その日は、行洋は泊りがけの仕事でした。
明子が夕食の片づけを終えて、のんびりしていると、アキラが聞いてきました。
「お母さん、幽霊のこと、誰かに話したことある?」
「お父さんと緒方さんの外にっていうことかしら?」
「うん。」
明子はちょっと考えました。
行洋さんは、進藤君はプロになると言ってたわね。ということはいずれアキラさんとも顔を合わせると言うことよね。
「ええ、もう一人お話したわよ。」
「誰にですか?」
「アキラさん、覚えてるかしら。前に学校の帰りに傘を借りたって言ったでしょ。その貸してくれた子、進藤君よ。」
「もちろん、覚えてます。」
アキラは少し疾(やま)しさを覚えながら答えました。
「本当に偶然に出会ったのよ。あなたが傘を借りてひと月もたたない頃よ。駅前で偶然。ちょっとしたきっかけで話をしたら、傘を貸した子だってわかったのよ。
その時思ったのよね。アキラさんを知ってる子で、同い年で男の子で。そういう子が幽霊をどう考えるかしらって。学校は違ってるんだから、変に思われても支障はないかなって。
だから幽霊がいるって信じる?って、軽く聞いてみたのよ。」
「進藤は信じるってすぐに言ったんですか?」
「ううん。そうじゃなかったわ。逆にすぐに信じますとか言われたら、話さなかったかもしれないわ。」
明子は、くすっと思い出し笑いをしました。
「じゃあ、なんて言ったんですか?」
「そう、確か。そうだったわ。目を丸くしてね、もしかしておばさんは幽霊を見たことあるのとか聞いてきたわ。
だから、見たことあるわ。碁盤にとりついていて、碁を打ちたがる幽霊をって。ちょっと言ってみたの。
そうしたらね。進藤君。ますます目を丸くしてね。すごいって言ったのよ。私はね。でも見えるのは私だけで他の人には見えないと言ったの。」
明子は少し遠い目をしました。アキラは口を挟まないで、母親の話を聞いていました。
「それはおばさんが特別なんだって。アキラさんが碁を打つことも、お父さんが名人のことも知っていたでしょ。進藤君は。アキラさん、あなたが話したのよね。
だからだって、だから何かわけがあるんだって。私だけに見えるわけがあるんだって、励ましてくれたわ。全然笑わなかったし、馬鹿にしたり、憐れんだりしなかったのよ。
おばさんは嘘をつくような人じゃないから信じるって言ってくれたわ。」
「進藤と。進藤と今も話してますか。」
明子はふふと笑いました。
「私は進藤君のお母様とお友達なのよ。今でも時々お宅にお邪魔することがあるのよ。学校の用事の帰りに。中学も海王中は近いし、今まで通りじゃないかしら。たまには進藤君とも会える時もあるのよ。最近は、いろいろ忙しいとかで、お家にいないから滅多に会えないけれど。」
それから明子は付け加えました。
「私ね。お父さんがあなたに幽霊の話をしないようにって言った時、まだ9歳ぐらいのあなたが、怖がるといけないからだと思ったの。碁盤に幽霊がいるなんて言って、碁盤を怖がったら碁を打てないでしょ。その時は、単純にそう思っていたの。でも今考えると違ったのよね。たぶんよ。お父さんの考えを聞いたことはないから。
でも今はこう思うのよ。プロ試験を受けることを躊躇っているあなたに、幽霊を会わせたくなかったんじゃないかって。
あの幽霊さんはとても魅力的な碁を打つのよね。だから緒方さんもお父さんも夢中になったわ。でも二人にはプロの仕事があって。幽霊さんとだけ打っているわけでもないし、いろいろな方と碁を打っていたわ。
あなたがあの時、幽霊さんと出会って、幽霊さんとだけ打ちたがったら、まずいんじゃないかって思われたんじゃないかしらね。
今は、あなたは決心してプロになったのよね。そういうあなたなら、幽霊さんと打っても大丈夫だと、ちゃんと戻るべき場所に戻ってくると分かっているから、あなたが毎日のように幽霊さんと打っていてもそっとしておいてくれるのだと思うの。
そう思った時、私、ふと思ったの。進藤君が私にだけ見えるのには訳があるんじゃないかって言ったこと。あなたにあの時、幽霊さんが見えたらどうなっていたのだろうって。お父さんが心配した通りのことが起こったかもしれないし。だから、私にだけ見えたのは、もしかしたらそう神様が取り計らったのじゃないかしらってね。」
アキラは明子のような母親を持てたことを誇らしく思ったものでした。
とてもよくお父さんを理解してくれる。
あの時、僕がプロ試験を受けようと思ったのも、きっと神様がそう計らってくれたのかも。あの頃、幽霊に出会っていたら、僕はプロになることに、魅力を感じなくなっていたかもしれない。そう思える。
それとともにに、アキラには、苦い後悔が頭をもたげました。
「進藤に会えるかな。」
明子は微笑みました。
「会えるわよ。進藤君も碁が好きなのだから。」
そうだ。今度会ったら碁会所に誘おう。アキラはそう考えました。
その時アキラは、ヒカルを巡って、緒方と父親が張り合っていることなど知る由もありませんでした。
もちろんアキラは、父親の周りの棋士が勝てなくて苦悩し絶望する姿を見たことはあります。でもそれは人が自分の才能について懊悩する姿でした。父親ほどの棋士が、若い才能に入れ込み、そこに自分の存在を介入させたがるなど理解のほかのことです。
アキラは、ひたすら囲碁の高みのみを追い求める純粋な本当にいい子なのです。順風満帆で、さらに佐為と出会い、若くて未来は無限でした。
ヒカルは、リビングで美津子がパソコンを操って家計簿をつけているのを眺めていました。
美津子は聞きました。
「ねえ。ヒカル。ヒカルは塔矢さんのようなプロになるつもりなの?」
パソコンの画面に目を向けたまま、聞きました。
今まで、そう言ったことは一度も話されたことなく、いろいろな事態が進んでいました。
「うん。なりたいと思ってるよ。」
美津子は去年アキラがプロ試験に合格したことをしっていましたし、今年は、ヒカルが仲良くしている伊角と和谷がプロ試験に挑戦していることを知っていました。そもそも、ヒカルが手助けしていたのですから。
「今年、試験を受けないのね。ヒカルは。」
「プロ試験受けてもいいの?」
「いいのって、ヒカルはダメって言っても受けるでしょ。構わないわよ。」
美津子は明子と知り合って以来、プロ棋士という人たちと交流していましたし、子どもがプロになるということも分かってきました。
そして何より、ヒカルには碁の才能が有るらしいということも分かっていました。
正夫と話したことがあるのです。
「ヒカルはあんまり勉強が得意じゃないから。大学だって入れるかどうか。ヒカルには碁の才能があるみたいだから、あの子がプロになりたいというのなら、好きにさせたいと思うのよ。」
正夫は全く反対しませんでした。
「ヒカルがそうしたいっていうんだったら、それが一番じゃないか。」
そこで、美津子はヒカルの意志を確認したのでした。
正夫もですが、美津子も、ヒカルが落ちるとは夢にも思っていないところがすごいのでした。
ヒカルの周りには、プロになりたかったのに、プロになり損ねたという人は存在していませんでしたから、当然かもしれませんが。