神の気まぐれ(ヒカルの碁逆行コメディ)     作:さびる

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54.なつかしい笑顔

事故にあってから一週間ほどが経ち、ヒカルの退院が決まりました。

ヒカルの病室に、幽霊を知る人たちが集まりました。

その時、たまたまヒカルは大部屋を一人で使っていました。

 

「進藤君、今日は話があって来たのだけれど、落ち着いて聞いてほしい。藤崎君は幽霊の声を聴くことが出来なくなったのだよ。」

ヒカルは覚悟をしていたように、白川の言葉に頷きました。

 

あかりが、ヒカルの傍へ行こうとして、つまづいたのを、明子が手を取って支えました。

その時でした。

二人の手が合わさった時、それは起きました。

佐為の姿が少しづつ浮かんできたのです。

 

「幽霊さんだわ。」 明子が言いました。

 

佐為は嬉しげな、そして悲しげな微笑を浮かべ、そこにいた人々に頭を下げました。

「佐為。やっと会えた。会いたかった。思い出してからずっと、お前のことばかり思っていた。」

ヒカルは手を差し伸べました。

 

佐為は愛(いと)おしげに、その手に触れるようなしぐさをしました。

「ヒカル。やっとあなたを見ることが出来ました。元のままのあなた。あの時と同じ愛(いと)しいあなたに。私は、あなたにとてつもない重荷を背負わせてしまったのでしょうか。赦して下さい。」

 

それからあかりに向かって言いました。

「あかりちゃん。あなたも昔、私が知るあかりちゃんと変わりがない。今まで、ヒカルと私のためにしてくれたことに、感謝しています。

私がここに姿を現すことが出来て、話すことができるのは、私に説明を果たさせるためだと思っています。

私の業のすべて、罪の全てをヒカルが背負うのは間違っています。だから今一度、ヒカルと私を知る皆さんの前で、この時を持てたのでしょう。」

 

佐為は覚悟を決めたように静かに話を続けました。

「私はヒカルと一度は別の人生を歩んできたのです。別の時間を過ごしてきたのです。そこで、私は、全く碁を知らないヒカルと出会いました。あれは、そう6年生の時でした。ヒカルと一緒に楽しい時を過ごせた。本当に幸せだった。あれほど楽しく幸せな時は生きていた時も含め、なかったと今は思っています。

 

ヒカルに潜む可能性と才能に気づいてからは、私は夢中でヒカルを鍛えてきました。

私はヒカルに憑りついていたから、寝る間も惜しんで、二人で頑張ってきた。ヒカルは、頑張り屋で、負けず嫌いで、恐ろしいほどの速さで、すべてを吸収し、夢中で碁に向かっていました。

 

でも、ゼロだったヒカルに初めて碁を手引きしたのは今と同じく白川先生、あなたでしたよ。

あの囲碁教室で、石取りゲームを教え、碁の楽しさを教えて、ヒカルを碁に目覚めさせ、そして森下研究会でもヒカルの面倒を本当によく見てくださいました。

 

私はヒカルの元に降りて間もなく、塔矢先生の存在を知りました。その時から、いつか打ち合いたい、そのために私はこの時代にいるのだと思っていました。

ヒカルが院生の頃、若獅子戦で、プロと打つヒカルの才能に気づいてくださったのは緒方先生。あなたでした。あなたは何かとヒカルを気にかけて下さって、いろいろ便宜を図ってくださったこともあったのです。私はあなたともできれば打ち合いたいと何度思ったことでしょう。

 

ヒカルは院生として良き仲間と巡り会い、中二の年にプロになりました。

ヒカルが私のために知恵を絞って、塔矢先生とネットで対局させてくれた頃、ちょうど幽霊としての千年の寿命が尽きようとしていました。私はヒカルと共に輝かしい時代へ向かう筈なのに、なぜ私は消えなくてはならないのかと、恨みました。その宿命をです。なぜこの時なのだろうと。

 

私は、自分が憑いた存在が死ぬと、また碁盤に戻り、新しい存在を待つ、そうして過ごしてきたのです。そういう宿命の幽霊の筈でした。

まだ間に合うのか、もう間に合わないのか分かりませんでしたが、私は誘惑に負けてしまいました。

私は念じて、ヒカルをおじい様のお蔵の階段から突き落としてしまったのです。おそらく怨念のこもった念力ででしょう。ヒカルの叫び声を聞きながら、私は碁盤に戻りました。」

 

一時(いっとき)沈黙が支配しました。ヒカルが辛そうに言いました。

「佐為、やめろ。お前が悪いんじゃないよ。俺が悪いんだ。自分が打つことに夢中になって、お前に打たせようとしなかった。だからなんだ。お前を追い詰めた俺が悪いんだ。」

 

「いいえ。違います。私はそれを話すために、ヒカルを解放するために、姿をもらったのですから。私はその時、確かに思っていた。ヒカルが死ねば、私はまた碁盤にとりつき、新たな世界で素晴らしい対局が出来る、その日をもらえると。

幽霊ではあっても、私は神がいるのかは分かりません。でも、もし神がいるなら、その時、神は救おうとなさったのです。私をではありません。ヒカルをです。

あのままならヒカルは生きてはいなかった。だからヒカルを生かすために、それは起こったのです。

時を遡ったのです。それしか、ヒカルの命を救う方法はなかった。時間を戻すこと。

ヒカルは記憶をすべて失う筈でした。人生をはじめからやり直すために。

 

でもヒカルはあの時念じていたのです。あんなことをした私なのに。私を私のことを忘れたくないと、必死に願ったのです。だから中途半端な時代に留まってしまったのです。

そこから新しくやり直すために、私の記憶はヒカルの中で封印されたまま。そして今、ヒカルは、微かな記憶の名残を手掛かりに、私の記憶を取り戻したのですね。」

 

あかりが言いました。

「あの時ね。歩道橋の事故の時ね。ヒカル、言っていたよね。あの事故の時、消えたって。それからずっと消えた何かを探してたんだ。ヒカルは。今まで。あなたのことだったのね。」

 

佐為は辛そうに頷きました。

「私もまた共に、時を遡りました。私は、ずっとうまくいかなかったと思っていましたが、考えてみれば違っていました。私は、この時間の中で、ずっと打ちたいと願った塔矢先生とずいぶんたくさんの対局をさせていただいたのですから。そして緒方先生ともです。手ごたえのある対局にいつもわくわくさせて頂きました。

奥方には本当に失礼な態度をとったことお許しください。奥方は私のために随分いろいろ骨を折ってくださったのに。本当に感謝しておりますとも。

あの最後の時に私と打ちたいと仰って下さった、その優しさにも。そのことで私はやっと奥方に許していただけたとそして理解して頂けたととても嬉しかった。あのような温かい対局が出来て。

あかりちゃん、あの時は手伝ってくれてありがとう。

 

ヒカル。人は百年も生きられません。そして幽霊にも寿命はあるのですよ。私は千年幽霊なのです。なのにその寿命をもっと伸ばしたいと足掻き、ヒカルを傷つけた。いえ、あなたを突き落したことではなく、あなたの優しい心を傷つけたこと。

あかりちゃんにいろいろ聞かれてヒカルと打ち合ううちに、私は記憶を戻したのです。私が打ちあっているのがヒカルだと気付いたのです。

私は、その時からずっと恐れていました。もしヒカルが記憶を取り戻したらどうなるかと。私を軽蔑するだろうと。でも一方ではヒカルに思い出してほしかった。あの時を、私を。」

 

「俺は、あの時、逆行する時間の流れの中で、祈っていた。自分が死んで俺の人生を佐為が生きることができるなら、喜んで命を差し出すって。お前の才能は碁打ちの夢だから、碁を打つのは、俺よりもお前がふさわしいって分かっているからだよ。」

 

佐為は厳しい声でヒカルの言葉を遮りました。

 

「いいえ。ヒカル。碁を打つのは何のためですか。私はあなたに、私の存在のすべてをかけて、そんなことを教えたのでしょうか。情けない。碁を打つのに、ふさわしいとか、誰が打つのが正しいとかあるわけがない。そうでしょう?その考え方は、碁を冒涜するものです。

 

強い者だけが碁を打つわけじゃない。楽しみに碁を打つ。自分の力を伸ばしてより優れた碁を打てるようにと頑張る、全ての者がそれぞれに打っている。

もし正しいということがあれば、それぞれがそれぞれのために一生懸命打っている、そのことを認め合うことしかありません。勘違いをしないでください。私と同じ間違いは、たくさんです。

自分が特別だなどと思ってはなりません。もちろん特別の才はあります。それはでも何か別の命を犠牲にして成り立つものではありませんよ。」

 

その場にいた者の心に響く言葉でした。

 

「それよりヒカル、約束してくれませんか。私はあかりちゃんの助けを借りて、この九ヶ月の間、ただひたすら私が逆行してから得た力の全てをあなたに託してきました。あなたもまた逆行してから相当の力を蓄えていましたから、それが出来たのです。ですからこの奇跡をお願いですから繋げてください。

私はあなたの時間を無理に変えた。私とあなたは二人だけ別の時間を生きることになった。あの時のあの先の時間は、今はもうどこにもないのです。元には戻せないのです。昔のあなたに戻ることはない。今が正しい時なのです。

ヒカル。あなたはあかりちゃんと約束したのですよね。プロになると。

私は、もうこのような姿で現れることも話しかけることもできませんが、きっとどこかで、あなたを見守っていられる筈です。

白川先生、緒方先生、塔矢先生、どうかヒカルを手助けしてやってください。碁のことではありません。ヒカルの人生の軌道を、このいまの時間の中でうまく進ませるための手助けをです。

奥方、本当に自分を見失っていたため失礼な態度をとったことをお許しください。九子局、本当に楽しい思い出です。」

 

「佐為。行かないで。」

 

佐為は首を横に振りました。

「ヒカル。人はみんなどこかで必ず別れを経験するものです。ここにいる方々ともです。どちらが先か、年の順とは限りません。だからヒカルは、その当たり前の宿命をどうぞ、耐えて生きてください。

 

ごめんなさい。あなたは優しいから、いつも私がどうすれば満足するか考え、私の過ちは何でも許してくれて。あなたとの時間は楽しかった。わがままできかん気でやんちゃだったあなたが懐かしい。

今はあまりに大人になってしまって、そういうあなたが頼もしくて、眩しい。

あなたをここまで導いてくださった白川先生には本当に頭が下がります。

私がいつも口を酸っぱくしても、ヒカルは少なくも礼儀は全くなっていませんでしたからね。

どうか、私の碁を愛する気持ちを継いでください。あなたなら間違えることはない、誤らないと信じてます。」

 

佐為はそれだけ言うと、少しづつ薄れていきました。

佐為が消えてしまうと、病室には静寂だけが残りました。

 

「佐為の馬鹿野郎。」

ヒカルは、ぼそっと言いました。

その時でした。佐為が空間を裂くように顔を覗かせ、現れました。

 

「ヒカル。私のことを馬鹿野郎ですって。許せませんよ。その暴言。

あっ、失礼。言い忘れたことがあったと言ったら、ちょっとだけ時間がプラスされました。ほんの一分ですが。そうしたらヒカルが、失礼な言葉を。全く。人がいないとすぐこれですからね。

 

あっ、時間が無くなります。そうそう、これが言いたかったんです。

見えなくても話せなくても、私はあなたの傍にいます。ヒカル。みっともない碁を打ったら承知しませんよ。今やあなたは私の碁のすべてなのですから。つまらない碁を打ったら、あなたにとりついて、呪うかもしれませんよ。」

 

「佐為。お前に呪われたって平気だぜ。だって、おまえにとりつかれるのには慣れてるもん。むしろとりついてくれたら嬉しい。」

 

「ヒカルったら本当に減らず口を。でも信じてますよ。あなたを。」

それだけ言うと佐為は、優雅に頭を下げて消えました。いえ、かっこよく消えたように見えました。

しかしよくよく見ると足先だけが残っていて、必死でもがいていました。足袋がバタバタ暴れているのです。

しかたないというように、また時空に少し裂け目ができて、佐為が必死の形相で足を引っ張っている姿が見えました。やっと足を引っ張りこんだ佐為は、ほっとしたように言いました。

「コホン。足がない幽霊なんて全く品がありません。良かったです。足袋が汚れてなくて。」

 

時空が閉じました。今度こそ佐為は、行ってしまったようです。


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