緒方が念を押した時には、一切口を挟まなかった行洋ですが、緒方が帰ると、おもむろに明子に切り出しました。
「明子。今緒方君と約束した人のことだが、どういう知り合いか教えてくれないか。人に言えないような訳があるのか。」
「いえ、そうではありませんのよ。でも大人じゃありませんのよ。勝手に紹介などできませんでしょ。彼が緒方さんに会いたいと言うようでしたら、ご両親にご了解をいただいてから、お引き合わせしたいと思いますわ。」
碁に関しては、絶対的に行洋が主導権を握っていました。というか惚れた弱みとでも申しましょうか、明子は、結局、夫にヒカルの話をする羽目になりました。
あるいは結婚十数年の付き合いの中で、行洋は行洋なりに、妻に対する操縦術をしっかり身につけてきたのかもしれません。
もし行洋が囲碁棋士以外の職業を選ぶとしたら、取り調べ専門の刑事があっているかもしれません。自白率百パーセントの異能の刑事になれたことでしょう。
明子もすべて白状してして、すっきりでしょうか。
とにかく何もかも自分の知りたいことをすべて事細かに聞き出した後、行洋は言いました。
「森下はそういう子がいることを知っているのだろうか。」
「いいえ。何でも弟子をとる余裕がないとかで、白川さんが弟子にされたんですって。中学生にでもなったら、森下さんに紹介したいと言われたとか。進藤君は、本当に白川さんとしか打ってこなかったから、ネット碁でいろいろな人と打ちたいと言っていたわ。」
1年半ほどでこれだけの碁を打てるようになった子ども。正直アキラより上手かもしれん。
「その進藤君とやらは、プロになるつもりはないのかな。」
「中学生になったらって言っていた気がしますわ。あのお母さんは、小学生がプロ試験を受けると聞いたら、卒倒されるかもしれませんものね。進藤君はそういうことが分かっているのじゃないかしら。」
聞くだけのことを聞くと、行洋の行動は実に素早いものでした。
翌日、棋院で白川を捕まえたのです。今日、白川が棋院にいるということも、チェック済みでした。
「白川君、ちょっと話をする時間はあるかね。」
白川は非常に驚きました。塔矢先生が私に一体何の用だろうか。まだ先生の挑戦者にはなっていない。リーグ戦で、弟子の緒方さんの盤外戦でもやるつもりなのだろうか。いや、そういうことはしないだろう。
行洋は、白川を事務室に伴いました。
「塔矢先生。そちらのテーブルに碁盤を用意しておきましたから。」
事務室の職員は、あらかじめ行洋に言われていたようです。周到でした。
「白川君。まあ座って、ちょっとこの棋譜を見てもらいたいのだよ。」
棋譜?もしかして私の棋譜に興味が。
と思った白川でしたが、行洋の置いた棋譜を見て思いました。
なるほど、そうか。進藤君か。塔矢さんの息子さんや奥さんと知り合いと言っていたから、関心持ったんだ。
「進藤君のネット碁の棋譜ですね。」
「君はこの対局をどう思っているかね。」
「この対局で、彼は伸びましたよ。」
それから白川は思いました。
塔矢先生は、こんなにも押しが強い人だったんだ。
もしタイトル戦で当たっていたら、それだけで負けていたかも。
ぼくも見習わねば。ちょっと攻めてみるか。
「相手の方は緒方さんだと思うのですが、いかがでしょう。」
「ほう、分かったかね。」
「ええ、最近、緒方さんとも、よく対局するようになりましたので。」
行洋は軽く頷いただけで、それには答えず、言いました。
「白川君。進藤君に会わせてくれないだろうか。」
来た~っと、白川は思いました。
直球じゃないか。
「森下は、進藤君に会ったことはあるのか?」
「いえ。」
「では、進藤君は、純粋に君の弟子なわけだ。師匠の君に是非お願いしたいのだが、だめかね。」
「いえ、そんなことはありませんよ。」
「ありがとう。ところで、君はこの後、何か用事があるかね。」
「いえ、今日は家に戻るだけですが。」
「それは良かった。」
その時です。職員が覗いて、言いました。
「先生。頼んでいたタクシーが来ました。」
「ああ、ありがとう。では、白川君、行こうか。」
あっという間に、白川はタクシーに連れ込まれたのです。
進藤君の紹介料ということで、どこかで食事でもおごってくれるというのだろうか。
いやいやそんなことはないだろう。などと、のんきなことを考えている場合ではありませんでした。
「進藤君の家は、どこかね。」
「葉瀬三丁目ですが。あのー。もしかして今から進藤君の家に行くおつもりですか。」
いくらなんでもそれはないだろうと、希望的観測を入れつつ、白川は答えました。
しかし、行洋は、タクシーの運転手に言いました。
「とりあえず、葉瀬三丁目に向かってくれませんか。近くまで来たらまた。」
「はい。」
運転手は車を出しました。
白川は慌てました。
「塔矢先生。連絡もなしにいきなり行くおつもりですか。」
「君は携帯電話を持っているかね。」
「はい。その程度は。」
「良かった。私は持たないのでね。それで、ちょっと連絡を入れておいてくれないかね。」
余りに当然に、堂々と言うので、白川は毒気を抜かれた気持でした。
行洋が聞いているところで、電話を入れるわけです。
やれやれ、何といったものか。
いや、これは塔矢先生に負けるわけにはいかない。
「もしもし、ああ、進藤さん。はい、白川ですが。これからちょっとお宅へ伺いたいのですが、構いませんか。」
電話を入れ終わって、間もなく、碁サロンのある駅前を通り過ぎました。
白川は、運転手に場所を伝えました。
ものの五分もしないうちに、車はヒカルの家に到着です。
「あれ、先生?どこで電話をしたの?早すぎない?」
インタホンの音に出てきたヒカルは言いました。
白川が言葉を発する間もなく、行洋が言葉をかけました。
「君が進藤君かね。」
「はい?」
ヒカルは白川とともに降り立った着物の人物に目をやりました。
誰だろう?
白川は最悪だと思いながら言いました。
「塔矢君のお父さんだよ。塔矢先生。」
ヒカルは目を白黒させてしまいました。事情が呑み込めなかったのです。
「ヒカル。早く入っていただきなさい。」
美津子が家の中から声をかけました。
玄関で、美津子は驚きました。
一緒にいたあかりもびっくりです。
これが塔矢君のお父さん? 明子おばさんのだんなさんよね。
さて、とりあえず、美津子は落ち着きを取り戻し、言いました。
「どうぞ、リビングの方へ。お話はそこで。」