四月を迎え、アキラはプロ棋士の生活を始めました。
中学は義務教育ですから、学業に支障があまり出ない範囲で、始まりました。
例の新初段戦にまつわる、つまらない噂などアキラは気にしませんでした。
所詮は逆コミなんだから、どちらにしても、意味はあまりない。
碁の対局というのは、その対局だけでなく、いろいろなところですでに始まっているかもしれない。
今まで父親や、門下生たちを見ていたアキラはそう思いました。
新初段戦だって、その一つなのだ。
少し前まで、碁を打つ同年代の同志のような人が現れればとか思ってた筈ですが、その気持ちは、今やすでに遠い過去になっていました。
アキラは、低段者をバッタバッタと容赦なくなぎ倒し、圧倒的な強さを示していました。
いやいや、やはり、塔矢アキラは間違いなく棋界のスターだ。
坂巻はほっとした気持ちでアキラの快進撃を眺めていました。
五月には、若獅子戦が開かれました。注目はやはりアキラでした。いや、アキラと倉田というべきでしょう。
塔矢アキラが優勝するのか、いや、いくらなんでもそれはない。倉田に決まっていると噂される中で、戦いは、始まりました。
「和谷、残念だな。俺と当たるなんて。」
和谷の一回戦の相手は何と冴木だったのです。
冴木は、ヒカルに刺激されて、碁に対する姿勢が明らかに変わってきました。
その上、白川が密かに特訓を施していて、近頃とみに進境著しい碁を打つようになっていました。
和谷は、もちろん武者修行の成果をぶつけました。冴木は少し唸りました。
凄いな。和谷。短い期間だが、留学の成果が現れてるじゃないか。とはいえ、俺ももう四段になる身だ。弟弟子に負けてはいられないよ。
伊角は順調に勝ち進み、三回戦までたどり着きました。相手は今伸び盛りの倉田五段でした。
倉田さんて進藤と同じような伸び方だよな。碁を初めて二年でプロになったっていうのだから。
それにやっぱり強い。進藤とは全く違うタイプだ。面白い打ち方だな。俺、ワクワクしている。
伊角は自分の感じ方に驚きました。
倉田さんは今年で若獅子戦最後じゃなかったかな。俺と歳4つくらいしか離れてないんだ。
進藤もそうだけど。どちらにしても、負けていられないよ。
倉田は、伊角と打ちながら感じていました。
こいつ、なかなか強い。何で未だに院生なんだ?そんなことより本腰を入れて打たないと危ないぞ。これだから後から来るやつは怖いんだよな。
倉田と伊角の周りは人だかりがしていました。
「院生にも強いのがいるな。」
「さすが院生一位だよ。」
「でも倉田には勝てないよな。」
「いやあ、なんていうか、そうでもないよ。盤面見ろよ。力は僅差の気がするぜ。」
伊角は、投了しました。中押し負けです。
「君は、強いな。」
倉田は、さりげなさを装って、言いました。
言ったのはそれだけですが、倉田は密かに思いました。
こいつはすぐプロになる。それで俺の要注意人物になる。
アキラは、倉田と決勝戦で当たりました。
「倉田には勝てないよな。」
確かに塔矢アキラは強いな。でも塔矢だけじゃない。あの伊角っていう院生も塔矢に負けず劣らず、強敵だ。どちらが上かは分からない。
倉田はそう感じました。
若獅子戦の出番が終われば一組の院生たちの関心は、プロ試験しかありません。
ことしの外来はどうなんだろう。去年は外来が二人、プロになったからな。
皆の噂はそれでした。
一学期が終り、夏休みが始まりました。
和谷はプロ試験の為に全力を傾けてはいましたが、昼ごろ出てくるというネット碁のsaiにも関心を抱いて、探していました。すでに休みになってから五回は見かけました。
こいつも秀策スキーかもしれないな。いややっぱりプロだよな。しょっちゅうは出てこないということは、忙しいからだろ。一局打つとすぐ消えちゃうし。かなり前からいたのかな。強い奴を選んで打ってるもの。俺は選ばれないよね。でも、ちょっと打ってもらいたいな。
さて、夏休みも終わりという時でした。
その日は、囲碁祭りに駆り出されたアキラでしたが、早めに帰っていいと言われて、家に戻ってきました。
玄関を開けて中に入ると、行洋がいるようでした。
お父さんは今日は家にいるのかな。出かけるとか言っていた気がするけれど。
そっと、父親の書斎を覗いたアキラは、ついに目撃したのです。やっとというべきでしょうか。
父と母が碁盤を挟んで対峙していました。
アキラは、なぜか部屋に入ることが出来ず、そっと襖を閉めてしまいました。
頭がグルグルしていました。自分の部屋へ行き、じっと考え込みました。
進藤は嘘をついていなかったのか?
それとも、あれは母が父に碁を教えてもらっているのか?いや、そんな雰囲気ではなかった。
そのうちに動きがありました。行洋が出かけたのです。
アキラは初めて、父に挨拶しませんでした。
父親が出かけてしばらくして、アキラはやっと、部屋を出ました。
「あら、アキラさん。帰っていたのね。声をかけてくれればいいのに。」
明子はのんびり言うと、アキラにお茶を出しました。
「お仕事。疲れたでしょう。」
「ううん。早く帰らせてもらったから。」
それから、一呼吸して言いました。
「ねえ。お母さんは、お父さんから、碁を習ってるの?」
明子は微笑みました。先ほどアキラが、覗いていたのは知っていました。
行洋は、出かける前に、アキラにも、もう幽霊のことを話してもいいだろうと言ったのです。
「そうじゃないのよ。アキラさん。一局打ってみる?」
アキラは少し緊張しながら、座敷に行きました。
明子は行洋の書斎に入り、納戸をそっと開け、囁きました。
「息子と打っていただけるかしら。」
佐為は驚きました。
奥方がそういうことを言うとは。
この子と一度打ってみたいと思ってたんですけど、やっとその時が来たのですね。
納戸に碁盤が収まってからは、佐為は時々、朝の一局を覗いていたのです。
この子は、おそらく負けず嫌いです。父親である名人と打つのと、私に対するのでは、きっと違った気持で向かってくるに違いない。楽しみなことですよ。
アキラは、母親と碁盤を挟んで座ると、少し不思議な気持がしました。
でも母親の手が、ぴしっと佐為の一手を置いた時から、その対局に夢中になりました。
毎日でも打ちたい。そう思いました。
すぐに二学期です。アキラは学校とプロ棋士としての対局と仕事以外は、碁サロンにもよらず、ひたすら、家で母親相手に碁を打ち続けていました。
明子も、家のことはすべて午前中に済ませ、アキラが学校から帰ってくる頃にはその対局に備えていました。
明子は、佐為がアキラとの対局を嬉しがっているのを感じました。
幽霊さんは、こういう対局がしたかったのかしら。アキラさんと打つのがことのほか気に入っているのね。だって、アキラさんは素直に幽霊さんに夢中ですものね。幽霊さんもそれが分かるのよね。
佐為は毎日が満たされている気がしました。
この子はいずれ、龍になるような子ですよ。完成されていない分、私には打つ楽しみがあります。今日の一局を、明日までに研究して、また打ってくるのですからね。
本当に、この子とは打ち合っている甲斐があります。
勿論あの者との対局もネットでの対局もいいものです。
この子と打つようになって、あの者との対局が、より私には喜びとなって戻ってきています。
佐為が満足感に満たされてくると、明子も気持が落ち着いてきました。
アキラさんは、こういう対局に夢中になるのね。見ていて楽しいわ。本当に。
それは、夫のために石を置くのとは違う楽しみでした。
これで、たまにアキラさんが、幽霊さんでなく、私と打ってくれれば、万々歳なのだけれど。アキラさんにはそういうことは望めないわね。それは進藤君に頼むしかないわね。
進藤君もものすごく忙しそうだけれど。中国へ修行に行った話、あかりちゃんがいろいろ教えてくれたわね。来年はプロを目指すって。
その時、ふと思いました。
もし、進藤君がこの幽霊さんと打ったらどうかしらね。
幽霊さんはアキラさんと打つのと同じように嬉しがるのかしら。