いつもの早朝の一局を終えるとアキラは言いました。
「僕、今年のプロ試験を受けるつもりです。」
「決心したのだね。」
「はい。」
行洋はしばし黙しました。
アキラも進藤君も碁の才能は抜きんでている。
だが、二人には決定的な違いがある。それは現在の棋力のことではない。
考え方の違いというべきか、いやむしろ目標の違いかもしれない。同年代の好敵手を望んでいたが、いずれ進藤君が棋界に出てくるその時がアキラの試練の時になるだろう。それまでにアキラには、しっかりプロの世界で揉まれて力を伸ばして欲しいが。
「プロの世界は厳しい。」
行洋は思わず口をついて出てしまいました。
「分かっています。」
「うむ。明日の朝からは、常先で打つことにしよう。心しておくように。」
「はい。」
アキラは声を弾ませました。
プロになるということはそういうことなのだ。
いつまでもお父さんに甘えてはいけない。お父さんはそう言っているのだ。
僕はまっすぐ前だけを見据えて進むから、大丈夫です。
それは、アキラらしい若々しい決心でした。
プロ試験というのはプロになるための儀式の一つでしかないというのがアキラの認識でした。
本戦ですらそういう考えなのですから、予選などあってないようなものでした。
僕は今、お父さんと打つ碁しか夢中になれる碁がない。後は緒方さんぐらいかな。ほかの門下の人と打ち合う時があるけれど、五分五分だもの。芦原さんなんて、僕が手を緩めることがあるのにも気づいていない。僕の目標は、とにかく、お父さんのような名人になることなのだから、それに向かって進むだけだ。
市河はいつもの場所に座って、棋譜並べをしているアキラの姿を眺めました。
ここにいる誰も、アキラのプロ試験の結果など心配する人はいません。受からないなどある筈がないのです。
それよりも、市河はあの時からずっと、気になっていました。
アキラ君、進藤君に話が出来たのかしら。一体何を話したのかしら。まあ、友達としての話なら、いちいち誰かに言う筈はないわよね。でもアキラ君に友達っていうのがねえ。イマイチぴったりこないのよね。
ううん、今はプロ試験よね。試験の結果が出るのは十月ぐらいじゃなかったかしら。アキラ君のお誕生日の前よ。
ということは11歳で、プロ合格よ。確かそういう人は、今まででに一人か二人、いるかいないかよね。それってもしかして囲碁界の大ニュースじゃないの?
「ねえ。アキラ君。お父さんには何て言われたの?」
「うん。決めた以上はしっかりやりなさいって。」
そうよねえ。アキラ君になら、それ以外に何を言うことがあるかしら。ああ、それにしても何となく残念よ。プロになったら、それに来年からは中学生にもなるんだし、忙しくなるでしょうし、ここへ来る回数も減りそうね。
アキラの周りの常連は、既に浮かれていました。
「アキラ先生がプロになったら、大々的にお祝いしなくちゃねえ。」
市河は少し眉をひそめました。でもアキラは、そういうことを軽くやりすごす能力を持っていました。
ところで白川ですが、門下というものをそれほど後生大事に思ってはいませんでした。
碁は個人の力がものをいうものだし、師匠と弟子といっても、碁を打つことで、教えられることは、おのずと限られている、そう思っていました。だからこそ、ヒカルを弟子にしていられるのかもしれません。
とにかく、もっと門下の垣根を越えて、お互い打ち合わなきゃ、強くなれない。
そう思うからこそ、ヒカルが緒方や行洋と打ち合うことを認め、勧めてきたのでした。
それでも私は塔矢門下じゃないし、振り回されるのはごめんだ。
温厚な白川でも限界がありました。
このところの塔矢門下の様々な押しの強さに圧倒される思いを抱き、正直腹立たしく思っていました。
正確には行洋と緒方にというべきでしょうが。
緒方さんは進藤君を自分のマンションに何度も連れ込んでいる。
聞きようによってはかなり怪しい言葉ですが、その独占欲の強い囲い込みの姿勢を白川はひどく不愉快に感じました。それが、逆に白川に、強い決意を抱かせました。
本当に許しがたい。私は絶対に緒方さんより早くタイトルホルダーになる。なってみせる。
その思いは白川の碁にはっきりと反映されて、白川は、さらなる快進撃を続けていまきした。
それにしても塔矢先生も塔矢先生だ。進藤君のおじいさんをだしにして、進藤君と密会を重ねているとは。
これもまた非常に誤解を招く言い方でした。
でも塔矢先生にだけ、そういう便宜を図らせることはないよね。
うん。そうだ。和谷君をあそこに呼ぼう。広さもある。進藤君のおじいさんは寛大で、碁のことになると、何でも認めてくれる。それに言っちゃなんだが、塔矢先生効果で、僕が言うことは何でも通るようになってきている。
それを活用しなくてなんとする。
この前の研究会で、それとなく話をしてみて、和谷君がzeldaに間違いないことが分かった。
こうなったら森下先生云々は後回しにして。兄弟子として弟弟子を応援する。
和谷くんだけでなく、冴木君も一緒に鍛えよう。
そう決めた白川です。
さて、twinkle との初対局の後、ベッドに転がり、口惜しい、しびれた、でもまた打ちたいと願った和谷ですが、猛アッタックの甲斐あって、twinkleとの早朝対局にこぎつけることができました。
チャットの感じから、プロじゃない、子どもなのは本当らしいとは感じたものの、正体は依然つかめませんでした。それでも、twinkleが自分と対局することを本当に喜んでくれているのが感じられて、それが何より嬉しくて、夢中でした。気が付いたら、かなりの力がついていました。
そのせいとばかりは言えないでしょうが、和谷は、院生順位を八位にまで上げました。
院生一位の伊角は、和谷の好調な様子に目を見張りました。
「和谷ってこの頃、すごく強くなってきてないか。」
和谷は嬉しそうに答えました。
「分かる?俺特訓してるからな。」
その伊角ですが高一、昨年のプロ試験ではミスをして、合格を逃していましたから今年の試験にかける意気込みは相当なものでした。和谷の言葉に早速飛びつきました。
「何、お前、森下先生に特訓を受けてるのか?」
羨ましそうに言いました。
「そうじゃねえよ。知りたい?伊角さん。」
「ああ、知りたい。もったいぶるなよ。」
和谷は自慢たらたらで、伊角を一晩自分の家に招きました。
親には風呂も飯もいらねえ。夜遅く来て、朝、すぐ帰るだけだからと言って了解してもらったのです。
早朝のtwinkleと和谷の一局は、伊角に深い感銘を与えました。
「ネット碁も馬鹿にしたもんじゃないだろ。」
「ああ、俺も打ちたくなったよ。パソコン買おうかな。俺とも打ってくれるかな。こいつ。」
「忙しそうだからな。それより、俺、こいつと会ってみたいよ。」
和谷は言いました。
そんなことがあってすぐに、プロ予選の日がやってきました。
初日、和谷は、会場へ行く途中で、院生でない少年を一人見かけました。
横にいるのは、えっと、冴木さんのライバルの芦原プロじゃないか。塔矢門下の。
「じゃあな、アキラ。」
その言葉で和谷は理解しました。
あいつが塔矢アキラなんだ。今年試験を受けるって噂だったけど本当だったんだ。
それにしてもあのヘアスタイルは女の子っぽくないか。ああいうヘアスタイルをするっていうことは、もしかして、あいつがtwinkleっていう可能性はないかなあ。あいつ小学生だろ。ちょっと確かめてみようかな。
でも、もし、あいつがtwinkleだったら、やだな。何となくそりが合わない気がする。
そう思ったものでした。
意を決し、部屋の隅で詰碁本を読んでいるアキラに話しかけるまで少々時間がかかりました。
なんて言ったらいいんだろう?
「外来だよね。」
アキラは、和谷に目を向けました。
「君は?院生?」
「うん。俺は和谷義高。」
「そう、ぼくは塔矢アキラ。」
やっぱりだ。
「あのさ、塔矢君はネット碁とかやる?」
「ネット碁?ううん。やらないよ。」
それだけでした。
どうみても、こんなことで嘘つくような奴じゃなさそうだし、こいつはtwinkleじゃない。
和谷は何だか、ひどくほっとしたものでした。