なのです。勢い、取材も増えました。言葉の問題は白川自身の実感があるので、ヒカルにも、その大切さが伝わったのでした。
「美味しかったよ。お母さんによくお礼を伝えてね。」
お茶を飲みながら白川は言いました。
「うん。」
あっという間にくだけた受け答えのヒカルです。白川も別に気にせず、続けました。
「ネット碁のことだけれど、君は本当に良い人に巡り会えるね。それもまさに運の一つだね。」
それから白川は心の中で続けました。
その運のいい君を独占している僕も、本当に運がいいよ。
ヒカルが、泉のオフィスに通いだしてから、かれこれ三か月弱になります。
白川の話によると、泉という人はアマチュアではかなりの腕の持ち主らしいのです。
「高校生本因坊になったこともあるし。学生本因坊と学生名人を取ったこともある筈だよ。プロになるのは断念した人だけれど、なかなか打てる人だね。」
その泉がエキサイティングな碁が打てると紹介してくれたサイトは、できたてのものでした。
「有料なんだよ。でも実は仕事の関係で知っている人がいるんだ。その人と打ってもらうといいと思ってね。」
最初の日は、たまたまその人はいませんでした。でも泉が連絡を取ってくれたらしく、時間を決めて、そこで打てるようにしてくれました。
「相手には君の素性は内緒にしてる、だから君にも相手の素性は内緒だよ。当分の間はね。」と泉はいたずらっぽく言いました。
ヒカルの打った棋譜を見た白川は言いました。
「これはもしかして中国のプロなのじゃないかなあ。」
zeldaの次に打った人とはまた違う手を打ってくる人でしたが、しびれる強さは本物でした。
「先生。でも俺、いつかこの人にも追いつきたいと思う。一局打つたびに、ちょっとづつだけど、近づける気がするんだ。実際は、まだまだだけれど。」
白川は笑って頷きました。
「たぶん、近づけるよ。君なら遠くない将来にね。僕はね。進藤君と打ったり、検討したりすると、すごい力がもらえる気がしている。だから君を森下研究会に連れて行きたいんだ。君の独創性で、あの研究会を活性化するんだよ。」
ヒカルには、逆行前の知識があるのです。要するに佐為と培った三年先の技量と、もともと持っている囲碁センスが相まって、興味深い手に繋がっているということでしょうか。
ヒカルは、あかりにせっつかれて、四月のひと月をかけて、何とかローマ字でチャットをこなせるようになりました。
ローマ字って、読むほうが大変。書くのは意外と楽だ。
チャットは、キーを打てば日本語が出てくるので、意外と早く慣れたのです。
zeldaとは、そのひと月で、8回以上は打ったのですが、zeldaは、もっと打ちたいと申し入れてきました。
「zeldaはね、早朝に一局打ってくれっていったんだ。俺、パソコン持ってないし。そうしたらね。泉さんが、パソコンを貸してくれるっていったんだ。それで、うちに来てくれて、お母さんを説得して、ネットができるようにしてくれて。
今、早朝の一局を毎日打ってるよ。zeldaってどんどん力付けて来てるから、油断できないよ。すごく勉強してくるんだ。何となく俺と相性がいい気がするんだ。でもチャットじゃいろいろ検討できないしね。」
そういうヒカルに、白川は言いました。
「院生だって言ったね。そのzeldaに僕は、ちょっと心当たりがあるんだけれど。確かめて君に紹介するよ。」
「えっ?本当ですか。会いたいな。」
ヒカルは嬉しそうに言いました。
「泉さんには、本当に感謝の一言だね。何かお礼をしたの?」
「うん。お礼っていうか、泉さんは、俺と打つだけでいいって言うんだ。泉さんも仕事があるからしょっちゅうじゃないけれど、時々打ってる。あれを指導碁って言うのかな?俺が先生に教わってたみたいな感じ。」
「あれだけ打てる人だと、それなりに勉強になるね。」
「勉強って言えばさ、泉さんのところで俺とあかり、英語の特訓受けてるんだ。」
泉の紹介した有料サイトは、英語しか使えないのです。基本、チャットはしないということになっているのですが、それでも時々相手が話しかけてくるときには、近くにいる人が手伝ってくれているのでした。
「中学生になるまでに、英語でチャットができるように頑張れば、中学生になってから、自分のパソコンを持ってもいいって、お母さんに言われたから。今あかりと頑張ってるんだ。で、夏休みの宿題もあるんだよ。」
ヒカルとあかりは中学生の教科書を勉強していました。泉がそれが一番だというのでした。
さて、アキラですが、ヒカルの言葉に腹を立てて、家に戻りましたが、それ以来注意深く母親の様子を見ていました。
明子は、アキラのいない時にしか、ネット碁をしませんし、行洋とも月に一度くらいしか打たなくなっていました。ですから、明子が碁を打つとかそういうことをアキラが目にすることは、全くありませんでした。しかもパソコンを置いてある納戸をアキラが覗くなどということもありませんでした。
やっぱり、彼は嘘をついたんだ。でもなぜ嘘をつくんだ?
そう思うと、腹立たしく、でも何となく謎があるような気がしてくるのでした。
そんな思いが渦を巻いていたので、芦原に今年のプロ試験は受けないのかと問われた時、思い切って受けようかと思い始めました。
うじうじしていてもしょうがない。何かした方がいいかもしれない。プロになれば、何かが始まるかもしれない。
十段の挑戦権を白川と争って手にした緒方は、残念ながら師匠との戦いに敗れ、結局十段位を取ることはできませんでした。それでも自分に力が湧いていることを感じていました。
ずっと続けてきたサイとの対局の成果が表れてきたに違いない。それにしてもネットの世界というのは。
緒方は、ネットに現れた面白い人物に興味を抱きました。
小学生だという、その人物に対局を申し込み、実に刺激的な対局をしたのです。
いずれ、プロになったら、強敵になる奴だ。だが、本当に小学生などということはあるだろうか。
若手のプロかもしれん。JPNだから日本なのは間違いないだろうが。
そう思っていた時に、偶然その対局者、twinkleの情報を手に入れたのでした。
その日、たまたま行洋を車で家に送ってきた緒方は、明子と話す機会を持ちました。
「アキラ君は、まだ何も気づいていないのですか。」
「ええ、あの子がプロになれば、きっと夫もいいというのじゃないかという気がしてきたのですけれどね。」
「そのお茶は、私が運びますよ。」
緒方がお茶の盆を持ち、明子はふすまを開けました。
「ああ、ありがとう。緒方君は一局打つかね。」
「今日は夕方、畑中君の行っている研究会に誘われてまして。」
「そうか。」
行洋得意の“そうか”は、健在でした。
「アキラ君は、今年もプロ試験は受けないのですか。」
「その決断はアキラに任せているよ。自分が納得して、プロの階段を登らなければ、その先をやっていけないからね。」
「ところで、先生はサイと近頃打たれていますか?」
「月に一度ぐらいは、明子にお願いしているよ。緒方君はネット碁で打っているそうだね。」
「はい。月に1、2度。先だって、やっとサイに勝てました。ネットは相手の顔が見えないので、やりにくいという人がいましたが、少なくもサイと打つ時はネット碁の方がいいですよ。サイの表情を見ることはできないのですから、私も表情を見せたくないですし。先生もいかがですか。」
「私は遠慮するよ。」
行洋はちょっと口の端に笑いを浮かべました。
気持がすべて顔に出るというのは、緒方君の最大の欠点かもしれないな。
愛嬌とばかりは言っていられない。
「そうですか。でもネット碁もなかなかいいものですよ。私は、最近ちょっと面白い人物を見つけましたよ。プロじゃないと言っていますが、もしかしたら、誰か若手プロかもしれないとも思える棋力の持ち主ですよ。なかなか興味深い手を打ってくるので、会って、いろいろ話してみたいと思っているのです。」
「ほう、ネット碁というのは、名前は分からないのかね。」
「はあ、一柳先生などはそのまま、ichiryuと名乗っておられますが、好きに名前を付けられるのです。苗字ではなく下の名前だけとか、ニックネームとか。その人物もニックネームでしょう。」
そう言いながら、緒方は自分が打った一局を並べて見せました。
行洋は興味深そうに、それを見つめました。
「なるほど。ふむ。若手にもこういう碁を打つものが出てきているのか。」
「いや、分かりませんが。もしかして女性かもしれません。なんせ、twinkleなんて名前をつけていますからねえ。」
「まあ、twinkleですって。」
横でお茶菓子を用意していた明子は、思わず、声を出してしまいました。明子らしからぬ失態です。
緒方は、その声に、すぐに飛びつきました。
何しろ囲碁幽霊が見れる人間なのですから、twinkleを知っていてもおかしくはないと感じたのです。
「奥さまはご存じなのですか。この人物を。」
明子は、曖昧に答えました。
第一には、ヒカルに聞かなければ、答えられない気がしたのです。
それに、ヒカルたちとの交流は、自分のものだけにしておきたかったのです。
「ええ、そうねえ。そう名乗りそうな人を知ってはいるけれど。そんなにお強いんですの?」
「プロになる力は十分ある人物だと思いますよ。もうプロかもしれませんが。」
「私の知っている方の息子さんがネット碁をそういう名前で打っているかもしれませんけれど、でも…。」
緒方は身を乗り出しました。
「その人はプロじゃないのですか?」
「あ、ええ。その方、まだ小学生ですのよ。」
緒方の目が光りました。
小学生だと。むむ。
「教えてください。どうしても知りたいのです。」
明子は思わず、身を引き加減にして答えました。
「あ、はいはい。でもちょっと、ご連絡してからでないと、確かかわかりませんもの。緒方さんが言われている方と同じ方なのか。」
「そうですね。では連絡してくださいますね。私はぜひ、会いたいのです。電話をまってますから。」
緒方は、執着心むき出しで、明子に何度も念を押して、帰りました。
明子は溜息をつきつつ、承諾したのです。
緒方にはいろいろ手伝ってもらっている弱みもありましたから。