…
「お義姉さんからよ。」
受話器を渡されて、電話口で短いやり取りを終えた平八に、妻が尋ねました。
「お義姉さん、何ですって。」
「ほら、兄貴が亡くなった時、どうするか、もめた碁盤があっただろう。」
「ああ、あの烏帽子を被った幽霊が出るとかいう。」
「結局売った道具屋がまた引き取ってくれたんだがね。それが売れたんだと。道具屋が親切に知らせてくれたんだそうだ。」
「そんなものを買う人がいるんですねえ。」
「まあ、兄貴みたいな物好きはいるもんだよ。だが、本当に幽霊はついとるのかねえ。兄貴は一度も見たことがなかったようだが。」
… … … … … …
古道具屋に並べられた碁盤はある日、好事家の手に渡りました。
それから、一年、ニ年…。
碁を打たれることもなく、部屋の一隅に、ただずっと置かれていました。
好事家は、がっかりしていました。
幽霊など影も形も見えない。つまらない買い物をしてしまった。しかも場所をとるし。
その日の指導碁の後、若い棋士は、隅に置かれていた碁盤に偶然、目がいきました。
「なかなか由緒ありげな碁盤ですね。」
口の軽い若い棋士は、適当なことを言ったものです。
好事家の目が光りました。
「先生、よろしければ差し上げますよ。是非に。」
「あ、でも、碁盤は家にありますし…。」
もごもご断るのを押し切られて、碁盤は若いプロ棋士のもとへ渡ることとなりました。
押しつけられた後、幽霊の話を聞いた棋士は呟きました。
「僕は別に幽霊が怖いわけじゃないけれど、この狭い部屋には足つき碁盤は二つもいらないよね。」
その日の塔矢名人の研究会の席の片隅に、大きな風呂敷包みが置いてありました。
「芦原、それは何だ?」
皆の目が芦原の持ってきた包みに行きました。
師匠の名人も、ちらとそれに目を留めました。
「あっ、これ。碁盤なのですが。先日、指導碁先で、無理やり持たされて。でもうちは狭くて置けないので、先生のところの物置に置いて頂こうと。
先生、よろしいでしょうか。僕が広い家に引っ越したら、引き取りに行きますから、それまでお願いします。」
行洋は構わないというように頷きました。
「では、早速検討を始める。」
名人は無駄な口は叩かないものなのです。
研究会の終わった後、芦原は緒方を呼び止めました。
「あのー、緒方さん。これを先生の家に運ぶのお願いできませんか。」
緒方はじろっと芦原を見ました。
「見返りは何だ?」
「良かったらこの碁盤、差し上げます。」
「俺の趣味ではない。だが、随分な年代物だな。」
「何でも、二百年ぐらいは経っているのじゃないかと。実は、この碁盤、幽霊が出るという噂なんですよ。」
緒方は眼鏡をきらりとさせて、にやりとしました。
「ははーん。なるほどな。芦原はそれでおじけづいて、先生の家に持ち込もうとしたのか。」
「いえ、そんな、でも噂があるだけで、古道具屋もこれをくれた人もだれも幽霊を見てないんですよ。」
「どんな幽霊が出るんだ。先生の家で出て、アキラ君が怖がったら困るだろう。」
「はあ。何でも烏帽子を被った幽霊だそうです。」
「ん?公家の幽霊か。これは公家のものだったのか。」
幽霊話など、サラサラ信じていない緒方の車に乗って、碁盤は、塔矢家に向かいました。
それでも一言、釘をさしました。
「いいか、芦原。幽霊のことは伏せておけ。さもないと断られるかもしれんぞ。
先生はよくても、先生の奥さんは、幽霊が嫌いかもしれんからな。」
口の軽い芦原が、その後、幽霊のことを絶対に言わなかったのは、その言葉が効いたからです。
幽霊と暮らすことじゃなくて、部屋が狭くなるのは、とにかく困るからね。
それに幽霊が出たら、もっと狭くなるものな。
その日は学校の行事があって、研究会に行かなかったアキラが家に戻った時、碁盤は、もう部屋に置かれていました。
芦原は、断られないうちにと、緒方と一緒にさっさと帰っていったのです。
アキラは、目ざとく包みを見つけました。
「お母さん、あれは?」
明子は、のんびりこたえました。
「今日ね。研究会で…。」
ふーん。芦原さんて、断るの、苦手な人なんだ。
「どんな碁盤なのかな。」
少し関心を示して、アキラは言いました。
「何でもそのくれた人は、古道具屋さんを回るのが趣味なんですって。
で、この碁盤もそこで買ったらしいのだけれど、置き場に困って、芦原さんに押し付けたらしいの。
かなり年代物だって言っていたわね。」
明子はくすっと笑いました。
「それでも、うちの物置に入れるわけにはいかないわ。一応碁盤ですものね。庭仕事の道具と一緒には、できないでしょ。
芦原さんが大きい家に引っ越ししたら、引き取りに来るそうだけれど、その頃にはきっと忘れてるわね。」
それから少し考えて言いました。
「ねえ、アキラさん。取りあえず、隣の部屋に移しておいてくれるかしら。置き場所はゆっくり考えるから。ここで、碁盤を見ながらお食事というのもねえ。」
そういうことで、碁盤は、塔矢家の居間の隣の座敷にちんまりと置かれたのです。
幽霊の由来は、封印されたまま、風呂敷に包まれたまま。