「ほら、この窓から見えるだろう。あれが棋院。歩いて通える距離だから、荷物を置いたら、早速案内しよう。」
空港に迎えに来た泉は、ヒカルをホテルに案内して言いました。
そう今から中国棋院での武者修行が始まるのです。と言っても、和谷と伊角は三日前に、泉の出張にあわせて出発していました。
伊角の父は、中国行をあっさり認めてくれました。和谷は中学在学中に受かるからと、進学費用を用立ててもらって、武者修行の費用に充てました。ヒカルは卒業式を終わらせてから、一人で出発することになったのでした。
空港までは美津子が付き添い、向こうでは泉が出迎えてくれるというのですから、何も心細がることはないのですが。ヒカルは、ぶつぶつと呟いたものです。
「伊角さんも和谷も一緒に行ってもいいのに、待ってくれないなんて…。」
そう、逆行前も今も、ヒカルは一人旅などしたことはないのでした。
棋院に着くと、泉は言いました。
「こちらで、挨拶をしてからね。私はそう時間は取れないから君を置いてすぐ行くからね。」
紹介されたのは、穏やかな年配の人でした。
「こちらが教練の李先生。先生。これが三人目の。」
「進藤ヒカルといいます。よろしくお願いします。」
「よく来ました。しっかり勉強してください。」
ごく簡単に挨拶をして泉は帰っていき、ヒカルはすぐ訓練室に案内されました。
伊角と和谷がそれぞれ相手をしてもらっているのが見えました。
「二人、大変熱心です。」
伊角が顔をあげて、ヒカルを見つけました。
「進藤。」
ヒカルはほっとして、取りあえず、伊角の居る方へ行きました。
ヒカルはその時からもう何年もいるような顔をして、訓練室で打ち合いを始めました。
その日、消灯まで粘った後、ホテルに帰り着いてから、ヒカルは言いました。
「俺さ、一人で飛行機乗った時は、二人とも先に出かけてって、怒ってたんだからな。でも良かったよ。二人が先に棋院に行ってくれて。いきなりだったら、本当に大変だったと思う。言葉通じないしさ。」
「うん。俺たちも着いた時は大変だった。あそこは本当にエリートの集まってるところだから、俺なんか相手にされないし、言葉わかんないし、年長の人が相手をしてくれたけどね。伊角さんは、初めから結構引っ張りだこだったよな。」
「本当に助かったよ。でも今日はしゃべれる人いたよね。日本語。あの人が竹林で打ってくれた人らしくて。俺が今日行くって知ってて、待ってくれてたみたいだね。で、あと何人か俺と打った人がいるって。棋戦で留守の人もいるんだってね。プロだもんな。みんな。」
和谷はずっと三子局でしたが、伊角とヒカルは互先で頑張りました。
初めは何を言っているのか分からなかったのですが、検討に必要なことは何となく分かってくるものです。
ヒカルは検討にも積極的に参加しました。ヒカルは日本語で、相手は中国語ですが、碁石が説明をしてくれるのでした。
朝から晩まで熱気が溢れている訓練室は本当に楽しい。こんなに強い奴がうようよいて、打ち合って、検討し合って、頑張りあってるんだもの。もしここで、ずっと頑張って行ったら、どうなるかな。
ヒカルはそれから頭を振りました。
やっぱ、できないよね。俺、探さなくちゃいけないんだもの。ここにはないよ。たぶんね。それは日本にあるんだよね。
その日、昼ご飯を食べている時でした。
「もう明後日でお別れか。残念だね。進藤君なら、北京チームに誘ってあげるのに、残らないか?」
流ちょうな日本語を使っているのは、泉が知りあいだといっていたヤンハイでした。
「うーん。ここの昼ごはんは美味しいけど、言葉覚えるのが大変だもん。」
「進藤はすごい人気者だよね。みんなが進藤と打ちたがるんだもの。俺、正直妬けた。」
和谷は羨望を込めて言いました。
「進藤君が碁を覚えてまだ二年っていうのは。でも嘘じゃないと思うよ。君の碁は斬新だ。いつか俺の最強の棋士の相手になってほしいね。」
「誰?それ?」
「俺が開発中のAI。人工知能だよ。」
「囲碁ソフトですか?」
「うん。そんなものかな。俺はね、絶対来ると思ってるよ。チェス、それに日本の将棋はかなり強いのが出てる。囲碁もいずれそうなる。俺が最強のを作る。それでAI名人戦をやって、名人になったAIは、人間の名人と対局する、ワクワクしないかい?」
「すごく面白そうです。でもそういうことは進藤が人間の名人になるっていうことですか。さっき相手してくれって言ってたけど。」
「あは。まあこれから出て来る人はみんな可能性はあるよ。そうだね。そうか。俺が考えていたのはね、そういう意味じゃなくてさ。進藤君の碁が面白くて、興味があるんだ。だから最強のAIを作り上げるのを手伝ってもらおうかと。そういう意味だったんだけどね。
そうだ。君たちはネット碁をやるんだよね。」
「はい。」
「JPNでsaiっていうのが誰か知らないかな?」
「sai?」
和谷は首を傾げました。
「ああ、そうか。君たちは学校に通ってるから知らないのかもね。saiは、週二回ぐらいかな、たいていは昼間、現れるんだ。ほとんど負けなしで。」
「強いんですね。その人。saiって、何となく韓国の人の名前みたいですね。JPNでも。」
「そうかもね。まあ、プロだとは思うのだけど。まさか誰かが作ったAIだとは思えないしね。その人に会えたら、是非、私の神の一手プロジェクトに協力してもらいたいと思ってるんだけどね。」
中国棋院での武者修行は、三人に多くの実りをもたらして、無事終わりました。
帰りの飛行機の中で、伊角は言いました。
「俺は、自分の世界が狭いということを思い知った。あそこはすごいよね。年齢関係なくエリートが互いに腕を磨いていて。進藤と磨いてきたおかげで、気後れはしなかったよ。俺の今の力で、やれるだけのことはできた。頑張れた。」
「俺も俺なりにやったよ。俺、ヤンハイさんのAIの話が面白かったよ。AI名人戦ってありそうだな。十年ぐらい先には絶対にあるな。saiって、そんなに強いのかな。一度見てみたいな。」
ヒカルは二人の話を聞きながら、ぼんやりしていました。
何かが、胸の中でうずいていたのですが、それが何か良く分からなかったのです。
ただ一言言いました。
「チャオシーもルーリーもヤンハイさんだって、結果を残さなければ、北京のあそこには、居られないんだね。厳しい世界に身を置いてるんだよね。」
伊角はそれを受けて言いました。
「俺、前は、ただプロ試験に受かりたいって、それしか考えてなかった。今は試験に受かるっていうのはもちろんだけど、それだけじゃない、プロになってどうしたいのかを考えている。もっと強くなりたい、中国棋院で頑張ってた奴らと棋戦で対局して、勝てるようになりたいって思ってるよ。」