緒方の本因坊戦は終わりを告げました。
緒方は、四勝一敗の成績で桑原をねじ伏せました。
本因坊位を手にした時、緒方は思いました。
これで白川とは互角だ。勝負はこれからだぞ。しかし、これはあの伊角という奴に礼を言う必要があるかもしれんな。
桑原は、伊角との新初段戦以来、不調の波が襲っていたのでした。碁の対局も舌戦も両方ともです。
さて、本因坊戦の中盤と重なるように、十段戦が始まりました。棋界は常に忙しいものです。
初めて挑戦権を手にした倉田は、張り切っていました。しかし行洋は抜群の安定感で倉田を下し、十段位の防衛を果たしました。
それを一番ほっとした思いで見ていたのは緒方でした。
先生を一番に仕留めるのは俺だ。
そう思っていましたから。
和谷も伊角も順調に、プロ生活をスタートさせていました。
和谷は独立したかったのですが、中学を終えるまではと親が認めてくれなかったのが残念でなりませんでした。
それでも棋院に部屋を申し込んで、若手の研究会を発足させました。
若手のプロ、院生、そのほかが、メンバーでした。院生は本田、小宮といった和谷の親しい仲間、それに院生一位の越智にも声をかけました。そのほかというのは、ヒカルのことでした。
来年は絶対独立し、そこで研究会をやる。
和谷の頭には、あの中国棋院の訓練室の熱気が浮かんでいました。
そのヒカルが、和谷の研究会に出向いた折のことです。
ヒカルは、院生じゃなかったので、今まで棋院に来ることはなかったのですが、和谷の研究会に出るために棋院に赴いて以来、棋院の建物に懐かしさを感じていたのです。ですから今日は三時からと分かっていましたが、かなり早くやってきました。
資料室とか覗けるかなあ。
そう思ったのですが、とりあえず、一般対局室を覗きました。
その時、目が合った男がいました。
なんか目つきが、悪い。見なかったことにしよう。
でもそうはいきませんでした。その男は言ったのです。
「君、打たないか。」
その一言で、一局が始まりました。
この人、すげえ強いな。プロじゃないようだから。とすると、俺の知っているアマの中では抜群に強いよ。
ヒカルは素直な感想を持ちました。但し対局はヒカルの中押しで終わりました。
男は呆然としているようでした。
「君。院生か?」
「ううん。でも今度プロ試験受けるけどね。」
その時、外に和谷たちの姿を見つけ、ヒカルは言いました。
「楽しかった。ありがとう。じゃあ、俺行くから。」
「進藤?何をにや付いてるんだよ?」
「ううん。別に。今、すごく楽しい対局ができたから。あそこで。」
和谷は一般対局室をちらと見ました。
「へえ。そうか。進藤が楽しいっていうのはどんな奴なんだろうな。そんなのが来てるのか。」
「もしかしてプロ志望の人かもしれないぞ。ぞっとしないな。今度外来で、来るかもしれないぜ。」
院生の小宮が暗くつぶやきました。
そんなことになったら、枠が一つになっちゃうじゃないか。
和谷は、言いました。
「来週から若獅子戦なんだぜ。来年はお前がいるからな。今年は頑張るぞ。」
その若獅子戦は、倉田が六段となり、出場しないので、アキラが注目の的でした。
アキラは実は、若獅子戦など目じゃありませんでした。
アキラは連勝街道を突っ走っていて、リーグ入り間近と目されている若手のトップなのです。低段の棋士など、まして院生など目じゃありません。
若獅子戦も、もちろんちゃんと打つよ。でも、倉田さんもいないし、格下相手のただそれだけの棋戦だ。つまらないよ。棋院の昇段システムは間違っている。
そんなことを考えていたアキラでした。
アキラは別に人に嫌われるような性格ではありませんでしたが、碁打ち仲間からすると、人好きのしない人間と言えました。
アキラが目標とするものは、幽霊に磨かれてから、より鮮明になっていったのです。
幽霊のあの手に相応しい打ち手になる。いずれ対等に打てるようになるまで。
それが自分の身に起きたことだと感じたのです。
あの幽霊と打てる人間というのは、“選ばれた人間”だという意識が芽生えていたのです。
佐為との三か月というのはそれほど、アキラに影響を与えたのでした。
それは棋力よりも、意識という点においてより鮮明でした。
僕が今プロとしてできることは、トップ棋士と戦うこと。それ以外のことに自分の勉強の時間を割きたくはない。プロ棋士として割り当てられた諸々の仕事は別として。
だからですが、和谷に研究会に誘われた時、当然断ってしまいました。
「若手や院生上位の奴やアマチュアの強豪(ヒカルのことでした)を交えた研究会を開いてる。塔矢には、是非加わって欲しいんだ。だって塔矢は若手の有望株だし。みんなもお前と勉強したがってるんだ。」
僕は、院生にもアマチュアにも、それに君のいう若手のプロにも関心はない。だから。
「僕は忙しくて、その時間はないと思う。」
「毎回じゃなくても来れる時だけでいいんだけど。」
「悪いけど、その機会は絶対にない。僕は碁を極めることに人生をかけているんだ。だから余計なことに時間を費やしたくはないんだ。」
傍にいた若手棋士や院生は呆然と、その言葉を聞いていました。
アキラが去った後、近くにいた倉田がおかしそうに言いました。
「諦めろ。あいつとはリーグ戦にでも入って、打ち合うんだな。あいつは、ただ上だけを見て、まっすぐ進んでいく、そういう奴なんだよ。別にお前たちの勉強会をけなしてるわけじゃないけどな。結果としてはそうなるかな。俺が替わってやろうか。一度ぐらい、その研究会とやらに出てやろう。院生と打つ時には指導料ぐらい、出せよ。」
「昼飯ぐらいなら出せます。」
「じゃ、行ってやろう。」
倉田は伊角がその研究会に出ていることをわかっていました。
塔矢は上ばっか見る奴だけど、俺は下からやってくる奴に注意を払っているんだ。俺の勘が囁いているんだ。
その研究会で、倉田はヒカルと顔合わせをすることになったのです。
倉田は昼飯にラーメンを頼んだのですが、ラーメンを頼んだのはほかにヒカルだけでした。
ラーメン繋がりです。
「進藤。ラーメン代しっかり払えよ。」
「うん。大丈夫だよ。ラーメン代ぐらい。」
倉田はすまして言いました。
「俺二人前な。」
ラーメン代を持ったヒカルと、倉田は打つことになりました。
ま、腹ごなしにアマチュアと打つっていうのもちょうどいいか。
「で、何子で打つんだ。」
「互い戦でお願いします。」
「俺と互い戦で打とうっていうのか。」
アマチュアなのに、身の程知らずめと倉田は思いました。
こういう天狗は打ちのめしておきたい、というのが倉田の考えでした。
「いいか。俺はタイトルの挑戦者になった男だ。どうしても俺と互先で打ちたいというんだったら、白色碁で打ってやろう。」
「ハクショクゴ?」なんだ?食後の碁?
「要するに白石だけで打つんだ。」
そう言って、倉田は意地悪く、傍にあった碁笥を引き寄せました。
「お前が先手でいいぞ。」
みんながわらわらと集まってきました。和谷の研究会に出ている者は、白色碁くらいで驚いてはいません。やり方が分かればヒカルにも別段大変なことはありませんでした。
石が全部、白でも黒でも赤でも、碁だからな。それより、倉田さんと打つ経験のほうが大切だ。
ヒカルは、二年以上も、日本のトッププロや中国のトップ棋士やらにもまれ、更に、このところの、佐為との連日の対局で、大化けをし始めていたのです。
「うーん。ここがまずかったか。」
倉田は対局が終わってから、頭を抱えながら言いました。
こいつ一体何なんだ?白色碁でも関係ないんだ。
「プロじゃないんだろ?院生でもない?」
「はい。でも今度のプロ試験を受ける予定です。」
「倉田さん。彼は白川棋聖のお弟子さんなんですよ。」
伊角が言い添えました。
「有名なの?」
「さあ、倉田さんが知らないのなら、有名じゃないのでは。白川先生と俺たちは知ってるけどな。」
「俺は、またここへ来るけれど、進藤にラーメンは、おごらないぞ。」
ヒカルは頷いて言いました。
「又、打ってくれたらいいよ。というかお願いします。倉田さんが、始めから本気で飛ばしてたら、今の対局、危なかったもの。俺、もっと勉強しなきゃ。倉田さんの本気の対局に勝てるように頑張るぞ。」
こいつが勉強していったら、どうなるんだろうな。ちょっと見てみたいぞ。来年は要注意の奴が一人増えたわけだな。いや、この分だと、まだまだ誰か出てくる可能性があるな。うかうかしてられない。
そうこうしているうちに、若獅子戦が始まりました。
今年の院生は本当に不甲斐ない。プロ試験は大丈夫かという声が囁かれました。二回戦まで進めたのは、院生一位の越智だけでした。
二回戦で塔矢と当たった越智は、その強さに脱帽し、プロになってリベンジを果たすぞと、決心したのでした。
さて、その塔矢ですが、優勝を逃しました。
決勝戦で伊角と当たり、敗退したのです。
「伊角さん、この頃すごく研ぎ澄まされてない?」
「和谷だってそうだろ。進藤との早朝対局が効いてる気がするよ。」
「うん。俺もだ。俺なりに頑張っては、いるよ。それに研究会の奴らも、みんな進藤に影響されてるよな。進藤って、この頃、すごいもの。それに白川先生がまた、言われてるらしいよ。鬼気迫る碁を打つってさ。師弟揃って、最近、何気にすごいことになってると思わないか。」
「和谷。俺たちも塔矢じゃないけど目指そうぜ。」
「うん。囲碁の高みって奴だろ。打つ時はいつもそれを目指すんだな。」
七月になり、ヒカルはプロ試験予選に出場しましたが、そこでいきなり声をかけられたのです。
「進藤君。よろしくな。」
「?あっ、この前の人?何で名前知ってるの?」
前に棋院の対局室で手合せした人でした。
「泉さんから聞いたよ。先輩だからな。俺、門脇って言うんだ。」
「学生タイトル、全部取ったっていう人?泉さんがこの前教えてくれた。そうかあ。それで強かったんだね。楽しかったもん。あの対局。」
「ありがとう。君は例外だから気にするなって言われたよ。中国棋院でも修行したんだって。」
「うん。泉さんのおかげだよ。ぜーんぶね。」
予選が終わってすぐ、ヒカルは仲良くなった門脇に連れられて、いくつか碁会所に出向きました。
「君とはもう少し打っておきたいんだよ。本戦までにね、特訓だな。」
「進藤君には本当に、歯が立たないな。でも君が特別なんだよね。」
そう思わなきゃ、やっていけないじゃないか。門脇はそう思いました。
でもこの年でこの棋力って、憧れるぜ。進藤君はトッププロ並みだ。だから彼と打てるのは本当にラッキーだ。
その日、たまたま入った碁会所で、強豪が多いという碁会所を紹介してもらって、二人は行ってみました。
そこでヒカルは首をかしげました。見覚えのある人がいるのです。
「あれっ、どこかで見た人がいるなあ。」
「君は、もしかして葉瀬中の生徒さんじゃないかい?」
「そうだ。海王の先生だ。」
「葉瀬中の子は、皆なかなか強かったね。君は出てなかったけれど、何でここに来たの?」
「あ、えっと。」
門脇が代わって答えました。
「いえね。ちょっとこの先の碁会所に入ったら、とても強い人たちがいるところを教えてくれるって言われて。それがここなんですよ。」
「確かに。俺たちは強いよ。試しに打ってみるかい。」
「是非、お願いします。」
ヒカルは、そういって始まった門脇の対局を見つめました。
これは、門脇さんの方が絶対的に分がいいかな。さすがだな。
「へえ。あんた、結構強いんだな。」
「いや、どうも。でも結構きつかったかな。当分、ここでもう少し腕を磨かせてもらおうかな。」
門脇はさすが社会人、無用の軋轢を避ける知恵を持っているようです。
「君も打ってもらったら?」
ユンが、見ていたヒカルに言いました。
「俺は。」
ヒカルは、遠慮しました。
「君は何年くらい碁を打ってるの?」
「俺?碁を始めてから、三年半ぐらいかな。」
「じゃあ、少しは打てるんじゃないかな。遠慮してたら強くなれないよ。強い人に相手になってもらわなきゃ。そうか、その人が君の先生かな?」
ヒカルは困ったような顔をしました。
その時ヒカルより少し年下ぐらいの男の子が目につきました。
ペットボトルを手に、むすっとした子でした。
「じゃあ、あの子となら打つよ。」
「いや、それはダメだよ。君の相手じゃないよ。彼は。」
「ふーん。そうなんだ。」
「へえ。あの子強いんですか?進藤君より強いなんて思えないなあ。」 門脇が言いました。
その言葉をその少年に伝えるおせっかいが居ました。
「打ってやるっていってるよ。」
ヒカルはその子と向かい合いました。
「何て言っているの?」
「何子置くのかって。」
「別に、互先でいいよ。」
そう言ってヒカルが握りました。先手はその子でした。
やる気なさそうにしていた子でしたが、すぐに目の色が変わってきました。
周りの大人たちも集まってきました。
何なんだ。この子は。
ヒカルは感じていました。
こいつ、迷ってるんだな。だったら思いっきり俺にぶつかってこいよ。
受け止めてやるよ。こいつは強いよ。もっともっと強くなるよ。楽しいよ。久しぶりに。わくわくする。
手加減なんてしないぜ。思いっきり叩いてやるよ。そうしてもらいたいんだな。こいつ。
周りの大人たちは、しんとしていました。
「すごい。君はだから大会に出ないんだね?院生じゃないんでしょ。」
「三年しかやってないなんてウソだろ?」
「嘘じゃないんですよ。俺も驚いたけどね、俺は進藤君に打ってもらって強くなりたくてね。」
「プロじゃないんだ。」
「今度、プロ試験を受けることにしたんだ。」
「スヨンは韓国の研究生、日本の院生みたいなものだけどね。」
「そうなんだ。強くて楽しかったよ。」
「でも負けたって言っているよ。」
「じゃあ、伝えて。スヨンは、もっともっと強くなる。だから手加減なんてしなかったって。思いっきり打ち返したよって。もっと強くなったスヨンと戦うのを楽しみにしているって。」
「スヨンは日本にいないよ。」
「大丈夫だよ。スヨンはプロになるもの。絶対。俺がそう言うんだから間違いないよ。」
ヒカルは笑って、手を差し出しました。
「俺、待ってるからね。」
「君の名前をもう一度教えてほしいって。」
「進藤ヒカル。」
ヒカルとスヨンは、お互いの目をじっと見つめました。