本戦が始まる前の夏休みでした。
あかりが姉と十日間の語学留学に出かけるというのを、白川は熱心に後押しをしました。
「藤崎君は、この辺で、少し碁から離れた方がいい。そうしないと、本当に消耗してしまうから。君が碁を打たない間に幽霊が消えるなんてことは絶対にないから、安心して楽しんできなさい。」
ヒカル一家は、あかりの家族と共に、見送りに行きました。
「あかりちゃん、戻ってきたらきっと、ペラペラね。英語が。」
「さあ、それはどうですか。でも度胸はつきますね。きっと。」
帰りはあかりの両親と一緒でした。
「どこかでお食事していきましょうよ。お昼過ぎてるから空いているでしょう。」
そう話していた時でした。ヒカルは、東京駅で、ぼんやりベンチに座っている子に出会いました。
「あれ、あの子、ずっとあそこに座ってる?俺、行きも見たよ。」
ヒカルはその子に声をかけました。
「どうしたの?」
「財布、落としてしもうた。」
「いつからそこに座ってるの。」
「九時くらいから。」
「四時間も?お腹空いてるでしょ。」
美津子が驚いて言いました。きちんとした感じの子だったので、その子を連れて、ファミレスで食事をして、いろいろ聞きだしました。
何?大阪から来た?電話代貸すから、親に連絡したら。えっ?家出?どうして?
ヒカルと同い年なのか。
レストランから出たその時でした。きょろきょろとしていた男がその子を見てほっとしたように言いました。
「清春。帰るぞ。こんなことだろうと思っていたよ。」
「あなたはどなたですか?」
「私はこの子の父親ですよ。」
「本当かい?」
正夫は少年に尋ねました。
男は不愉快そうに言いました。
「あなたたちこそ何なのです。」
その時少年が言いました。
「俺が財布を落として困っていたんで助けてくれたんや。今そこで、飯もごちそうになった。」
「それはお手数をおかけして。食事代はおいくらでしょうか?」
正夫は、さすがに少しむっとして言いました。
「それはご丁寧に。それより少し気になるんですけれどね。お子さん、家出してきたと言ってますけど、どうなっているのですか?」
「そんなことあなた方には関係ないことでしょう。」
「はあ、清春君っていうんですね。うちの息子と同い年だそうで。後学のため、ちょっとお聞きしたかったんですよ。」
「俺が碁打ちになりたいって言ったら、反対されたんや。」
それを聞いた、あかりの父親が言いました。
「へえ。君ってそんなに下手なの。親に反対されるほど出来が悪いの?」
その言葉に、清春の父親がむっとしたように言いました。
「うちの息子はできは悪くありませんよ。碁の先生にプロになれる、才能がすごいって言われてますよ。」
「はあ、それならどうして?いやあ、碁のプロになるって、そんなによくないことなんですか。知りませんでしたよ。うかつだったなあ。」
正夫が少し驚きを込めて言いました。
私はヒカルの将来を軽々しく賛成しちまったのかなあ。
清春の父親は、当然のように言いました。
「いいですか。息子が碁のプロになりたいと言った時、私は自分のまわりで聞きましたよ。
碁を打てる者は数人しかいませんでした。息子に至っては今まで友達に碁を打てる子は一人もいませんでした。そんな現状では囲碁のプロになっても組織自体が危ういのと違いますか。」
「はあ。」
「そんな廃れかけている世界に誰が息子を好き好んで行かせると思います?私は息子に幸せになってほしいんですよ。」
「はあ。」
「はあって、あなた分かってるんですか?」
「はあ。確かに私の職場でも碁を打つのはあまりいませんでしょうねえ。聞いても。でもいいじゃないですか。いつの世にもマイナーなものはありますからねえ。それに息子さんが引退するとか死ぬ頃までは、碁も続いてるんじゃないですか。それって、たかだか、5、60年のことでしょ。息子さん才能あるんでしょ。やらせてあげれば。」
清春が60年後に死ぬと思っているのか。
正夫の発言の、そこのところに反応して、男は語気荒く言いました。
「人の息子のことだと思って。あなたの息子さんが碁打ちになりたいって言ったら、あなただって反対されるでしょう。」
「私ですか。私だったら、もろ手を挙げて賛成しますよ。だって、才能があれば。ちょっとプロになって、ちょこちょこっとタイトルのひとつ、ふたつとって、何千万も稼げるんですよ。悪くないかなと思いますよ。しかも好きなことをやって、生き生きして。
言っては何ですが、うちの子は学校の勉強はあまり得意じゃないんですよ。ですから、得意なもので身を立てられれば、言うことないですよ。ばんばんざいです。
私も息子を愛していますからね。でもあなたのような親御さんもいるんですね。勉強になりました。」
男は正夫の言葉に眉をしかめました。
私はまっとうな仕事を続けている。忍耐・努力・辛酸・苦汁の連続で楽な道ではないが。そうして、まっとうな息子を育ててきたんだ。
それから、男は、ヒカルを見ました。
この子、勉強が嫌いで、流行の格好をしてる軽薄な子どもっぽい子じゃないか。軽薄な親には軽薄な子ども。できのいい清春と大違いの子じゃないか。これで同い年か。確かに頭もあまりよくなさそうだ。
そこでヒカルに聞きました。
「お父さんは、ああ言ってるけれど、君は碁って知ってるかい?君のまわりに碁を打つ子はいる?」
ヒカルは頷きました。
「いるぜ。俺、中学じゃ囲碁部に入ってるしね。小学校も囲碁部だった子もいるよ。この前、地区の大会があったよ。優勝した学校の囲碁部は部員が60人か70人ぐらいらしいけどね。
でも確かに少ないよね。まあ、おじさんが言うように日本の社会全体から見たら、マイノリティかも知れないよね。」
ヒカルは、得意の英語を駆使(?)して、とうとうと述べました。
ヒカルのそういう言葉づかいに驚いたのは、清春の父親と、もしかしたら清春だけでした。
あかりの父親は、そうだねと頷きました。
「そうだねえ。うちの会社にも囲碁部があるんですけどね。会社創設以来の伝統の囲碁部ですよ。アマの全国大会でも実績はありますよ。団体戦にも出て、まあまあの成績を収めてますしね。会社はそこそこ力を入れてますよ。まあ、オリンピック種目にでもなれば、もっと活気が出るかもですねえ。」
黙っていろいろ聞いていた美津子が言いました。
「私たちの子は公立だけれど、進学率のいい私立の学校じゃあ、今は囲碁と将棋は注目の的でしょ。大学もそうだけれど、プロ棋士に教えに来てもらうっていうところも、結構あるらしいのよ。そう、トップクラスの学校のことですけどね。」
明子からのあやふやな情報をしっかり披露した美津子です。
「うーん。それでかなあ。うちの社の囲碁部の奴で、退職して棋士になりたいなんて言ってるのがいますよ。昔何度か挑戦してダメだったとかでねえ。やっぱり忘れられないんですね。」
「俺知ってるよ。実際に会社辞めちゃって、プロになろうとしてる人。」
「ああ、あの人だね。Z大学出て、A商事入ってた人だろう。なかなか入れる会社じゃないのにね。プロの方が魅力的なのかなあ。まあ、自信があるんだろうな。」
「会社にいても、自分の力は生かせないって言ってた。そういえば、泉さんの会社みたいに、大学と組んで、人工知能の開発に碁のプロと一緒に取り組んでるところもあるよね。 碁ってさ。日本だけのものじゃないから、外国に教えに行ってる人もいるんだよね。」
またまたヒカルです。
一体この人たちは何なのだ?
清春の父親は、気味悪く思い始めました。
「それよりも。清春君て、背は何センチかしら。170センチ以上は、あるんじゃない。」
「うん。うちのヒカルみたいに小柄なのも可愛いけれど。それになかなかワイルドなヘアスタイルよね。そういう子が、碁を打つと、なんか受けるんじゃありませんの。ファッションセンスも悪くないわ。」
「そうねえ。伊角君と背はどっこいだけど、雰囲気がまた違ってて、いいわね。和谷君に近い?いっそのこと、若手棋士の見栄えのいいのを何人か集めて、組んで売り出したら流行るんじゃないのかしら。碁をやる子が絶対増えるわね。もちろん腕も確かな子をよ。」
「そうですわ。清春君のお父さん。あなたが廃れる世界なんて言ってどうするんですの。今こそ商機と思って、むしろチャンスじゃないですか。息子さんが救世主になるって思いませんの?男が積極的に打って出ないなんて、魅力ゼロよね。」
清春の父は、母親パワーに押されて、商機ではなく正気の沙汰ではないと思ったものです。
それにお構いなく美津子とあかりの母親は盛り上がりました。
「そうですわ。ちまちま安全なところに息子を置こうなんて、息子さんも今は、魅力満載ですけどね、あなたに感化されたら、将来、結婚もできませんわね。」
「ねえ、清春君。君は才能あるのよね。自信あるのよね。だったら、しっかりしなさいよ。家出なんかしないで、きちんとお父さんを打ち負かすのよ。そうよ。碁で勝負したら。二十目位置いて打ち負かすのよ。」
清春は困ったように、やっと言いました。
「おやじは碁が打てないよ。」
ヒカルはズバッと言いました。清春の父親の顔を見てです。
「それはないよ。俺が見るところ、お前のお父さんは碁を勉強してるぜ。そうだな、通信教育とか碁を打つって知り合いに教わってか、どっちかだな。子供と接触しないところで勉強してるよ。だって、そんだけ反対するんだ。知らないで反対できるわけないだろ。」
清春の父親は、その言葉に少しびくっとしました。
「そうねえ。だったら、打ってあげなさいよ。ヒカルが。息子に負けると意固地になるかもしれないでしょ。他人ならいいんじゃないの?」
「そうよ。こうなったら。そう言えばちょっと先のビルに、なんだか碁のセンターみたいなのがあるって出てたわよ。そこなら打てるんじゃないの?ここから何分もないところよ。まさか大した腕もないのに息子の将来を反対する親なんて、いたら失礼よね。絶対。」
母親パワーに押されて、清春父子は訳が分からないうちに、そのビルとやらに連れていかれました。
そこは、何と子供囲碁大会の真っ最中でした。
「すごい熱気だね。」
あかりの父が、初めて見た光景に驚いて言いました。
「しっ、みんな必死なんですよ。子どもの幸せを願って、子どもが勝てるように。何でもそうでしょう。そしてその中で、プロになれるのはほんの一握りのエリートなんですよ。そのエリートの中でほんの一握りがトッププロというわけですね。で、君はそのトッププロになろうと思ってるんだね。清春君。」
「うん。」
清春は、正夫のその言葉に力強く頷きました。
「ちょっと、こっちの控室に行こうよ。会場じゃ、話できないよ。あっちに碁盤があるかも。」
その時でした。
「あれ、清春。何してるんや?おや、お父さんもご一緒で。中学の部もありますよ。まあ、これは清春のレベルじゃお遊びですけれどね。」
それを見た美津子は頭を働かせました。
「ねえ、あなた、私たちはもう失礼しましょうよ。清春君には、お父さんがいらっしゃるんですもの。後はもうお任せして、私たちはもう帰りましょ。先生もいらっしゃるみたいだし。」
「そうだね。じゃあ、私たちはもう失礼します。あっ、食事代は結構ですよ。色々教育論を伺って、勉強になりましたし。」
ヒカルたち五人は、清春たちをそこに残し、ささっと帰ってしまいました。
「あいつ、碁を続けられたら、いいのにな。」
「本人の意志が強ければ何とかなるだろう。世の中はいろいろだからね。私たちみたいな親ばかりじゃないってことだよ。」
「うん。感謝してるよ。」
ヒカルはそう言いました