インタホンの音に、美津子が出てみると、あかりが立っていました。
「あら、あかりちゃん。」
「ヒカル君、いますか?」
美津子は、やや苦笑気味に言いました。
「うん。それがね、あの子、お習字に行っているのよ。次の角の柴田さんのおばあちゃんのところに。」
「お習字??? 柴田さんのおばあちゃんに? ヒカルが?」
「そうなのよね。いつまで続くのか分からないけれど。突然行くって。あの子、ちゃんとやってるかしら。あかりちゃん、ちょっと覗いてみてくれる?」
「えっ。あのー。うん。」
あかりは、首をかしげながら、柴田家に向かいました。
インタホンを押すかどうか迷っていたのですが、とうとう思い切って押してみました。
だって、ヒカルのお母さんが言ったんだもの。
柴田さんのおばあちゃんが顔を覗かせました。
「あら、藤崎さんのところのあかりちゃん。もしかしてヒカル君?」
「はい。ヒカルのお母さんが、ちゃんとやってるかって。」
「ふふふ。そう。良かったらあがってらっしゃい。ちょうどお茶しようと思ってたのよ。」
ヒカルは居間で、習字道具をしまっているところでした。
「ヒカル君。お母さんが心配されて、あかりちゃんをよこしたみたいね。」
ヒカルは、ぶすっとして言いました。
「だからって、あかりが来るかよ。」
「お習字って、ヒカル一人だけなの?」
あかりは物珍しそうにあたりを見回して聞きます。
「ええ。教室を開くとかじゃなくてね。ヒカル君が、お習字をやりたいっていうのを聞いてね、近くだし、教えてあげるって言っただけなのよ。昔、お習字も教えてたことがあるから。あかりちゃんも来る?」
ヒカルは嫌な顔をしたのですが、あかりは目を輝かせて言いました。
「うん。やりたい。」
ここってなんだかすごく面白そうだもの。絶対やるよ、私。
夕食の時、ヒカルはぶすっとして言いました。
「あかりの奴も習うんだって。」
「あら、別にいいじゃないの。あかりちゃんなら。」
ヒカルが二階へ向かうのを見ながら、美津子は思いました。
いつまで続くかしら。
柴田さんのおばあちゃんなら、ヒカルもなついているから、続いて欲しいわ。せめて三か月、いえ、半年。
でも、ヒカル。何でお習字をやりたいなんて思ったのかしら。
美津子は首をかしげながら、台所へ戻りました。
ヒカルは自分の部屋でベッドに寝転んでいました。
自分の不確かな気持をぶつけられるものを探す。
それしかないじゃないか。
微かな記憶が教えてくれるもの。
それは白と黒の世界なんだ。
たまたま出会った筆と墨。
それは、不思議とヒカルの心を落ち着かせてくれたのです。
お前より、ピッタリなんだよな。
何か自分でやっていられるものがいいんだよ。俺には。
ヒカルはパンダのぬいぐるみを抱きながら思っていました。
今は、やっと落ち着いているこの状態を大切にしたいんだ。
嬉しいことに、美津子の心配は杞憂となりました。
ヒカルは、ずっと習字を続けたのです。
部屋に一人いる時にも、書いていたものでした。
柴田さんのおばあちゃんも、驚いたものでした。
ヒカルが飽きやすく、落ち着きのない子どもだと母親が心配しているのを知っていましたから。
いつのまにか、長時間の正座も平気になりました。お習字のついでに、お茶も習ったものです。
というより、お菓子を食べて、お茶を飲むだけでしたけれど。まあ、一応作法に則ってです。
5年生になる頃には、お習字は、もう一種の習慣になっていました。
柴田さんのおばあちゃんは、一度ヒカルの母親に言ったものです。
「本当に驚いてるのよ。ヒカル君。言い方は悪いんですけどね。元々あんまり字を書いてなかったでしょ。だから変な癖もついてなくてね。素直な字を書くし、結構面白い個性があるわ。
何より熱心だしね。正直びっくりよ。賞を取るとかいうものとは別物だけれど。私は好きよ。ヒカル君の書いたもの。味があるし。」
「本当に柴田さんのおかげですわ。なぜか字を書くのだけは熱心だから、学校でも、ノートとかは、丁寧にとるようになって。成績はイマイチですけど。でも落ち着きが出てきて、ほっとしてますわ。」
ヒカルは時々思っていました。
いつまでかかるか分からないけれど、それでも、微かな記憶を辿りたい。
消えたものがきっとあるんだ。いつかそれに辿り着く。
どうやったらいいかは分からないけれど。思っていればいつかはきっと。
それを忘れなければいつかはきっと。