師匠が、それだけの種をまいていることも知らず、緒方は、明子からヒカルが会うことを承知したと聞き、喜んでいました。
俺の部屋に来てもらう。そう決めました。
どんな子かしらんが、アキラ君のような子ではないだろう。それは緒方の直観でした。
棋力は別だが、それ以外はおそらく院生の子たちのようなもんだろう。
どういう子か詳しく聞き出すぞ。
明子は緒方にヒカルについては、一切説明をしませんでした。
ただ、本人とご両親が構わないと言っていると伝えただけでした。
一週間後、駅の東側でヒカルが待っていると明子がやってきました。
「なんか、変なことになってしまってごめんなさいね。この間は、塔矢とも会ったのよね。」
「うん。でもおばさんのせいじゃないし。俺がネット碁を打ったせいだよ。それに塔矢先生と打てて、すごくためになったよ。先生また打ってくれるって言ってたよ。先生って、本当にかっこいい人だよね。あかりにもお母さんにも評判いいんだよ。大人だって。」
明子はちょっぴり嬉しく誇らしく思いました。
まあ、私の選択も正しかったってことよね。
「緒方さんは、ご自宅で打ちたいらしいのよ。車で来るって言ってたけれど、いいかしら。」
「うん。白川先生と同じくらいの年なんでしょ。俺、白川先生の自宅に通ってるから。大丈夫だよ。」
「そう。そうね。」
緒方君の扱い方はなかなか大変なのだけど、でも進藤君ならうまく付きあえるわよね。頑張って。
心の中で、明子はそう呟いていました。
明子と話しながら約束の場所に歩いていくと、やけにかっこいい車が止まっているではありませんか。
その横に、白いスーツの男が立っていました。やや色のついたメガネをかけて。
ヒカルは思わず、後ずさりました。もちろん気づかれない程度にですが。
白川先生は強引で独占欲が強いかもしれないとか言っていたけれど、それよりもどんな外見の人とかを聞いておくべきだった。明子おばさんが大丈夫だって言っているのだから、おそらく見た目とは違ってるかもしれないけれど。気をつけねば。それにしても、塔矢先生から始まって、塔矢門下って、本当にすごいな。塔矢もそうだけれど。個性的っていうかなんというか、絶対、普通じゃないよ。
「緒方さん。こちらが進藤君。twinkleさんよ。」
「進藤です。ネットではお相手下さってありがとうございました。とても勉強になっています。」
白川といろいろ決めてきましたが、とりあえず初対面の挨拶です。
「私が緒方です。今日はわざわざありがとう。君と是非碁盤を囲んで打ちたいと思ってね。」
明子は、私はこれでと言うと、ヒカルに向かってにっこり笑いかけました。
「緒方さんは年の離れたお兄さんのように、息子にもよくしてくれるのよ。」
明子を見送ると緒方は車の助手席を開けました。
「ここからだと20分くらいだからそれほど遠くないからね。帰りは駅か君の家まで送るよ。」
ヒカルは頷いておとなしく助手席に乗りました。正夫は運転はできますが、車は持っていません。
普段は勤めがあって乗れない。休みの度に車に乗るのも面倒だ、というのが言い分です。
ヒカルは車に対して特に興味はありませんでした。
緒方はおとなしく車に乗っている子どもを観察していました。
やはりアキラ君とは全然違うタイプだ。院生の子どもたちとも少し肌合いが違いそうだ。
「君はいつから碁を打っているんだい。」
「五年生になる前の春休みから。始めてちょうど一年半ぐらいです。」
緒方の手が、少し止まりかけました。
なんと、なんと、本当なのか、吐かせてやる。
車はとあるマンションの地下駐車場へ入っていきました。
ヒカルはこういった場所は初めてなので、物珍しげにきょろきょろしました。
緒方はその様子を注意深く見ていました。
エレベーターの扉があくと、緒方は廊下の角にあるドアを開けました。
ヒカルは目を丸くして、ついていきました。
こいつはもしやマンションを知らないのか?
「君は一軒家に住んでいるのかい。マンションは初めて?」
「あ、はい。俺の住んでるのは普通の家だから。」
「そういや、君はシートベルトを着けたことはないのか。お父さんかお母さんは車を運転するだろう?」
「もしかしたら運転はできるかもしれないけど、うちには車ないから、普段乗らないもの。」
車が買えないのか、いや、塔矢家にも車はなかった。明子夫人が車を運転しないからだ。
ま、あのあたりの公立に通う子どもなのだから普通の家の子なんだろうな。
ヒカルの目は取りあえず、熱帯魚の水槽に行きました。
「すごい。病院でしか見たことないや。普通の家でも熱帯魚って飼えるんだ。難しくないの?」
「ああ、きちんと管理すれば、大丈夫だ。可愛いだろう。」
緒方は自慢そうに水槽のガラスをなぞりました。
魚って、可愛いのかな。たぶん、飼えば、何でも可愛くなるのかな。
この魚の目って、緒方先生の目に似てる気がする。
緒方は、ヒカルをテーブルに座らせ、麦茶を出しました。
普通の家の子なら、何を飲ませても文句は言わんだろうが、最近はやたらと、甘いのはダメ、カフェインはダメと、うるさいのもいるからな。無難がいいだろう。
そう思ったのでした。
ヒカルはコップに手をだし、美味しそうに飲みました。
緒方は折り畳みの碁盤を準備しながら聞きました。
「さっき、君は碁を初めて一年半ぐらいと言っていたけれど、どうやって勉強したんだい?碁を始めたきっかけは何だったんだい?」
「はい。俺のおじいちゃんが碁を打つんです。で、小さい時に教えようとしたらしいんだけれど、その頃は俺は外遊びが好きで、結局やらなかったんです。
でもたまたま四年生の終りに駅前の保健センターの碁の教室のチラシをもらって、お母さんが敬老の日におじいちゃんを喜ばせなさいっていって、習うことにしたんだ。あっ、したんです。
ですぐ一応打てるようになったんで、おじいちゃんのところへ自慢しに行ったら、喜んでくれて、毎日うちに来いって言われて、学校が終わったらすぐ、晩御飯までずっと打つことになって、半年したらおじいちゃんに勝てるようになったんです。教室にはずっと通ってたけれど初心者用だから飽きちゃって、そしたら白川先生が、その教室の先生なんですけど、個人指導してくれるようになったんです。
今は俺、白川先生の弟子なんです。でも先生しか打つ人がいないんで、ネット碁を始めて、それで最初の日に打ったのが緒方先生だったんです。」
「ふむ。パソコンは持っているんだね。」
「持ってないです。中学生になったら買ってくれるかもしれないけれど、小学生じゃ早いんじゃないかって親が言うもんで。」
「じゃあ、どうやって打っているんだい?」
「知り合いの人が口をきいてくれて、近所のオフィスで仕事をしている人が碁好きで、ネット碁に詳しいっていうんで、そこで、教えてもらいながら打ってます。」
「教えてもらう?」
「あ、はい。パソコンの扱い方をです。ネット碁のやり方とか、チャットの仕方とか。」
「よく、やらせてもらえるねえ。ほとんど毎日打っているんだろう。」
「うん。白川先生のとこで打つ以外は、ほぼ。でも大変だったんだ。」
「何が?」
「お母さんは一、二回ネット碁をするだけだと思ってたから、毎日通うのに反対されて。迷惑だって。
それで、泉さんが。そのネット碁をやらせてくれる人です。泉さんがお母さんに掛け合って、英語のサイトで、打てるように六年生の間に、英語でチャットが出来るようにしてくれるって言ったんです。で、泉さんはその見返りに俺と碁を打つ約束をして。」
「ふむ。ところで君は最近早朝打っていないかい?毎日。」
「zeldaのことですか。あいつ、毎日打ってくれって言ってきて、無理だって言ったら早朝学校行く前に一局打ってくれって言われて。それを見ていた泉さんが、また親と掛け合ってくれて、半年だけ、リビングにパソコン置いて、早朝だけ使うのを認めるっていうことになったんです。
zeldaって結構打てるし、呑み込みは早いし、今はかなり競ってきてるんですよ。楽しみなんだ。毎朝。
いつか、顔を合わせて打つ日が来るんだと思うし。あいつには絶対にプロになってもらいたいしね。」
「泉さんていうのは随分熱心な人なんだね。」
「IT関連って言っていたけれど、仕事は良く知らない。ただ泉さんは高校生本因坊とか学生名人とか学生本因坊だったことがある人なんだって。全国大会の代表にも選ばれたことがあるって。
俺のおじいちゃんも、若い頃アマチュアの全国大会に関東代表で出ていたらしいんです。」
ふむ。なるほどな、そういうのに恵まれて小学生で力をつけたのか。これは倉田より手ごわいのになりそうだな。
緒方は思いました。
それからヒカルは、緒方と碁盤を挟んで打ちました。
塔矢先生とは感じが違う碁を打つ人だ。前に白川先生と検討したんだ。この人のこの癖。でも実際打ってみると、やっぱ強いよ。
「ありません。やっぱり緒方先生っていつもしびれる手を打ってくるんだ。でも俺、絶対いつか勝って見せるからね。」
ヒカルは宣言しました。
緒方は、その言葉に、にやりとしました。
こいつは面白い。こいつは、素直で大人しいだけの小僧というわけじゃなさそうだ。
いつプロになるつもりなのか。
「君と公式に戦う日を楽しみにしているよ。ところで、進藤。君は随分力が付いてるけれど。何か特訓しているのか?」
ヒカルは嬉しそうに言いました。
「ネット碁のせいだと思う。」
これは白川先生と話をしておいたことでした。
ヒカルは竹林というサイトのことを教えました。そこにいる人が強くて、時々日時を約束して打っていることを。
「もしかして韓国とか中国のプロの人かもしれないって、白川先生と話しているんだ。」
「なるほど、そのサイトが英語だけの有料サイトなんだな。」
アキラ君は完全に負けているな。こいつはこいつなりに勉強と経験を重ねている。
白川はこいつを鍛えながら、自分も力をつけてきたんだな。羨ましい。
「君と打つのは刺激的だ。時々打ってくれるかい。ネット碁もいいが盤を囲むのもいいだろう。」
白川は言ったのです。
緒方さんと打ち合うのは君にプラスになる。言われたらお願いするんだよ、と。
「ありがとうございます。先生の都合のいい時にお願いします。」
「君はなぜ、プロにならないんだ?」
「小学生でもプロになれるなんていったら、お母さん驚いちゃうと思うんだ。それにもしプロになったら学校と仕事で忙しくなりすぎそうだし。俺、もうちょっとしたいことあるし、腕も好きに磨きたいんです。白川先生も、俺の場合は、中学生になってからゆっくり考えても、遅くないって言ってくれたし。」
ふむ、こいつの場合は、アキラ君がプロ試験を受けないのとは、違う理由があるのだな。
それはそれとして、こいつはプロになりたいと思っている院生の腕を磨いてやっている。その上、おそらく、そいつをプロにして自分もいずれプロになって打ち合いたいと思っているわけだ。
すでにプロもどきの仕事もしてるじゃないか。強豪のアマの指導碁までしているんだから。
白川は、もしかしたら、なるべく長く自分の手元に置いておきたいのかもしれんな。
ま、俺もこいつを弟子に取ったらそう思うかもしれんな。
俺は、決めた。とにかく、白川にだけ、美味しい思いはさせないぞ。
緒方の魚のような目が、眼鏡の奥で、きらりと光りました。