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私は幸せです。何と、今、私はあの者の家にいるのですよ。
夢ではないでしょうか。
私はわくわくで期待に胸が膨らんでいます。
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なぜでしょう。誰も私を見に来ないのは。
確かに私は待ちましたよ。虎次郎の時まで、八百年。
その後も古道具屋やら、お蔵やらにひとり耐えて二百年余り。
でも今はそういう時ではありませんよ。
このまま時が過ぎてあの者が死んでしまったらどうするのです。
いくら平均寿命が延びているとはいえ、これ以上年を取れば、あの者は、惚けてしまうかもしれません。
いえ、絶対惚けますね。
せっかくのチャンスなのですよ。
… … … …
ああ、もう、あんぽんたん。おたんこなす。
何ということでしょう。
この家では研究会などは開かれないのですか。
この家にはいつも三人だけ。
来客は、時々ありますが。
でも、あの者が一人で、隣の隣の部屋で、碁石を置く音。
朝、あのアキラという子どもと一局打つ音。
アキラが一人で自分の部屋で碁を打っている音。
碁に関して言えば、それしかありませんよ。
私は耐えられません。
私のようなすばらしい打ち手がすぐ目の前にいるというのに、なぜ、碁盤に注意を払わないのでしょうか。
ゆ、許せません。まったく。
… … … …
というわけで、佐為はとうとう決心いたしました。
かくなるうえは、自分から名乗り出るしかないじゃありませんか。
とは言えですが。
千年で、佐為が惚けてしまったわけではありませんが、悲しいことに、佐為にできるのは、幽霊姿で“徘徊する″ことだけでした。
それも一日中などは無論、長時間は無理です。
しかも碁盤からそう遠くはなれることすらできないのです。
それでも佐為は、ひたすらに頑張り続けたものです。
雅な私が、なんと物哀しいことでしょうか。
ああ、これも神の一手の試練でしょうか。
でも、そのために私は幽霊時間を逆行して、やり直しているのですから。
ん? 逆行? んんん?
とにかく佐為は、あの者と、アキラが近くを通るたびに、せっせとさまよい出ては、二人の視界の前にどうだと言わんばかりに現れてみせました。
しかし、塔矢行洋にもアキラにも幽霊を見る力は全く備わっていなかったようです。
恨めしや~。ほ~んとに全く。
なぜです。目の前にいるのに、私をよけもせず、なぜシカトするのです。
これはでは、いじめではないですか。パワハラ?じゃなくて、う~ん、碁ハラ、えっとイゴハラ?
それでも、その静かなる異変に気づいていた者がいました。
もちろん、この家の三番目の住人、一番の実力者、明子夫人です。
彼女は、この異変について、つらつら考えたものでした。
よくよく観察すると、私一人の時は絶対に現れないけれど、夫とアキラさんがいると必ず出てくる。
夫とアキラさんにだけちょっかいを出すのよね。
もっとも二人とも全然気が付かないのだけれど。私にだけ見えてるのね。
要するにこの幽霊さん、私のことは、無視しているのよ。
何となく、気に入らないわ。
まあ、無視されついでに、私も無視することにしましょ。
なんたって関わりたくはないわ。気付かないふりをしてましょう。
彼女はそう決心をしました。
しかし、間が悪いということはあるものです。
ある日、夫は四角い箱を持ち帰ってきました。
「これを後援会の方から頂いたのだが。」
「あら、そうですか。」
箱を開きながら、明子は思いました。
私の趣味ではないわ。っていうか、悪趣味、成金趣味じゃないこと、これって。
「金色の蛙だそうだが、風水では、玄関に置いておくといいのだそうだ。」
「そうですの。今は玄関、いろいろ置いてありますし、そのうち整理して、飾らせていただくことにしますわ。」
実は玄関には、すっきり広い棚があり、花が活けてあるだけです。
名人は妻の言葉に一言返事を返しました。
「そうか。」
話は簡単につきました。
名人にとっても、カエルの置物など、どうでもいいことなのです。
そこで、明子がカエルの置物を、箱に戻そうとした時、佐為が出てきたのです。
佐為は、カエルを見て、ぎょっとして、思わず尻餅をついたのです。
まあ、幽霊なのでしょ。なのに足があるわ。しかも足袋を履いてるじゃないの。
それに、幽霊がカエルを見て、驚くかしら?
そこで、明子は思わず、クスッと笑ってしまいました。
佐為と明子の目が合ってしまいました。
佐為は気付きました。
何と、奥方は私を見ることができるのですね。
わたしの目の前に世界が開けましたよ~。
佐為は、ルンルンで、歌いだしたい気分でした。
明子の方は、舌打ちしたい気分でした。
まずいわ。幽霊さんに知られてしまったわ。
まあ、でもだからって何も変わらないわよね。きっと。
明子は敢えて深く考えることはやめて、軽くスルーしようと決めました。