神の気まぐれ(ヒカルの碁逆行コメディ)     作:さびる

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52.幻のワイルド塔矢が蘇る

佐為は静かに漂っていました。囲碁指南役をしていた頃の雅な佐為に戻っているかのようでした。

 

私は、姿が見えた時よりも今の方がずっと充実している気がする。

私が憑いてるこの娘は、しばらく旅行に出るから碁が打てないと言っていた。

私には今、時間がある。いつもは碁のことにかまけて、考えてこなかったことを私に考えさせてくれる時間だ。

あの者の家にいた時は、一日でも打てないと、きりきりしていたのに。そして実際、毎日打てるなどということはなかった。だからいつもきりきりしていた気がする。

しばらく打てないというのに、なぜ私は、今こんなにも落ち着いていられるのだろうか。

言葉でやり取りができるようになってから、ほとんど毎日打っているせいかもしれない。一日一局だが、密度の濃い時間だ。しかも対局者と仲介者を通して検討ができる。

でもそれ以上に…。

 

佐為は感じていました。分かっていたのです。

 

私は、今、私の相手になっている者と打つ碁が好きなのだ。その者の打つ手は、私にはなぜか懐かしい。そして驚くほど強靭で、力強く、若々しく驚きを秘めていて楽しい。その者は私と打っても遜色がないような碁を打ってくるではないか。ほとんど同等と言えるほど、力強い。いや、先だっては、私は明らかに負けたのだ。それでもこの相手は、熱心に検討を重ねてくる。その場の勝ち負け以上に、碁の持つ可能性を追求しているようなそれ。それが私を揺さぶるのだ。

 

そして、ほかに今一人、対局者ができた。時々打ち合う相手だ。その二人目の相手は、私がいつも打つ者の師匠だそうだ。あの者や緒方という男と同等の力を持っている。彼の碁には天才の閃きはないが、強い意志の力が感じられる。彼は私に対して何がしかの感情を抱いている気がする。私を単なる囲碁幽霊とは思っていないらしい。彼は私に何か言いたいことがあるのかもしれない。

 

そういえば私が憑いている娘は、私の声を聞き取れるがゆえに、私に、いろいろ尋ねてくる。

不思議なのだろう。きっと。私の存在が。私は時々、呟いてしまうようになった。その娘の問いに答えるように。その娘は話を誘導するのに実にたけているのだ。

私がなぜあの者の家にいるようになったのか、その訳をだ。

誰にも言えないできた、忘れようとしてきた私の業をだ。

忘れていたと思っていたが、忘れるわけはないことを。

 

私のような天才棋士のみが有する碁に対する深い思いからくる業など、この娘にはとうてい理解できないだろうが、問われれば、話そうではないか。

やっと言葉で人とつながっていられるのだから。毎日、あんな碁を打っていると、言わずにはいられなくなるのだ。

 

もうひとつ、この娘は、私がなぜ自分に憑いているのか、そのわけを知りたがっている。

それが一番知りたいことのようだが。私にすら分からないわけをどう説明できるというのだ。

いや、もしかすると、私は本当は分かっているのだと思える。

そう、私は、毎回一局打つたびに、そのわけに近づいているのだと分かっている。

そして私は何かを恐れているのだ。でも私は一体何を恐れているのだろう。

 

 

さて藤崎姉妹は無事、語学留学から戻ってきました。ほんの十日ほどでしたが、日本の生活に戻れるまで、しばらく時間がかかりました。がそのうち、またいつもの毎日が戻ってきました。

 

あかりはほっとしていました。

白川先生が言った通り、大丈夫だったわ。幽霊さんは消えてない。それに、私は幽霊さんの話をたくさん聞いたわ。碁が打てない分いっぱい。多分今の時代の話じゃない、昔のことらしいけれど。千年も生きている幽霊さんだって言っていたもの。

 

あかりは、その幽霊の話した身の上話を白川に手渡しました。

 

そうこうするうち、まもなく、プロ試験本戦が始まりました。本戦は、ヒカルには楽しいものでした。

懐かしい気がするんだ。みんなが緊張して戦ってるその中に、俺もいるっていうのが、わくわくするんだ。俺は何かをなぞっている気がする。あるいは辿っているのかな。

 

ヒカルがプロ試験で連勝を重ねている時に、白川は行洋相手に碁聖戦を戦っていました。

白川君は棋聖になって貫禄が付いたというか、あの温厚な彼が、碁を打つ時にはなんだかぞくぞくする、気迫に満ちた碁を打つようになった。

それはもっぱらリーグ常連の間で囁かれている噂でした。

そして、八月末に三勝二敗で碁聖戦を制したのです。あの塔矢行洋を下して、二冠となったのです。

 

俺も頑張らねば白川に先を越されてしまった。白川は幽霊と打っているのだろうか?

おそらく時々は、打っているだろうな。あの気迫は幽霊との打ち合いの中で醸成されたものだ。

緒方は、そう思いました。

 

行洋の思いは別でした。

今回の棋戦は、負け惜しみではないが、白川君の思いが、まさったからの気がする。

「白川君。君に是非聞きたいことがあるのだが。そうだね。進藤君のプロ試験が終わってからでいいのだが。君の考えが、どうしても知りたいのだよ。」

「幽霊のことですね。私が話せる範囲でお話ししましょう。進藤君がプロに合格したら。先生にも、ぜひお願いしなければならないことがありますから。」

 

 

行洋が幽霊について深い関心を示している時、息子のアキラは、いろいろな思いにさいなまれていました。

プロ棋士として、アキラは自分の前を行く者だけを追っていました。それはアキラらしいまっすぐな姿勢でした。そのため、アキラはヒカルがプロ試験を戦っていることをまったく知りませんでした。

それよりも、アキラは若獅子戦に敗れた時、伊角に強い手ごたえを感じて、彼とはもう一度打ちたいと思っていました。その彼が、若手の研究会に誘ってくれた和谷と帰っていくのを見かけたのです。

 

そうか。僕は断っちゃったけど、ちょっと覗いてもいいかな。その研究会。彼と打つ約束ができるかもしれない。僕は猪突猛進の癖があるって、芦原さんが言うけど、なんでもすぐに断るのはやめよう。

そういえば、お母さんも言っていたっけ。ものによるけれども、物事は、すぐに決めないで、先ずは考える時間を確保して、それから決めると後悔しないことが多いって。

 

後悔という言葉は、アキラの今までの人生には、まずない言葉でした。アキラがその人生で後悔したのは、これが二回目でしょう。

その一回目は、ヒカルと言い争ったことでした。

あれは本当だったんだ。進藤は嘘を言っていなかったんだ。それに僕の母を信じてくれていた。

そのヒカルとめぐり合う機会が今まで一度も訪れなかったのは不思議でした。また積極的に会いに行かなかったのも不思議といえば不思議かもしれません。

でも、その機会は唐突にやってきたのです。

 

ヒカルが棋院のある最寄り駅に降り立ったのです。

プロ試験は別会場でしたから、それは全く偶然といえば偶然でした。

 

こんなところで彼に会うとは。この機会を絶対逃してはいけない。

アキラは思いました。そして思うと同時に、ヒカルに向かって突っ走っていました。

 

その時です。

ヒカルの前にいるおばあさんが転んだのです。足を踏み外して。

ヒカルに、デジャブが走りました。

 

あの時と同じだ。そして、同じように、それを当然、支えたのです。

ただ、そこは階段の途中でした。それでも何とか支えたはずですが、ちょっとしたアクシデントが加わりました。

アキラはヒカルを見失わないようにと、ヒカルの元に、猪突猛進、走り込みました。

その時、何かがアキラを止めたのですが、それは何かわかりませんでした。とにかくアキラは女性に触れることすらありませんでした。アキラは何も覚えていませんでした。

でも、ある角度から見ると、アキラがおばあさんを押したようにも見えたかもしれません。

そのある角度にいたのは、幸か不幸か、棋院の坂巻でした。

 

ヒカルは支えたおばあさんを抱えるように階段を、体を横にして滑り落ち、下にいた二人にかろうじて、受け止められて救われました。

手すりに頭をぶつけた脳震盪、鎖骨の骨折、足首の捻挫という診断が、担ぎ込まれた病院での検査結果でした。

アキラが何かしたわけではありませんでした。

そのアキラ自身はというと何かにさえぎられていました。今の状態を把握することができないままでした。

事故が起こったことも理解できなくなっていました。

アキラの意識は何かが阻み、別世界へ飛んでいました。その間、自分がどこにいるかも分かっていませんでした。

 

周りが事故でざわめいている最中に、ぼけっと突っ立っていたアキラは急に腕をつかまれました。

えっ、何?この人、確か棋院の事務方の、えっと、坂巻さんだっけ?

そんなことを考えているうちに、駅の外に押し出され、タクシーに乗せられていました。

 

忘れなさい? あなたには関りがないのですから。

何が? あなたは誰?

アキラは頭がぼーっとしていました。何かが介在していましたが、それも分かりませんでした。

 

タクシーを降りると、坂巻はアキラを連れて、ある店に入りました。

「例のヘアスタイルに。」

 

例の?とは何でしょうか。

美容師は慣れたものでした。

「はい。あれですね。お任せください。染めますか?」

「時間がないので、今日はカットだけで。」

「はい。」

 

坂巻の頭には先ほどの声が響いていました。

坂巻と同じ角度からそれを見た人間が何人かいたのです。

「女の子みたいな髪をした子が押したんだよ。」

「女の子?」

「じゃなくておかっぱ頭の子だった。」

 

軽快な響きでカットされたアキラは全く感じが変わっていました。

 

塔矢君は申し分ない棋界のスターになる、救世主。こんなことでスキャンダルに巻き込まれたら元も子もない。

前から一つだけ気になっていた。塔矢君の髪型。あれだけはいただけない。世にいう腐女子好みな髪型だ。悪くすると、棋界にマイナスイメージを持たれる可能性もある。

だから私は、塔矢君の顔に合わせて、いろいろ髪型を研究していたが。それがこんな形で生かされるとは、世の中とはうまくしたものだ。

 

髪型研究を重ねていたという坂巻のセンスに疑いを抱いてはいけません。

坂巻が深い感慨に浸っている間に、新しいヘアスタイルが完成しました。

 

「ワイルドでしょう?」

美容師が言うまでもなく、そこにはあのワイルド塔矢がいました。(キャラクターズガイド134ページ参照のこと)

そのまま、タクシーで家に戻されたアキラを見て、明子は一瞬、絶句しました。

 

「まあ、アキラさん。どうしたの?でも、とても素敵よ。」

そう言いながら明子は頭を巡らしていました。

良い子のアキラさんが、不良になったのかしら。ってわけじゃないわね。

そうね。ついに親離れを始めたのかもしれないわね。アキラさんの親離れ?

でもね。アキラさん。ヘアスタイルだけじゃあ、だめなのよ。

親離れには、百年早いことよ。まずは、服装をこのヘアスタイルに合わせて変えなくちゃだめ。

アキラさんを連れて、早速買い物よ!

ふふふ。やるべきことが増えて嬉しいわね。


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