思わぬハプニングに、そこにいた者は思わず、笑ってしまいました。
それから涙ぐんだものです。
「笑って生きて行け」という佐為の心遣いに対してです。
明子は床に落ちているものに気づきました。
「佐為さんの扇子だわ。」
明子は拾おうとしましたがつかめません。ヒカルも手に取ろうとしましたが駄目でした。
幽霊の扇子なのです。
その時、何者かがそれを拾い上げたらしくそれはふわっと持ち上がり、そっと開かれました。
かぐわしい香りがしました。
扇子は、何者かの手で一仰ぎされました。そして、生み出された風のそよぎの先に優雅に時の流れが幻のように描かれたのです。
そこには佐為と子どものヒカルが笑いながら、じゃれあって歩いている姿がありました。
扇子がさらに一振りされると、白川相手に石取りゲームに熱中しているヒカルの姿、それを楽しげに見つめる佐為の姿が現れました。
場面は次々と変化していきます。
「理科室だわ。」あかりがそっと言いました。
三谷と筒井と加賀相手に、三面打ちしているヒカルの姿でした。後ろで佐為がじっとその盤面を見つめていました。
「俺が院生試験を受けるため、大会をすっぽかすことになって、三谷が怒って、加賀が力を見せつけて出て行けって、俺の背中を押してくれたんだ。」
棋院をうろついているヒカルと、そのそばで緒方が事務職員に何か頼んでいる姿でした。
「いきなり院生試験を受けたいって言ったら、推薦する人がいるって、その時緒方先生が通りかかって、推薦してくれたんだ。」
碁会所で、伊角と和谷とヒカルが並んで打っている姿でした。いつもヒカルの傍では佐為がそっと見つめていました。
「プロ試験を受ける修行。三人で団体戦て言って、碁会所で三子置きで打ったりしたんだ。」
懐かしげにヒカルはそれを見つめました。
いくつもの佐為とヒカルのほほえましくもある場面が突然に切り替わりました。
病室でした。明子がヒカルを部屋に招き入れました。
行洋とヒカルは二人きりで何か話していて、佐為は笑っていませんでした。厳しい表情です。
それからヒカルの部屋で、あかりが佐為と九子置で打っていました。その時の佐為は微笑んでいました。
すぐに場面はネット碁を打つヒカルの姿に切り替わりました。
佐為が打つ手を告げるとヒカルはそれを置いていきます。息詰まる時が流れました。
Black has resigned.
White won.
そのネットの場面とともに幻は失せました。扇子はキラキラと輝きながら細かいちりとなり、時空に吸い込まれていきました。
「付き合って下さって、ありがとうございます。皆様に分かち合って頂きたかった。忘れたくなかった。遠い日の思い出です。」微かに声が聞こえました。
「なんて素敵なプレゼントかしら。」明子が潤んだ目で呟きました。
「忘れないよ。佐為。見えなくても、佐為は傍にいるんだ。見ているんだよな。俺には分かるよ。」
佐為との別れのショックが過ぎ、ヒカルの気持が落ち着き、佐為という存在を皆がそれぞれに消化した時、次にみんなの気持が行ったのは、ヒカルのプロ試験の結果でした。
プレーオフになったと知らせてくれたのは、和谷と伊角でした。
合格したのは、一敗の門脇、二敗の越智で、四敗が本田とヒカルの二人ということでした。
「白川先生が椅子対局にしてもらえるように、手配してくれたんだぜ。足もちょっと怪我してるんだろ。ま、頭に異常がなくて本当に良かったな。」
プレーオフはすぐ行われ、十月初めには、合格が決まりました。
その日、ヒカルはあかりの家に行き、報告しました。
「あかり。今までありがとう。お前にはいくら礼を言っても言い足りねえよ。」
「私も佐為さんとああなったのには、訳があったんだね。明子おばさんと二人で毎年一回、佐為会をやろうって言っているの。碁も頑張るよ。私。プロになるとかはないけどね。おばさんとは、ネットで時々打ってるんだよ。」
「そうか。俺も打ってみようかな?おばさんは何て名前にしてるんだ?」
「おばさん、喜ぶよ、きっと。でも名前はねえ。聞いたら笑っちゃうよ。」
「そんな変な名前なのか?」
「変かは分からないよ。おばさんらしいかも。あのね。」
あかりはヒカルにそっと耳打ちしました。
「えっ?kappougi?って、それどういう意味?英語?」
「ヒカルったら、割烹着を知らないの?信じられないよ。」
さて、坂巻は事故のことがずっと気にかかっていました。
アキラを美容院からタクシーに乗せて、帰らせた後、改めて駅に戻ってみましたが、その時には事故の痕跡は何も残っていませんでした。
それでも自分以外に見たものがいるのですから。噂はくすぶっているかもしれません。
彼は本当に何もしていないのか、ただそう見えたというだけなのだろうか。
坂巻が気にしてるアキラは何もやましいことはしていませんでしたし、なぜかその時の記憶が完全に消えていたのです。なぜ自分が髪型を変えたのかすら、分かっていないありさまでした。
このヘアスタイルが碁の振興に役立つんなら、それでいいじゃないか。そう思っていました。
アキラの新手のヘアスタイルは、棋士たちの間で、一時は驚かれはしましたが、きっと若獅子戦で負けたこともあり、心機一転をはかったんじゃないかということで、収まっていました。
なにしろ、ワイルドな髪型でアキラに眼光鋭く迫られると、その迫力に低段の対局者にはビビるものが続出でした。もっともおかっぱ頭で睨まれたほうが迫力はまさっているかもしれませんが。
あの事故にあったのは、誰だったのか、もしかしたら塔矢家ではすでに手を回し、見舞いに行っているのではないか、そう考えた坂巻は、思い余って行洋に尋ねたものでした。
行洋が、名人位も天元と十段の防衛にも成功し、緒方が座間から王座位をもぎ取って二冠になった頃でした。もう12月になろうという時でした。
今なら先生にも迷惑はかかるまい。
かくかく云々、私と二、三人しかそれを見た者はいませんが、先生の家ではそういう話は何も出ていないのですかと坂巻は聞きました。
行洋は驚きました。
そんな話があるのか?アキラは何も言っていなかった。それよりも進藤君自身が何も言っていないではないか。
「アキラのことは今初めて聞いたが。」行洋はそう言っただけでした。
そのことがあってすぐに、行洋はヒカルに、じかに、こういう話を聞いたのだがと、尋ねました。
「進藤君。アキラは君に何もしていないのかね?」
「塔矢ですか?俺、あの時のことはあまり記憶にないんですけど、塔矢が俺の近くにいたっていう記憶は全くないんです。あれはあのおばあさんと俺の間に起こったことで、誰かが悪いということではなくて。大体俺を支えてくれた加賀と筒井さんも、そんな話、してませんでしたよ。あの二人はその時の様子をよく知っているんですから。それに塔矢の顔も知ってるんですよ。」
行洋はほっとした表情でした。
「それに、俺、そんなに塔矢のことは知らないけれど。あいつは少なくも嘘をつくような奴じゃないですよ。それだけは言えるから。あいつが関係はないっていえば、それは本当です。もし噂があるのなら、すぐには消えないかもしれないけど、塔矢はそういうのを跳ね返してまっすぐ進める奴だと思う。きっと塔矢は試練を乗り越えると思う。その坂巻さんっていう人は、気にし過ぎだと思うんですけど。」
「ありがとう。進藤君。」
行洋はそれから言いました。
「それはそれとしてね。私は君に対局の申し込みをしたいのだが、受けてもらえるかね。」
「塔矢先生と?いつものとは違う対局ですか?」
「幽玄の間で、公式戦だよ。棋譜も残る。」
「それって新初段戦ですか?」
「そうだ。だが、私は一柳さんじゃないが、その対局を互先で戦いたいのだよ。どうだろうか。
君は四月からプロとして活動する。その前に、佐為さんとの過去を見つめ直す一局にしてほしいのだが。そして今を生きてほしいのだよ。もう後戻りはできない、この時を前に進むしかない。私が君にしてあげられることは、これ以外には何もない気がするのだよ。
新初段戦は逆コミとして数えられる。だから公式の勝敗はそのように数えられるだろうが。だが、対局者は私たち二人だ。だから、私は、たとえ中押負けでも最後まで投了せずに打ちたいと考えているのだよ。」
佐為へ捧げる一局。俺と塔矢先生が出来る最大のプレゼントかな。
ヒカルは瞑目しました。
ヒカルは思い出していました。逆行前に新初段戦で佐為が打つことになった時のことを。
佐為は、あんなに渇望してたんだから。
また佐為の最後の言葉も聞こえる気がしました。
姿は見えなくなっても傍にはいられる筈だと言ってたよな。無様な碁を打ったら承知しないって。
佐為。打つよ。俺。幽玄の間で打つにふさわしい碁を。
「お受けします。先生、お手合わせよろしくお願いします。」
深く頭を下げて、ヒカルは行洋の申し出を受けました。
行洋がヒカルに互先の新初段戦を申し出たことは、白川と緒方にすぐ伝えられました。
棋院にはもちろん、ただ単に三冠が新初段戦に出ることを了承したと伝えられただけでしたが。
そうか。そういう形で、進藤君を進ませるというのは、さすがに塔矢先生だけのことはある。
私は、彼に何かすることはないけれど。今まで通り、やっていくだけだ。
いつか、進藤君がタイトルを取りに来るまで、タイトルホルダーでありたいけれど。でもあんまり早く、取りに来られるのも困るけど。いやいや、強敵は他にもいる。白川は、ぶんぶんと頭を振りました。
緒方は、畑中がいる研究会に、ヒカルを連れて行きたいと思っていました。
ずっと前に、ヒカルには話していたのですが、いろいろなことが起きたため、延び延びになっていたのです。
「畑中は、小学生の時院生になってそれで俺と知り合いになったんだが、親が関西の方へ転勤になってな。」
あれ、なんだか清春みたいな。でもあいつは院生じゃなかったし、大阪で囲碁に出会ったんだっけ。あいつ、どうしてるかなあ。
ヒカルは思いました。
「畑中は、今、関西総本部の所属だけれど、俺との付き合いはずっと続いていて、東京に来た時には若手の研究会でよく顔合わせをするんだ。まあ、進藤にとっては、若手とは見えんだろうがな。
畑中は、勝利をもぎ取ろうとする力がすごいんだよ。今までに見たことがないタイプかも知れん。まあ、そういう奴もいるというのを体験するのもいいものだよ。予選の為にこっちに出張ると言ってたから、ちょうど良い機会だ。」
それから緒方は言いました。
「進藤。聞いてもいいか?俺はお前が昔、佐為とどう碁を打ってきたのか、やってきたのか、その話を聞きたい。話したくなければ、無理には聞かないがな。」
ヒカルはちょっと考えました。
塔矢先生はああやって俺を進ませようとしてくれる。
白川先生は変わらないペースで、淡々と俺と接してくれている。そうやって俺が今までここでやって来たものを続けさせようとしてくれている。
緒方先生は、ただ知りたいのかもしれない。好奇心で。でも誰か一人ぐらいには話してもいいのかな。俺がまだ忘れていない佐為と俺の物語を。
本当は塔矢と話すのじゃないかと思ってたけれど、なぜだか塔矢と俺は接点がない。なぜなんだろう。明子おばさんとも塔矢先生とも親しいのに。不思議だ。
でもそれが今の時を作っているのなら、俺はただそれに従いたいんだ。無理に俺から何かするのは避けたいんだ。
「うん。俺が覚えてることならね。」
ヒカルは、緒方に、佐為との出会いから、プロになるまでの話を思いつくままに話しました。それから棋譜をいくつか並べて見せました。
緒方は聞きながら思いました。
今の方が、誰もが進み方が早いんじゃないか?
白川などは、一番影響を受けている気がするが。もし、佐為が運命を甘んじて受け入れてたら、その時がただ続いていたら、俺もまだ本因坊になっていないのか。しかも先生は五冠になっていたというのか。
その時の二年間が、今に拡散したのか。進藤と直接関わった人間と幽霊と関わった俺と先生が影響を受けたっていうわけだな。不思議なものだ。
とにもかくにも、あの佐為という幽霊が日本の棋界を思いっきり変えたのは、確かだ。ただし、悪い変わり方ではないな。