神の気まぐれ(ヒカルの碁逆行コメディ)     作:さびる

57 / 58
56.棋譜・IF・疑問符

緒方に塔矢行洋と佐為のネット碁を並べて見せた後、ヒカルは思わず言ったものでした。

「塔矢はなぜあの場にいなかったのだろう。」

緒方は、盤面にやっていた顔をあげました。

「あの時は佐為が出てくるなんて、会えるなんて思ってもいなかった。だから、塔矢がいなかったのも仕方ないと思うけど。でも、塔矢だって佐為を知っているひとりだろ。三か月もの間、毎日佐為と打ち続けていたんだろ。」

逆行前、塔矢は佐為が蘇って、初めてまともに打った相手だったんだ。結局、その後、あいつは、ネットで打ったきりだったけど、ずっと佐為を追い続けていた。

今の時間の中では、塔矢は佐為とたくさん打っている。それなのに、俺と佐為の関わりは知らない。恐らく、俺がその関わりを話しても、あいつは信じないだろう。

ただ、あかりが声だけの佐為を連れて帰って、しばらく俺が打ったという話をしたら、それはそれで信じるだろうが。でも、なぜそうなったのかを、そのわけを話せないのに、信じさせられないのに、それだけを話す気には、絶対になれないよ。

 

緒方はヒカルの言葉を聞いて、しばらく考えていました。

「俺にも分からんが。だが、もしあの場にアキラ君がいたら、佐為があのように現れたとは思えない。

進藤はアキラ君を追いかけて、プロの世界にやってきた。アキラ君も心のどこかで、進藤を待っていたかもしれない。その待っていたのは進藤の姿を借りた佐為だったかもしれんが。しかし、もしそのまま進藤がプロとしてやっていったら。いずれ進藤の力自体は今と変わらんものになったと思うぞ。アキラ君は、結局そういう進藤を待っていたのかもしれん。」

 

それから緒方は煙草を灰皿に押し付けながら言いました。

「だがなあ、それは別の世界の話なのだな。アキラ君にとっては今がすべてだ。その前の世界はあくまで、進藤だけのものなのだ。

なぜあの時佐為が現れたのか。それは佐為と進藤のことを知っても、構わない人間ばかりだったからだと思うのだが。お前の気持を何とかすることは、あそこにいた誰にもできない。だが、それを知っても進藤との関係はそれまでとは何も変わらないでいられる。

 

だが、アキラ君は別だ。アキラ君は恐らく、以前の世界と同じように、今の時間の中でも進藤にとって特別の人間になるかもしれない相手なんじゃないか。それは佐為と進藤の過ぎこし方を知っているかどうかじゃなくて、この先、この世界で、進藤と打ち合う相手になるということのなかにあるんじゃないかな。

 

だから進藤は、今のアキラ君を、対局者としての彼を気にするべきだな。

アキラ君は佐為の存在を知っている。信じきれないにしても三か月も毎日のように、対局してきたんだ。それなりに強くなったぞ。プロに入った頃の、そうだな。伊角に若獅子戦で負けた頃のようなひ弱さはない。進藤にもそのうち迫ってくるだろう。もともと優れた力を持っていたからな。

 

進藤が今考えている謎やためらいは、逆行してやり直した時間のずれが修復されて一つの道になった時に解決する気がするがな。時間はかかるだろうが。」

 

ヒカルは緒方のその言葉に、その時は、素直に頷いたものでした。

塔矢がどの程度の力を持っているのかはわかりませんが、一年早くプロの世界に足を踏み入れて、佐為に三か月も毎日特訓を受け続けてきたのですから。

塔矢だったら相当の力を蓄えているんだろうな。ヒカルは、ただそう考えたのです。

 

それでも、塔矢のこと以外にももうひとつすっきりしないことがある。

佐為のことを思い出し、逆行前の記憶を取り戻しても、それで解決できるものではないもの。佐為との離別の悲しみだけでなく、逆行前の記憶を戻してしまったことが、あきらかに今の生活に影を落としていました。

 

それだけじゃなくて。佐為と二人で過ごした二年半の記憶以外の何か、別の何かが見つけられていない気がする。

それは思い出すということとは別のことの気がするけれど。何かが足りない気がする。何だろう。

 

ヒカルは深いため息をつきました。

これじゃあ、性格も変わるよな。なんか、俺じゃないみたいだよ。逆行前の単純な自分に戻れたらどんなにいいだろう。ただ強くなりたいと思っていた、思っていられたあの頃の自分に。

 

 

さて二日後でした。

ここで、待ち合わせしてたけど。

ヒカルは校門の前で、きょろきょろしました。その時、筒井が小走りにやってくるのが見えました。

 

「進藤君。ごめん。待たせた?」

「ううん。今来たとこだよ。でもきれいな学校だね。」

「築3年っていうのかな。僕が入学した時には、建て替えが完成しててね。でも囲碁部はそんなに人数多くないから、部室は将棋部と一緒なんだよ。私立と違って、都立はそういう枠はなくて。」

「でも部室あるんだ。理科室じゃなくて。」

 

ヒカルは筒井の高校の囲碁部の指導碁に招かれたのでした。

ヒカルが入っていくと、そこには、加賀もいました。

 

「あれ?加賀もいるの?」

「居て悪いか。ここは将棋部の部室だ。囲碁部が間借りしてるだけだ。」

「将棋部が七人?囲碁部は六人?たいして違わなくない?」

 

筒井が苦笑して言いました。

「今日はね。進藤君が指導碁に来てくれるっていうんで、三年生がいてくれてるから。囲碁部は、フルメンバーなんだよ。これで。」

 

その時、落ち着いた感じの高校生が声をかけました。

「君が今度プロになるっていう?」

「あ、はい。筒井さんの中学の後輩の進藤って言います。今日はよろしくお願いします。」

すぐ横にいた少し皮肉な目をした少年が言いました。

「確かプレーオフでぎりぎりプロに受かったんだってね。四敗で。運がいいんだ。その運をもらって受験がんばろうと思ってね。もしかして、院生一位ですとかいうのかな。」

 

ヒカルはその少年をじっくり見ました。

元院生?プロをあきらめた、いや諦めきれてないのかな?岸本さんとは全然感じが違うな。

筒井は困ったような顔をしました。

ヒカルは心の中で苦笑しながら、落ち着いて答えました。

「俺、学校の成績は悪いから。大学の受験には俺の運は、全然役立ないから。でも碁の手伝いなら少しはできるかと思ってます。ですから今日はどうぞよろしく。」

 

「で、院生何位だったの?」その少年はしつこく聞きました。

「院生にはなったことがないっていうのかな。」ヒカルは胸の痛みを感じながら答えました。

筒井が、ますます困ったようにフォローしました。

「進藤君は碁を始めてから三年半ぐらいなんで、たぶん院生になる暇がなかったというか。そんな感じだよね。」

最後の部分はヒカルに向って言いました。

 

「三年半?!嘘つけ。」筒井の言葉はフォローではなくて刺激だったようです。

ヒカルはその声に反論はしませんでした。できませんでした。こういう時、何となく引け目を感じちゃうんだよな。

「筒井さん。時間が無くなっちゃわない?」ヒカルは、ただそう言いました。

 

その言葉に初めに声をかけてきた三年生が言いました。

「そうだね。せっかくプロになる人が来てくれたんだから。時間を無駄にしたらもったいないよね。」

そういうと、部員を紹介してくれました。

その人が一学期で引退した前部長の山口。隣で拗ねているのが同じく三年生の原田。三年生はその二人でした。後は二年生が一人、一年生が三人。

 

「役職は実力順じゃないんだ。原田は、個人で、高校生本因坊になったこともある我が部きっての実力者なんだ。」

テーブルには、碁盤が六つ置かれていました。原田はそれを見ながら言いました。

「まだプロには、なっていない奴に六人はきついんじゃないか。」

 

それを横で聞くともなく聞いていた加賀が言いました。

「お前。自分が特別だなどと、こんな高校の部室で威張ってても仕方ないぜ。だったら力を見せつけてやりゃあ、いいじゃないか。進藤に思い知らせてやれば。」

「俺は五人でも六人でも構いませんけれど。皆さんの棋力を知らないから、置き石は自分で好きに置いて下さい。」

加賀の言葉に刺激されたのか、原田も席についていました。置き石なしで。

ふーん。みんな結構気張ってるかな。

ここで分かっているのは筒井さんの棋力ぐらいだけれど。高校選手権の棋譜は前に見せてもらったことあるからな。原田のも見てるかな。俺が院生か、わからないというのは、恐らく岸本さんみたいに中学の頃やめたんだろうな。

 

六人相手の指導碁は、実にスムーズに進みました。

どいつも腕前は大体予想通りだな。でもこの原田は思ったほどじゃないなあ。

「ありません。」原田は歯ぎしりするように言いました。

ヒカルはにっこりしました。

「原田さんはこのメンバーの中では断トツですね。さすがですよ。」

そう言いながら一人一人に、丁寧にアドバイスをしました。

 

「進藤、また腕をあげてるな。」

ヒカルが帰る支度をしていると、対局を眺めていた加賀が言いました。

「そりゃあ、すぐにプロの手合いは始まるしさ、その前に新初段戦もあるしね。毎日それなりに頑張ってるさ。」

「ふん。それもこれも俺のおかげだぞ。」加賀が偉そうに口を挟みました。

 

「分かってるよ。家に挨拶に行ったじゃないか。お菓子持ってさ。それに加賀だけじゃないもん。筒井さんのおかげでもあるからね。」

「あのお菓子、美味しかったよ。妹なんか喜んじゃって。でも本当によかったね。ケガが大したことなくて、それにプロ試験も。」筒井が言いました。

「うん。運が良かったよ。ま、来年また受けてもいいけどさ。でもまた何があるかわかんないものね。」

 

その時、原田が来て、ぼそっと言いました。先ほどのような元気はありませんでした。

「プロになっても厳しいぜ。塔矢アキラがいる。あいつには絶対に勝てないよ。あいつはとてつもなく強いんだから。塔矢アキラには運なんて効かないからな。」

ヒカルは、その原田の言葉に、にこっとしました。

「原田さんは塔矢と打ったことはあるのですか?」

原田はうろたえたように言いました。

「ないよ。でも俺の院生仲間がそう言っていたから。」

「そうですか。俺、塔矢とは今まで一度も打ったことがないんだけど。でも今の話を聞いて、あいつと打つのが楽しみになった。勝ち負けはともかく強い相手と打ち合うのは、わくわくするもの。」

 

そう言ってから、プロなんだからと神妙にあいさつしました。

「今日は高校の雰囲気を少し味わわせてもらって、ありがとうございました。また機会があったら、呼んで下さい。」

ヒカルはそれ以上は余計な口を利かずに、高校を後にしました。

 

 

ヒカルが帰った後、山口は苦り切った顔をしました。

「原田。せっかく来てくれたのにあんなに当たることはないだろ。僕は楽しかったよ。進藤君の指導碁は。あのアドバイスもすごく胸にすとんときたし、やっぱりプロなんだと思ったな。筒井君はいい後輩を持ってるよね。」

筒井は、嬉しそうに言いました。

「はい。進藤君には、これからも指導碁に来てもらえるように頼んでみるつもりです。」

 

 

電車のドアにもたれるように、外を眺めながらヒカルは考えていました。

あの原田っていうやつ。昔の俺ならぶち切れて、徹底的に打ちのめしていたよな。

今はプロとしての自覚があるから?

いいや。そうじゃない。言い返せなかったのは。逆行の記憶と今の生活に折り合いがつけられていないからだ。

 

塔矢先生は言ったけど。今を生きてほしいのだよ。もう後戻りはできない、この時を前に進むしかない、って。

でも俺、できるのだろうか。そんな風に。

いや、とりあえず、もろもろのことは忘れて、新初段戦に向けて全力を尽くそう。

佐為との過去を見つめ直す一局になるかは分かんないけど。やるっきゃないものな。

碁を打つ時だけはいろんなことを忘れていられるから。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。