神の気まぐれ(ヒカルの碁逆行コメディ)     作:さびる

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46.私はお化けが苦手なの

一柳戦では、ヒカルは気負うことなく打ちました。

白川先生のタイトル戦の相手だから、先生にとってつまらないものにならないようには打つ。勝ち負けよりもっと面白い碁を打ってみたい。もちろん負けるつもりはないけれど。

それだけでした。

 

打合いが終わると、さすがにトップ棋士です。検討は興味深いものでした。

長年対局を続けてくると、こんな違う観点でみるのか。そうか。

白川は、当然ながら一切口を挟みませんでした。

 

「白川君はこんな優秀な弟子をどこで見つけてきたの?」

一柳は聞きました。それに答えたのは、行洋でした。

「白川君は見つけてきたわけじゃないんですよ。たまたま進藤君は白川君の囲碁教室に習いに来て、石取りゲームから始めて、白川君がすべて鍛え上げたんですよ。」

「塔矢さんは、なぜそんなに進藤君のことを。」

「いや、別に。ただ白川君は控えめだからそういうことは言わない気がしてね。緒方君が騒ぎの発端だから、私が少しホローしなくてはと思ったまでですよ。では、私はこれで、進藤君。明子がよろしくいっていた。そうそう、これを渡してくれと。」

行洋はそう言って、お菓子の箱をヒカルに渡して出て行きました。

 

「わしも失礼するよ。進藤とやら。次はわしが相手をしたいのう。」

「ありがとうございます。ぜひご指導ください。」

桑原は立ち上がりました。

実に面白いものを見た。

 

一柳はいろいろ聞きたいことはありましたが、取りあえず立ち上がりながら、聞きました。

「進藤君はいつから白川君の教室に通っていたの?何時碁を始めたの?」

「えっと。碁を始めて、ちょうど2年8か月ぐらいかな。」

 

最高の前哨戦をしてくれたね。進藤君は。君は最高の弟子だよ。本当に。

白川は、桑原と一柳がぎょっとした気持を何とか取り繕うのを見て思っていました。

 

 

ところで森下研究会に菓子をことづけた明子ですが、またまた悩みを抱えていました。

ことの初めは、ケーキ屋で、六つ巴の舌戦があってから、しばらくした時でした。

気づいたのは、佐為が先か明子が先かわかりません。

 

幽霊さんてきれいね。透き通るようで。あら、そうじゃないわ。透き通ってきているのよ。

碁石を置くようになってからは、指先にしか注意を払わないできたから、気が付かなかったわ。

指先だけははっきりしているわ。まだ。

明子はまだと自然に思い、そして、佐為を見ました。

 

幽霊さんは分かっているのだわ。このまま、幽霊さんは透き通って、見えなくなる。

でも碁を打ちたい一念で、指先に全ての思いを込めてるのだわ。

明子は胸が熱くなってきました。

このことを誰に話すべきなのか、当然夫と緒方にまず知らせねばなりません。

しかし、実際に話したのは、12月も中旬を過ぎていました。

 

緒方には家に来てもらいました。

幽霊の姿が薄れている。

「緒方さん、いつまで見えるのか私には分からないわ。でも幽霊さんは、全力で指先だけは、薄れさせないようにと頑張ってはいるの。もしかしてこれが最後かもしれないわ。碁盤で一局、打って差し上げて下さい。」

 

行洋が立ち会う中で、厳かな雰囲気で、その碁は打たれました。

我ながら名局だった。負けたけれど緒方はそう呟きました。

勿論、今しばらくはもしかしたらネットで打てるかもしれないが。それでもこれが盤で打つ最後だと緒方は感じていました。

ついに姿は見えなかったが、俺を引き上げてくれた。碁の神に感謝しよう。

 

その日は、アキラは泊まりで仕事に出ていました。

「アキラにはいつ話すのか?」

「ええ、戻ってきてから。でも納得してくれると思うのよ。3か月ほどでしたけど、本当にたくさん打っていましたもの。それに幽霊さんもアキラさんと打つのがことのほか、嬉しいらしくて、そんな様子でしたもの。」

「何か縁があったのだな。打てる間はしっかり相手をしてくれるとありがたいが。明子にばかり負担をかけてすまないが。明子の話を聞くと、碁打として実に心を打つ姿だと思えてならない。」

 

 

次の日、戻ってきたアキラに、夕食の後、明子は話をしました。

「緒方さんとお父さんには、昨日、お話したのよ。緒方さんは、お座敷で、碁盤を挟んで対局をしたわ。もしかして最後になるかもしれないからって。」

「今はまだ見えるのですか。」

「体は本当に透き通って霞んできているの。でも指先だけはまだ、碁盤の目を指す人差し指の先はまだ見えるわ。いつまで続くか分からないけれど、碁を打ちたい気持ちだけで存在してるのよ。」

明子は少し涙ぐんで言いました。

 

「アキラさんが毎日相手をしてくれて、本当に良かったわ。幽霊さん、本当に喜んでいたわ。アキラさんは毎日打った手を勉強して次の日に頑張っていたでしょう。そういうのが幽霊さんには分かって、とても嬉しかったのだと思うの。」

アキラは少し嬉しく、少し心が痛みました。

幽霊はいつまでも幽霊でいることはできないのかな。もしかして僕が毎日打ったせいで、そんなに早く消えてしまうのじゃないか。

そんな気がしたのです。

 

 

それから幾日もたたない朝でした。

明子は、佐為の姿を見かけました。指先もすでに霞んでいました。打てなくなってしまったのね。とうとう。

明子は家にいたくなくて、出かけました。どこに行くという当てがあるわけではありません。

「おばさん。どうしたの?どこか具合が悪いみたいよ。」

いつの間にか、ヒカルの家の近くに来ていたのです。

幽霊の話が出来るのはヒカルぐらいしかいませんでしたから。

「ああ、あかりちゃん。」

明子はよろっとしながら、近くのベンチに腰を下ろしました。

「大丈夫よ。私はね。」

 

明子はあかりに幽霊が消えてしまいそうだという話をしました。

「で、家にいたくなくて、でもどこかに行くということもなくて、いつの間にかここにきてしまったのよ。」

明子がふらついて見えたので、あかりは心配でした。

「おばさん、あそこでタクシーを拾ったほうがいいわ。」

 

明子を送って、あかりは初めて塔矢家に来ました。純和風の家をちょっと珍しそうに見つめました。

でも家に入りたくはないわ。幽霊がいるんでしょ。

あかりは、結局家に入りました。居間に行くと、明子はお湯を沸かそうとしました。

「おばさん、お湯は私が沸かすわ。」

あかりがお茶の支度をしているので、明子はお菓子を出してお皿に載せていました。

 

二人でお茶を飲みしばらくすると明子は言いました。

「ごめんなさい。幽霊さんを見てくるわ。」

あかりは、ぞっとしない気持でしたが、一人になるのは絶対嫌でした。

それで明子について行きました。

 

「まあ」

明子は呻くような声を出しました。

佐為は霞のようになっていました。

「私は、私はまだ打てるのに、打ちたいのに。」

あかりはその声を聴きました。

「おばさん。幽霊さん、今話をしてるわ。」

「あかりちゃん?」

「私、幽霊さんは見えないわ。でも声が聞こえるの。まだ打てるのに、打ちたいのにって言ってるわ。」

 

明子は立ち尽くしました。

でも最後なのかもしれない。だったら。

「あかりちゃん。お願いがあるの。」

明子の願いは幽霊さんと打たせてほしいというものでした。

「九子でも少ないけれど、九子で私と打ってくれるか聞いてみて。」

それはあかりにとってとてつもなく不思議な経験でした。

明子がいたので、恐ろしいという気持はありませんでした。この家に来た時は、正直気味が悪くて怖かったのですが。

 

あかりは、佐為が口にする手を碁盤に並べました。

「ありがとうございました。」

明子は幽霊に向かって頭を下げました。

明子には、その時、佐為が微笑んでいるように思えました。そして微かに煙のようにかすんでいくのをただ見つめていました。

「居なくなってしまったわ。少なくとも、私にはもう見えないの。」

明子は悲しそうに言いました。

 

あかりは何と言っていいか分かりませんでした。

そのまま、帰りはタクシーで、家に戻ったあかりでしたが、その日の経験はずんと心に残って、誰かに話すことなどすぐにはできないと思いました。

 

だから明け方近くでしょうか、声が聞こえた時は驚きました。

 

夢?

 

「私はもう見ることもできない。でも頭の中に碁盤はあります。だから打てるのに。」

あかりは飛び上がりました。

隣の部屋のお姉ちゃんに気づかれないように、でも声に出して尋ねました。

「幽霊さん?どうして?あなたは碁盤から離れることはできないって、聞いたのに。」

 

「私には分かりません。でもあなたは私の声を聴くことが出来たから、だから私はただあなたのもとに行くことが出来たのかもしれません。私にはもう姿はないのです。声だけの存在。それもいつまで続くか分かりませんが。

碁を打つ時だけ、声をかけてください。そうしたら、私の声は目覚めて、打てるはず。ただ、もう相手の打つ手も見えない。あなたがすべて教えてください。お願いします。今しばらく、私を生かしてください。」

 

声は静かになりました。でもあかりはもう寝るどころではありませんでした。

「私はお化けが苦手なのに。」

もう一度声がしました。

「私はお化けではありません。幽霊なのです。」

そうきっぱり言うと、声は消えました。


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