幽霊さんこと、佐為の周囲は少しづつ変化し、いろいろな現実が進んでいました。
でもそれは人間の側の変化です。
佐為がそれに興味を持てば何か変わったでしょうか。
今のところ、それは佐為に何も、もたらしませんでした。
ただ律儀な明子のおかげで、ネット碁は、ずっと続いていました。
twinkle騒動で、行洋との間にあった隙間が埋まったため、明子に気持の余裕が出てきて、佐為のために時間を取ることがそれほど苦痛ではなくなったのです。
それもこれも進藤君のおかげだわ。
明子は考えました。
進藤君って、そんなに有望なのかしら。夫も緒方君も呆れるほど執着してるわ。
緒方君はともかく、夫が進藤君に夢中になっているのを見ると少し妬けるわ。
進藤君から碁を教わったんだから、私って進藤君の弟子ってことにならないかしら。
今度聞いてみようかしら。正式に弟子にしてって。立派な三角関係よ。ちょっといいわね。うふ。
塔矢家を変えた出来事は、もう一つ、アキラがプロ試験を受けると決めたことでした。
これで中学受験が終われば、ほぼ自分の役割は終わるのね、と明子は思いました。
もちろん子どもだから、お食事や着るもののこととか、日常いろいろしてあげることは続くでしょうけどね。
でもアキラさんの将来はそれで定まってしまうのですものね。滅多なことでは辞めることのない仕事よ。
明子は息子がタイトルホルダーになることには執着がありませんでした。
夫がそういったことはすべてやってしまったせいでしょうか。
夫が息子に相当な期待を寄せていることは知っていましたから、才能があることは分かっていました。
だからのんびり構えていられるのかもしれませんが。
穏やかな生活ができれば一番でしょう。夫がアキラさんに何を期待しているのか、わからないけれど、別にタイトルとらなくても、みなさん、それぞれ家庭を持って立派に生活されてるじゃありませんの。森下さんだってそうでしょ。
それより、今は進藤君が緒方君にいびられていないか、ちょっと心配よ。白川さんと緒方君は今棋聖の挑戦者を目指して争ってるでしょ。緒方君て、そういう時に対抗心むき出しになるから暴走しかねないわ。何があっても私は進藤君の味方ですからね。
そのヒカルは忙しい日々を送っていました。ひと皮むけてきたヒカルにとって白川は実に有益な師匠になっていました。ヒカルがひと皮むけたとすると、白川はひと皮もふた皮もむけた感がありました。
白川は、緒方とは一線を画し、ヒカルのことについては、全く話すことはありませんでした。が、白川は平八の家で行洋とは打つこともありましたし、ヒカルも交え三人で検討をすることもありました。
棋界関係者が見たら、さぞかし不思議に思う光景でしょう。
竹林で中国のプロとの対局、泉に対する指導碁、しかも英語の勉強はパソコンを手に入れるために必須でした。
碁はともかく勉強の方はあかりがヒカルの家庭教師のように面倒を見て一緒にやってくれましたが。
今は、そこに伊角と和谷と、時々冴木との打ち合いが入り込んで、目の回るような忙しさでした。
緒方は、ふっとため息をつきました。名人戦の挑戦権は畑中に行きました。
王座戦も天元位も挑戦権を逃してしまった。今年ももう終わる。そんな頃でした。
明子は緒方がヒカルをいびっているのじゃないかと心配してましたが、その心配は無用でした。ヒカルと緒方の関係は微妙でした。それは緒方が佐為に執着したのと同じように、ヒカルに執着しているためでした。やはり粘着質なのです。
ヒカルは緒方が、ポーカーフェイスが苦手なことを知りました。
だからといって、それでどうかするということがないのがヒカルでした。
緒方は感じました。
こいつのような奴ばっかりだったら俺もネット碁を打つ時のように打てるのに。
あの桑原の爺。
「全く自分がいやになる。」
緒方は声を出しました。ヒカルには、それだけ安心して心を開いているのでしょうか。
「なにがいやになるの?」
盤面をじっと眺めながら、ヒカルは、聞きました。
「俺は顔にすべて出るのだ。対局中に。」
ヒカルは顔をあげて、緒方を見ました。
「俺、打っている時、対局者の顔を見るなんてそんな余裕ないよ。たぶん、緒方先生の表情を読める人って、それだけ余裕のある棋力の持ち主だよね。ということは、表情を見たからどうかするなんて必要ないよ。その人の打つ手に緒方先生の表情は影響しないと思う。きっと。
でも緒方先生の方には影響するんだよね。自分が顔に考えを出しているっていう気持が、先生の手に現れちゃうんじゃないの。」
緒方は苦笑しました。
上手の俺に向かって、言うこととは思えないが、あまり腹は立たない。得な奴だ。
それに、こいつの言うことは半分は当たっている。俺と渡り合う奴らは、俺が気持を顔に出すのを分かっていて、盤外戦を仕掛けてくるが、結局俺がそれに乗ってしまうだけだからな。
顔に出てもそれと打つ時の心持というのは意外と切り離せるかもしれん。全く俺の問題か。相手を気にしないか。顔に出ることをそういうもんだと割り切ればいいのかもな。
緒方は、全く表情を変えない師匠と先ごろプロ試験に合格したその息子を思い出しました。
アキラ君も同じタイプかな。いや、父親を見習いたいと思っているんだな。
アキラ君は本当に悔しい思いをしていないからな。これからだな。
まあ、低段者は相手にならないから、当分はポーカーフェイスもできるだろうが。
そのてん、進藤はどうなんだろうか。ポーカーフェイスでは、ないわな。素直に気持を表しそうだが盤外戦は効かないな。対局に集中して、余計なことは一切考えない奴だからな。
こいつは一体どういう生活を送っているんのだろう。まだ12年ほどしか人生を送ってないのに。何考えてるんだか時々めまいがするな。やはり小学生だと思う時もあるが、いやに大人っぽい感じがする時もある。
アキラ君の場合は大人ぶっているわけだが、こいつはそういう時、自然に大人なんだな。もう何度も盤を挟んで打っているのに、話もしているのに、こいつについては、知らないことがまだまだある。不思議な奴だ。俺はこいつの何を知らないのだろう。
「進藤。俺に何か隠し事してるか?」
緒方はずばりと聞いてみました。ヒカルはちょっと考えました。
「話してないことはたくさんあると思うよ。それが隠し事なのかは分からないけれど。」
「碁のことでか?」
「うん。それもあるし、他にもいろいろ。」
「お前は、まだ俺の半分も生きていないのに、いろいろか。それは俺に関係するか?」
「関係するって言ったらするのかな。関係ないって言ったら関係ないかも。でもなんで俺のことなんかそんなに気にするの?俺、まだそこまで強くないのに。」
緒方は違う方向から攻めてきました。
「進藤は、この前は、約束の日を変えてくれって言っていたが、何かあったのか?」
「この前?えっと。連合運動会だった。ずっと雨で順延になってたんだ。俺、選手だったから。ずっと放課後、練習させられたりして、随分大変だったよ。」
「かけっこか?」
「うん。リレーもやった。それと走り幅跳びにも出た。リレーは、俺、アンカーだった。」
「そうか。お前は小柄だけど、運動が得意なんだな。」
「うん。体育だけが取り柄って言われてるよ。俺、別に受験しないし、いいんだ。」
「そう言えば、相変わらず、森下さんに紹介されていないのか。」
「森下先生?うん。もう少し先で構わないって、白川先生はそう言ってる。今でも何かと忙し過ぎるからって。中学生になったら、俺、習い事とか、いろいろ整理するんだ。そうしたら少し余裕ができるし。」
「何?進藤は何か習い事をしてるのか?」
「別にどうってことないよ。お習字とお茶だけだし。あと、英語でしょ。中学になったら、パソコン買ってもらえそうだよ。そうすると泉さんのところも行かなくてよくなるから往復の時間が減るかな。それだけでも随分すっきりしそうだよ。」
緒方は他のことはともかく、習字とお茶という言葉に唖然としていました。
「進藤。これは筆ペンだが、これで何か書いてみろ。この新聞紙でいいから。」
「何を書くの?俺、漢字、苦手だよ。」
習字を習っているという割には、心もとない返事です。
「何でもいい。自分の名前とか小学校の名前でいい。」
ヒカルは筆ペンを、手に取り、少しいじくりまわしてから、傍にあった新聞紙を広げ、名前と小学校を書きました。
「葉瀬第三小学校 六年 進藤ヒカルっと。これでいい?」
うーむ。嘘じゃなさそうだ。なかなか味のある慣れた字だ。こいつの碁みたいな文字だな。驚いた。
「それで、お茶っていうのは何だ?」
「お習字の先生がさ、お茶の先生もしてるんだよ。だからお習字の後で簡単にお茶の作法を教えてくれるんだよ。お点前とかは、一緒に習字をやってる他の子がするから。俺は飲むだけだから正式にはやっているとは言えないかも。でも毎回、お菓子が食えるから続けてるんだ。正座もするけど、それは碁を打つ時の役にも立ってるから、良かったよ。」
ヒカルは澄まして言いました。
「習い事の清算か。いずれ、お前との碁も清算されるのかな。これも習い事かもしれんな。お前には。」
緒方は自嘲的に呟きました。
ヒカルはそういう緒方を気にもせず、言いました。
「俺がプロ試験受かったら、今みたいにしょっちゅうは打たなくなるでしょ。緒方先生とは。きっと。でもこれを習い事とは思ってないよ。先生が思ってないのに。
白川先生はね、いろいろなうわ手の人に打ってもらうのは俺のためになるって、これからの若い人たちは、門下とかを気にしてはいけないんだって、そういうんだ。」
「そうだな。それは俺もそう思うよ。ところでお前がプロになるというのは。いつだ?それは。」
「再来年かも。落ちるとは思いたくないけれど、中学生の間にプロになりたいな。受験したくないもん。」
こちらは中国棋院。主のように暮らすヤンハイは二人部屋を一人で占拠してし、独り言をつぶやきながら、何やらやっていました。
「ヤンハイ。何をぶつぶつ言ってるんだよ。またネットで遊んでるのか?」
「遊んじゃいないよ。俺のスポンサー予備軍に貸しを作ってるんだよ。だがなあ、貸しと思っていたら、これがまた何とも面白いんだよ。日本にもこれだけ刺激的な碁を打つ奴がいるのかねえ。力の点では、まだ俺の比じゃないがな、数年先にはどうなるかな。伸びる先が楽しみだよ。こいつ、一体どこまで行くんだって気がする奴なんだ。下手な手も打つけれど、これはという手も多いんだぜ。おい、ちょっと見てみろよ。この打ち方をさ。相手はホアソンリーだぜ。あいつが押されてるんだぜ。ここに打った石が効いてるんだ。」
「うーん、なるほど。日本にも少しは強いプロがいるんだろうさ。」
なめられたいい方です。
「いやいや。どうなのかな。その俺のスポンサー候補が、ネット碁だからお互いの素性は明かさないことにしてますと言うんだ。でも最近な、こいつに会わせてもいいって言い出したんだ。ここ。棋院だけどな、ここでしごいてくれたらって条件でさ。それってプロがやると思うか?」
「日本から勉強に来るやつもそれなりにいるよな。でも、その話、面白いかもな。身が入らないちびっこたちに少し活を入れて、刺激与えられるかも。もしも、アマがこんだけ打てるってんならな。」
「師範に許可もらっておくかな。」
俺は、日本の奴で、もうひとり、素性を知りたいのがいる。ワールド囲碁ネットに。
そいつは恐らくプロだろう。二、三日に一回くらいしか、顔を出さないが、そこそこ強い奴を選んで、打っている。そいつはほとんど負けたことがない。負けたのは2回ぐらいじゃないか。
俺も一回打ったが、すばらしい打ちまわしだ。俺の神の一手プロジェクトに役立ちそうなやつだ。顔を出す回数が少ないので、あまり騒がれないが、プロだとしたら誰なんだろう。
ヤンハイは、自身が知る日本のトッププロの顔を思い浮かべ、いやいやと、首を横に振りました。
その時、無意識のうちに、ふと呟いていました。
「あの twinkle が力をつけていけば、sai のようになるんじゃないか。」