さて、行洋と白川、ヒカルとあかり、それにお茶を運んできた美津子との初顔合わせです。
しばし沈黙が支配した後、勿論この場を取り仕切ったのは行洋でした。行洋、渾身の四面打ちです。
「いつも妻の明子がお世話になっているそうで、ありがたく思っております。」
おもむろに如才なく切り出しました。
「いえ、いえ。私こそ素敵な方とお近づきになれて喜んでおりますわ。」
美津子は、そう言いながら、つぶさに行洋を観察しました。
なるほど、明子さんが一目ぼれしたのも分からなくないわ。なかなか渋いわ。
「君が進藤君だね。今日は突然に訪ねてしまって、申し訳ない。前にアキラに傘を貸してくれたと聞いているがありがとう。今日はお礼に来たわけではないのだが、実は君の打つ碁に興味があってね。ぜひ君に会ってみたくなったので、白川君に無理を言って連れてきてもらったんだが、迷惑だったかね。」
「いえ、全然。先生はすごい碁を打っている人だし、会えるなんて思いもしなかったですけど。お会いできてとっても嬉しいです。」
ヒカルは行洋に見えないように白川にそっとVサインを送りました。
白川に仕込まれていた日頃の訓練がものを言っていることを示したのです。白川はそれを見てホッとしました。
うん。進藤君は大丈夫そうだ。塔矢先生に押されていない。互角じゃないか。良かった良かった。
行洋はあかりのことも見逃しませんでした。すべての陣形に目を配っているのです。
「君は?」
「ヒカルの幼馴染のおともだちで藤崎あかりちゃんていうのですの。彼女も碁を楽しんでますの。」
美津子も囲碁の周辺については明子に感化されていましたし、この辺りの言い方を心得てきているようでした。
行洋はおもむろに頷きました。
「そうか。君が。明子に聞いているよ。明子の碁の相手をしてくれているそうで、ありがたく思っているよ。あかり君と打つのはとても楽しくてためになると明子が言っていた。」
明子が、そんなことを言ったかは不明ですが、あかりは行洋のその言葉に一遍で参ってしまいました。
すてきだよ。このおじさん。明子おばさんもいい人だし、あの息子だけサイテーね。
そこで、あかりは物怖じせずに聞きました。
「先生は、本当に、おばさんに碁を打つ必要はないって言ったんですか。」
こんな素敵なおじさんが、言ったんだろうか。
あかりの最大の疑問でした。
「うむ。」
明子から何もかも聞き出していた行洋でしたが、あかりが幽霊のことを知っていることだけは知りませんでした。
それが、この場ではよかったのです。
「実はね。私は碁を職業としてから妻には随分負担をかけてきたと思っていてね。妻が気苦労をしていると思ってきた。だから妻が碁を打ちたいと言った時、それが妻の義務感からきているのだと、誤解してしまったのだ。今は妻が碁を楽しんでくれていることが分かって、大変喜んでいるのだ。
あの時は本当に妻には申し訳なかったが、私の誤解のおかげで、こんなに素晴らしい人たちと知り合いになれたことは実に喜ばしい。あなた方には本当に感謝していますよ。」
さすが長年、後援会やらスポンサーを籠絡してきた行洋の社交術です。
この辺りの振る舞いは、白川にもヒカルにも大変勉強になったに違いありません。
まあ、ということは、明子さん、ご主人と仲直りできたのね。良かったわ。人前では愛想が良いけど、妻には説明しなくてもツーカーだと思うのが男の悪い癖なのよね。正夫さんもそういうことあるものねえ。
美津子の行洋に対する好感度は上昇し続けました。
美津子が残念そうに町内会の用事でこれから出かけなければならないのですがと言うと、ヒカルが、白川先生とあかりがいるから大丈夫だからと言いました。
あかりは大丈夫でしょうが、白川はあまり大丈夫そうには見えませんでしたが。
結局その場で、行洋は、予定通りヒカルと対局することが出来ました。
あかりと白川が見ている中で、その対局は始まりました。
ヒカルは当然のようにコミ五目半でと申し入れました。
ネット碁で鍛えられてきたヒカルは、かなりの力量になっていました。
そんなヒカルの打ち筋を目にしながら、アキラとは二子置で打っていると言わなくてよかったと行洋は思いました。行洋は、打つ手を休め、碁盤を眺めたまま、じっと思いを馳せていました。
あの棋譜も、かなりの優れものだったが。白川君があの一局でかなり力をつけたと言っていたが、今の力はそれ以上だ。あれはかなり前のものなのではないか。緒方君は、明らかに私を意識してあの棋譜を選んだに違いない。彼のせめてもの盤外戦ということかな。とにかく緒方君が動き出す前に、すぐに手を打って正解だった。
ヒカルは不審に思いました。
なんで先生、こんなところで長考してるんだろう。ここに何かあるんだろうか?
それは白川にも疑問でした。
もしかしたら、ここで一気にその先の先まで見通しているっていうことなのだろうか。そういう碁を打つ人なのか?
「そうか、うむ。なるほど。」
行洋は一人納得した風でつぶやくと、現実に戻ったようです。
やっぱ今のところに何か鍵があったのか?
疑心暗鬼のまま、やがてヒカルは投了することとなりました。
「ありません。」
行洋は満足そうに言いました。
「楽しかったよ。君の打つ碁は実に興味深い。白川君は、いつもこういう進藤君と打ってきたんだねえ。羨ましいことだ。いや、君がここまで導いたのか。」
白川は、あまりつまらない盤外戦に興味など抱かない、穏やかで率直な人間でした。
緒方のような狷介さは、全く持ち合わせていませんでした。
「進藤君の碁の感性は独特です。その持っている本質を伸ばすのに、私が少しは役に立てているなら、嬉しいですが、むしろ私がいろいろ刺激を受けていますよ。」
その言葉を聞きながら行洋は自分のことは棚に上げて思ったものです。
森下は強引で短気だから、白川君はきっと苦労しているだろうな。できれば緒方君と白川君を交換したいものだね。森下と交渉してみるか。そうすれば進藤君も私の元にくることになる。
ま、それはできない冗談だが、進藤君については、緒方君には絶対負けられない。
「進藤君は。妻に聞いたところでは、なんでも五年生になる前の春休み頃から、碁を始めたと聞いているが、今打ってみて、倉田君並の進歩を示していると思ったよ。白川君はどう思うね。」
「私は彼に石取りゲームから教えましたが。19路盤で様になる碁を打てるようになるまで、二ヶ月もなかったですね。教室は週一ですから、それ以外は進藤君は、ずっと、おじいさんと打ってもらっていたんですよ。」
ヒカルはおっとりした口調で続けました。
「はい。俺のおじいちゃんが、碁好きなんです。若い時は全国大会にも代表で出たとか言ってましたけど。毎日うちに来いって言われて、毎日何局も打ってたんです。」
「ヒカル。あっという間に強くなって、置石がどんどん減って、二学期が終わるころには、おじいさんは、どうしてもヒカルに勝てなくなっちゃって、それで、白川先生がヒカルの個人指導を始めたの。」
あかりはリラックスしていたので、説明を付け足しました。
この人なら、部外者が余計な口出しするななんて言わないよね。
あかりもかなりの粘着質かもしれません。
「そうか。君のおじいさんに是非お会いしたいねえ。ご近所なのかな。」
白川はしまったと思いました。
塔矢先生のシナリオ通りの展開なんじゃないか。これは。
「歩いて十分もかからないところです。」
ヒカルは素直に言いました。
行洋は、明日早速平八に会いたいと言いました。今日これからといわないところがまた、行洋らしい名人芸なのです。ヒカルは言われた通りに平八に電話をしました。平八はもちろん、一も二もなくOK しました。一連の動きをつぶさに目にして、白川は中押し負けしたとつくづく感じたものでした。
玄関で、タクシーに乗る行洋を見送ってから、白川はぐったり、ソファーに身を沈めました。
「先生、大丈夫?」
「いや、私はダメだ。」
あかりは感嘆して言いました。
「それにしてもすごいね。明子おばさんに勝てる人はいないと思ってたけど、塔矢先生っておばさんよりもしかして強いんじゃないかしらん。」
「それはよく、分からないけど。でも塔矢先生の碁も同じだよね。ねっ、白川先生。とすると、毎日打ってもらっている塔矢って、どんな碁を打つんだろう。」
白川は呟くように言いました。
「そんなことより、たぶん、緒方さんも君に接触するよ。どうするかい。彼は塔矢門下の筆頭だよ。彼も塔矢先生並に強引で、さらに独占欲が強いかもしれないよ。だって彼は師匠と張り合ってる人だから。」
「なら俺と同じじゃん。おれも白川先生と張り合ってるもん。ま、俺、よくわかんないけど、俺が誰と会っても、白川先生の弟子だっていうことは変わらないわけだから。でも張り合ってるなら緒方先生っていう人には、今日のこと、話さない方がいいのかな。」
「どうかな。隠す必要はないけれど、情報は最低限提示するに留めるというのが正しい。僕たちが塔矢門下のことに振り回される必要はないよ。本当に今日は大失敗だった。
僕は今日、つくづく、森下門下で良かったと思ったよ。君を森下先生に紹介する前に、こういうことになったとはねえ。」
「俺、白川先生に会う前に、塔矢や塔矢のお母さんと知り合いだったんだし、いいんじゃないかなあ。」
その言葉に白川もほっとしました。
森下先生と塔矢先生は、若い頃からの気心の知れた知り合いだ。お互いの性格は知り尽くしているんだろうな。森下先生も強引で負けず嫌いで粘着質のところはあるけど。このことをどう話せばいいものか。いや、黙ってよう。進藤君が上手くやってくれるよね。任せよう。
「じゃあ、藤崎君、折角だし、一局打ってみるかい。九子置いて。」
あかりが嬉しそうに碁盤の前に座りました。
藤崎君は、本当にすごい。阿古田さんのこともだけれど、今日、塔矢先生と互角だったのは藤崎君だけの気がする。
さてさて、その晩、明子から電話がありました。
美津子は不思議そうに言いました。
「ヒカル。どうなってるの?緒方さんという人が会いたいって、言ってるけれど。あんたはそんなにプロの先生方に注目されているの?何でまた?別に大会とか出てるわけでもないのに。」
「さあ、わかんない。」
「いいじゃないか。ヒカルが誰に会っても、別にヒカルが減るわけじゃないんだろう。」
正夫はのんびりしたものです。
「それより、お義父さんが興奮して眠れないって言っていたわよ。だって、憧れの四冠の名人が家に来るっていうので。明日でしょ?塔矢さんが、おじいちゃんの家に行くのは。」
「うん。」
「へえ。そいつはヒカル親孝行したな。いや、爺孝行か。でかしたな。これで、おやじに貸しが出来たな。」
正夫はあくまで、そんな調子でした。
さて、翌日、行洋は教えられた住所にタクシーで乗り付けました。
今日は洋服でした。威圧感を減らし、くだけた感じを演出する。この辺りも心得ているのでしょうか。
しかも行洋は、平八がうきうきしているのをちゃんと分かっていて、挨拶代わりに、まずは一局平八と打ったのです。四子置でした。
それは平八を喜ばすためだけではありません。自分の好奇心を満足させるためでもありました。
そうか。これだけの棋力なら孫を引き上げるのも造作もないか。しかし、逆に言えば、これだけのアマチュアを半年で凌駕すると言うのも、すごいことじゃないか。進藤君は逸材だ。時々は打ちたいものだ。
そこで、いろいろ話をしたついでに、平八の家で、時々ヒカルと、ついでに平八と対局する約束を取り付けたのです。凄技です。
緒方君の追跡も、進藤君のおじいさんのところまでは来ない。緒方君は自分の領域で勝負したがる傾向が強い。ここで鉢合わせする心配は、99パーセントないだろう。
緒方の性格から、行洋はそう踏んだのでした。