とにもかくにも予選は通ったぜ。
ほっとした思いで、出席した研究会で、和谷は師匠の森下に、はっぱをかけられました。
「いいか。今年は塔矢アキラがプロ試験を受けるそうだ。絶対負けるな。落ちたら破門だぞ、いいな、破門だ。」
「先生。そんなプレッシャーをかけてどうされるんです。」
年長の都筑がとりなしました。それなのに、冴木は余計な口をききました。
「破門されたら、白川さんの弟子になればいいじゃないか。そうしたら、孫弟子のつきあいだな。」
「いいか。冴木。お前もこの次芦原君に負けたら破門だ。」
森下は冴木をギロッと、睨み、かっかと、わめきました。
冴木は、首をすくめました。
さてそう言って、はっぱをかけた森下ですが、和谷の面倒を毎日見てくれるというわけではなく、そこは毎日父親と打っているアキラと比べ、明らかに不利でした。
プロ試験の本戦初日、玄関で出会った和谷はアキラに親しげに「ようっ!」と声をかけました。
しかしアキラは不審げに和谷を見つめ、軽く会釈して行ってしまいました。
「あいつ、覚えてないんだ。」
それは和谷には、軽いショックでした。
あいつ、やっぱり、そり合わねえ。よし、俺、この試験、頑張るぞ。
そう誓った和谷でした。
しかし、いくら誓っても、手の届かないものは届かないのです。
今年もやっぱ合格できなかったか。
納得しつつ諦めきれず、「また院生続けることになった」そう書き込みました。
チャットに書き込まれた、zeldaのその言葉を見て、ヒカルは、やっぱりプロになるのは厳しいんだなと思ったものでした。
また院生の日々です。
「お前はまだいいよ。俺はもう高二になるんだぜ。後がなくなってきてるよ。」
伊角はそう言いました。
俺ってメンタル弱いよな。いつも本番はこけてばっかり。プロになれるんだろうか。院生順位はこのところずっと一位を保っているのに。
伊角は深刻にそう思っていました。
今年合格したうち二人は、外来でした。
「外来も強いのが多いよな。もしかして、来年あたりtwinkle、受けるのかな。そうしたら、枠は二人かあ。」
和谷はそう言って、呻きました。
不合格の報告の挨拶をするため、和谷は、恐る恐る師匠の森下の家に向かいました。
兄弟子の冴木が付き添ってくれました。
「気にすんな。先生は俺は11の時に受かった。行洋は13の時だった。何かというとそういうけれど、来年頑張れって励ましてくれるよ。」
森下先生って、なんだかんだって言っても、和谷のことは特別に可愛がってるもんな。俺の時はもっと冷淡だった気がする。
冴木はそう思いました。
案の定、森下は、終わったことにこだわるな。また挑戦すればいいと励ましてくれたのです。
そこへ、白川がやってきました。
「この次の研究会は欠席になるので、ちょっと挨拶に寄りました。」
そう言ったのですが、和谷には、自分のことを心配してきてくれたのだということが分かりました。
「それ、なんですか。」
冴木が聞きました。
「この前、予選がてらで、中部へ行った時のお土産。貰ったんだよ。」
紙包みを開けていると、夫人が覗きました。
「あなた、塔矢さんよ。」
「何?行洋だと?何しに来たんだ。今頃?」
森下が玄関に行くと、行洋がアキラを連れて、立っていました。
「何、遠慮してんだ。入れよ。」
「いや、今日はすぐ失礼する。奥さんが、アキラのプロの合格祝いを下さったんでね。息子を連れて、お礼と挨拶に寄っただけだ。タクシーも待たせてあるし、すぐに失礼する。」
「ああ、そうか。おめでとう。アキラ君はいくつだ?」
「誕生日は12月だから、まだ11だ。森下と同じだ。」
行洋はあっさり言いました。
森下は目を細めて、しばし遠い目をしました。
「そうか。11か。アキラ君はきっといい碁打ちになるんだろうな。」
「四月からよろしく指導してくれ。それを頼みに来た。」
森下は生真面目に言う行洋に答えました。
「何言ってる。お前が小さい頃から鍛えたのだろう。俺の出る幕などないじゃないか。まあ、11っていうところだけは、俺と同じだが。ま、何かの縁だな。ははは。」
アキラは真剣な顔をして言ったものです。若々しい抱負をです。
「ご指導よろしくお願い致します。でも僕は森下先生と同じになるつもりはありません。僕の目標は父のようなタイトルホルダーになることですから。」
その言葉に固まることがなかった森下はさすがです。ただ玄関のやり取りが聞こえた座敷にいた弟子三人は固まっていました。
行洋は、アキラの言葉には何も反応を示さず、言いました。
「アキラ、タクシーに戻って、運転手にすぐ戻るからもうちょっと待ってくれるようにと伝えておいてくれないか。」
「はい。」
アキラは森下にお辞儀をして出ていきました。
ちょっと沈黙があった後、行洋は言いました。
「息子が失礼なことを言ったかもしれんが、許してくれ。あれはただ自分の抱負を語っただけなのだ。誤解を招く言い方だが、他意はない。そういう性格なのだ。しかたない。これから揉まれていくうちに自分で分かって修正していくしかないだろう。」
「プロ棋士には一番の性格じゃないか。盤外戦にはもってこいだ。それにお前も期待してるのだろう。息子の才能には。全勝合格だったな。棋界も期待してるだろうよ。」
森下は、腹立ちを抑えて、苦笑して言いました。
「それは、私も親だ。息子が望んでいることが叶えば嬉しいかもしれないが。だが、そうならない時に、あれの誇りを支えるものがあるのか、それの方が心配なのだ。あれには私にとっての君のような存在がいないからな。」
行洋の真摯な言葉に森下は、ちょっとドキッとしました。
こいつは俺のところ以外ではこんな言葉は吐かない。本当にそう思ってるわけだ。なぜだ?
俺だったら、塔矢アキラのような息子がいたら、手放しで喜ぶがな。何か訳があるんじゃないか。
さすが長い付き合いと勝負師としての勘が森下にそう感じさせました。
それでも軽い口調で言いました。
「何だ。お前。自分の息子が一生タイトルを取ることがないような口ぶりじゃないか。」
「そういったことは分からん。この先の戦績などは。だが、本当に力ある若手はこれから出てくるのだ。あの子は理解していない。直面してからもがく。まあ、それも人生だ。いや、愚痴を言ってすまない。お礼のつもりが、気分の悪い思いをさせて悪かったな。」
「いや、何だ。要するに後続を気にしろということか?今だって目標にすべき棋士はいるだろう。お前のところの緒方君とか。」
「そうだな。白川君とかね。君は実にすばらしい弟子を持っているよ。羨ましい。それより、いや、まあいい。タクシーを待たせすぎる。失礼するよ。」
森下は去って行く行洋の後姿を複雑に眺めました。
あいつはあいつで子どもに苦労しているらしい。俺ぐらいにしか分からん事だがな。
11歳で入段し、神童と騒がれた麒麟児、結局一度もタイトルを取れず、40代も半ばになってしまった男は弟子たちの元に戻りました。
森下は弟子たちの顔を見たら急に腹立たしさが、湧いてきました。
「いいか。和谷は来年は全勝合格だ。いいな。それから冴木、お前は芦原君だけじゃない。塔矢アキラも勝たせるな。いいなっ。」
檄を飛ばされた二人の弟子が帰った後、まだ残っていた白川に森下は聞いたものでした。
「白川君は、この前、本因坊予選で行洋とあたったんじゃないか。行洋の奴、どこか変わったところ、なかったか。」
「いえ、もともとの塔矢先生がどうなのかを知りませんから。ただ、塔矢先生はこれから若手が伸びてくるというのを感じているのでしょう。自分の息子が特別ではないということを。時代が動いているということをです。」
塔矢先生は、進藤君をそれだけ評価しているわけだけど、今進藤君のことを森下先生に話すわけにはいかない。話したからと言ってどうかなるわけでもない。
森下の方は、独特の勘で思いました。
白川君は何か知っているか、感じているのかな。