アキラが、幽霊のことを知ったからというわけではないでしょうが、ついに行洋が始動し始めました。
行洋が堂々と、緒方の前で、ヒカルを誘ったのです。
事の起こりは碁サロン前の大通り、あかりとヒカルが一緒にその場所を歩いていたことが、ことの始まりです。それは恐らく行洋にとって織り込み済みの出来事だったのでしょう。だから、ここで仕掛けると決めたのです。
「進藤君、どうかね。碁サロンに寄っていくかね。」
傍にいた緒方の顔は、それこそカメレオン、いや七面鳥。頭の中が全て、顔に出ていました。
緒方は、その時、理解しました。ヒカルが言っていた碁のことで話していないことというのが何か分かったのです。
進藤に、どういう手を使って、俺に話させないようにしたんだ?何か術をかけたんだろうか。
塔矢行洋、俺の師匠だが、本当に子どもじみているやつだ。俺が進藤に執着しているのを知って、進藤に接触したに違いない。でもだからって、このタイミングで俺に一体どうするというのだ。タイトル争いの盤外戦など塔矢行洋には必要ないことじゃないか。何でだ。それよりだ。こういう時に、進藤が言っていた技術を使えるのだろうか。
ヒカルの方はいつかこういう時が来ると白川に言い含められていたので、用意はできていたのですが。
碁サロンだって?
「それはダメなんだ。俺、塔矢の奴を怒らせちゃって、碁サロンに来てほしくないって言われてるから。」
それは行洋も緒方も予期しない言葉でした。
「進藤君は息子と打ったことがあるのかね?」
「ないです。塔矢とは、そういう碁の関係じゃないんです。ご近所小学生のつきあいで。俺が碁を始める前の知り合いなんです。俺が碁を始めたことは知ってるだろうけれど、それ以上のことは知らないと思う。大体、その前に喧嘩別れになっちゃったから。」
「なぜ?」
「なんだっけ。」
その理由はすっかり忘れていたヒカルです。あかりに向かって聞きました。
「明子おばさんのことでよ。」
あかりが言いました。
それは行洋と緒方双方にダブルパンチだったようです。
緒方は、行洋に反撃のチャンスを見つけた気分でした。
進藤は、師匠に取り込まれているというわけじゃないようだ。きっと白川が何事か言い含めているんだろう。
「碁サロンがダメなら、あそこのコーヒーショップでちょっと話を聞かせてくれないか。君はえーと。」
緒方は、早速あかりの懐柔に取り掛かりました。
「藤崎あかりです。ヒカルのクラスメートで、白川先生の囲碁教室に通ってるんです。」
小学校の時のクラスメートというのは省きました。
ふむふむ。親しいんだな。碁を打つってことは、進藤に感化されたか。
あかりはさらに続けました。
「でもお話だったら、この先に、かわいいケーキ屋さんがあるんですけど、そこだったら、コーヒーショップより静かで、人に聞かれないでゆっくりお話しできると思います。この人数だったら、ちょうどいいし。」
ヒカルはあかりを見ました。白川先生が塔矢門下の争いに巻き込まれるなと言ったけど、これはあかり、大正解か?やっぱ。あかりはすごい。絶対すごい。俺そこまで頭回らねえよ。
「ケーキ屋さんにちょっと、電話を入れておきますね。」
あかりは少し隅によって、携帯を取りだし、しばらく何事か話してから、戻ってきました。
「席、空けといてくれるそうです。」
というわけで、8分ほどの道のりを、言葉少なに、奇妙な一団体が歩いて行きました。
その間した話は、中学に囲碁部が出来たという話だけでした。そして、団体戦で、男子も女子も準優勝したということです。
「海王中は男子もだが女子もかなり強いからな。」
「くじの組合せが良くて、助かりました。」
あかりは澄まして言いました。
ケーキ屋に着くと、緒方も行洋も負けたと思いました。
このあかりという子は、結構策士だ。もしや、進藤の指南役、あるいは白川に言われてる、お目付け役かもしれん。しかし、俺は救われたな。師匠とだけだったら、絶対負けていた。
「お待ちしていたわ。ケーキは適当に頼んでおきましたわ。ここはお紅茶がおいしいので皆さん、お紅茶にしてありますわ。よろしいでしょ。」
明子がにこやかに言いました。
「私、明子おばさんと、ここで待ち合わせてたんです。そうしたら、ちょうどこういうことになって、明子おばさんが席を用意しておくからって。」
あかりは、澄まして言いました。
「進藤君は、アキラとどういう関係なのか。喧嘩をするような関係なのか?聞かせてほしい。」
行洋は、衝撃が収まると、この場の主導権を取り戻しつつありました。
またまた、その時です。
「遅くなりました。」そう言って、白川がやってきました。
「いえいえ。」明子が答えます。
「先生?」
「ああ、塔矢先生の奥さまがご連絡くださってね。君の家に行こうとしていたから、早く来れたよ。」
白川は、落ち着いた様子で言うと、ヒカルが良くやるVサインをそっと出しました。
ヒカルは思わず、笑いました。
行洋の主導権は立ち消えてしまったようです。
緒方は考えました。
白川がいる方が、師匠に負けない。ラッキーだ。俺がVサインを出したい。
「ちょうど今、進藤君とアキラさんが喧嘩したって聞いて、ワクワクしてますのよ。」
明子が興味津々で言いました。
この分だと、塔矢の奴、いまだに知らないんだろうか。
ヒカルはあかりと顔を見合わせました。そこで、ヒカルは、聞きました。
「塔矢は、あのこと知ってるの?」
「幽霊さんのこと?あかりちゃんも知ってるのね。」
あかりは頷くと、話しだしました。
「もう前になるんですけど、おばさんがヒカルに考えてくれたでしょ。twinkleって、ネット碁で使う名前を。あの時ね。たまたま、塔矢君がおばさんとヒカルを見かけたの。それでね。白川先生の囲碁教室に、塔矢君、押しかけてきて、ヒカルに話があるって。そこにたまたまヒカルが居たから、塔矢君、会えたんです。
それで、公園に行って話をしたんです。
塔矢君はヒカルとおばさんが何でそんなに親しいのか、一体何を話してたんだって、ヒカルを問い詰めたの。
ヒカルはその時には話したことなんて忘れてたんですけど。途中から私がいたから、私が覚えてること話してあげたの。
おばさんとヒカルがネット碁の話で盛り上がったこと。そうしたら碁が打てないのに、何でネット碁で話が盛り上がるかわかんないって。だから言ったの。おばさんは碁が打てるって。
嘘だって塔矢君は言ったわ。だからヒカルが教えたんだって私は言ったの。そうしたら、ヒカルみたいなのが、教えたら、ひどい碁を打つようになるって、塔矢君、すごく失礼なこと言って怒ったの。」
話はだいぶ脚色されてるかもしれませんが要点はまさしくそれでした。
「それで、けんか別れしたのか?」
緒方が聞きました。ヒカルは首を横に振りました。
「違うよ。あの時、あかりは、すごかったな。おばさんはプロになるとか、強くなるとかそのために碁を知りたいんじゃなくて、碁ってどういうものか知りたいって思っただけなんだって言ったんだよ。それから普通の人は知っていることを教え合って碁を楽しむものだって、そう塔矢に言ったんだよ。すごいよな。その考え。俺はそういう考え、大好きだな。」
「まあ、あかりちゃん、私の考えていたことをよく分かってくれていたのね。嬉しいわ。」
明子が言いました。
その話は、アキラ君と進藤の違いに触れてはいるが、しかし話がそれている。
そこで、緒方は口を挟みました。
「じゃあ、ケンカの原因は一体何だ?」
「それは幽霊のこと。塔矢は分からないけれど、家の雰囲気が変だって、気づいていたんだ。で、それを気にしていた時に、俺とおばさんを見かけて。俺が何か知ってるんじゃないかって、話に来たんだ。そう思えたから俺、おばさんが幽霊を見ることができるんだって話したんだ。塔矢の家には碁盤にとりついている幽霊がいるんだって。それで、塔矢先生と緒方先生に、おばさんが幽霊に代わって石を置いてあげて打ち合ってたって。それに塔矢先生が息子にはいうなって、言ったんだって。
それでね、塔矢は怒っちゃったんだ。だってお母さんが幽霊が見えて、お父さんがその幽霊とお母さんを通して打っていて、それを子どもには内緒にしているって言われたら、怒るかもな。俺もそう思ったから、ほっておいたんだ。
そのうち塔矢も見つけるに違いないから。幽霊を。信じられなくても一局打てば信じると思うから。」
「塔矢君は、本当に怒っていて、お母さんもお父さんもそんな人じゃない、顔も見たくないし、碁サロンに来てほしくないって言って帰って行ったの。私はその話を初めて聞いたんだけれど、何となく納得できたの。おばさんが話してくれたことに今まで、抜けていることがあるような気がしたから。幽霊なんて言ったら、普通信じないと思うから、話さなかったんだって。」
白川は、突然起こった幽霊話に内心ひどく驚きましたがポーカーフェイスを保っていました。幸いなことに白川に注意を払う人はいませんでした。
これは塔矢家の中の話だ。塔矢先生の家には、変わった碁盤などが持ち込まれるのかもしれないが、幽霊は一体本当に存在するのか?
「進藤は信じてるのか。打たなくても。」
「俺、不思議なんだけど、変に思えなかった。碁盤に碁を打ちたい魂が取りつくっていうのはありだと思えたんだ。それにおばさんは嘘つく人じゃないしね。もっとも、俺は幽霊を見たこともないし、塔矢先生の家に行ったわけじゃないし、その幽霊と碁を打ったこともないし。でもおばさんだけが見えるのには、何か意味があると思ってるよ。」
「アキラは今、幽霊と夢中になって打っているよ。プロになったのだから、私は放っているがね。」
「そうですね。アマのうちからあれに嵌るのはまずいかもしれないですね。現実を見失う危険性もあるか。アキラ君は猪突猛進というところがありますからね。一つのことに夢中になると、周りが見えない。」
「俺、塔矢の碁も見たことないんだ。塔矢も俺が碁を打つっていっても、まさかプロになろうとしてるとは思ってないだろうし。」
「塔矢君。明子おばさんと打ったことありますか。幽霊とじゃなくて。」
あかりは、そう聞いてきました。
「残念だけど、アキラさんはそういうことは全然考えてないわね。進藤君は、私のこと、よく面倒見てくれるけれど。私、進藤君のお弟子さんになろうかと思ってるのよ。」
「そうなんですか。私はヒカルの弟子より、やっぱり白川先生の弟子になりたいな。」
「白川君は人気だね。緒方君も誰か弟子をとったらいいのではないか。そうすれば、進藤君を追い掛け回すこともないと思うがね。」
「先生ほどには追い掛け回していないと思ってますが。それに私は先生にいろいろ教えていただきましたが、師弟愛については教えていただいていない気がして、弟子をとるには未熟の気がしますから。もう少し先にしたいですよ。」
緒方が切り返しました。
白川はその様子を見ながら思いました。
進藤君はこれだけトップ棋士に、特別に目をかけられているのに、自分の居場所というか、立ち位置をぶれずに保っていられるのはすごい。それこそが進藤君の所以なのだろうな。
だから逆に塔矢先生も緒方さんも進藤君にちょっかいをかけられるのだろうなあ。どんなに突っついても進藤君は、勘違いをしないから。
ヒカルがヒカルの才を巡って、いろいろな波紋を引き起こしていることから、悪しき影響を受けないのは、ひとえに、“ふわふわ”のおかげでした。
ヒカルは思いっきり、碁の世界に足を踏み入れていました。日本の囲碁界のトップ、アマ碁の強豪の愛好者、有望な院生たち、巷の囲碁好き、どこをとっても碁碁碁です。
それでも、不思議とその噂は広がりませんでした。
ヒカルは、自分の周りで起きていることを認識してないわけではありませんでした。そしてそれに抗うこともしませんでした。
目的を見誤らなければ大丈夫。自分が求めているものを探し当てる、その気持ちは少しも失われていませんでした。
それにこうやっていることが、目的に近づいていると感じさせてくれるから、俺はこれを大切にしたい。
しかし、多くの棋士と知り合いながら、アキラとだけは打ち合うこともないのは不思議と言えば、不思議でした。