白川が棋聖の防衛戦を関西棋院の古参の石橋九段相手に始めたのは、一月の初旬でした。
二月の初めに、門脇・桑原の新初段戦、続いて越智・緒方の新初段戦がありました。ヒカルの新初段戦は三月一日(何気に佐為の日?)に決まりました。
二月下旬の第六戦で白川は無事棋聖の防衛を果たしました。
同僚の棋士は、石橋九段に言ったものです。
「本当に。一柳さんだったら良かったのに。あんな若造が棋聖などとは。目新しさとあざとさで碁を打つんですからな。」
それから全く正反対のことも言いました。
「今度、有望な新人が入ってくるから、関西棋院は大暴れや。ここががんばりどころ。そいつが若手の有望株とかいう塔矢アキラを伸してくれますわ。石橋さんも、もう一度タイトル挑戦や。本当に惜しいところだった。東京の若僧なんかに負けていられませんわ。」
それを漏れ聞いて、白川は少しため息をつきました。
関西がどうとか、東京がどうとか、年齢がどうとか…。そんな内向きなことばかり言っている場合ではないのに。進藤君はこういう意識をどうやってさばいて、新しい時代を切り開いていくだろうか。
進藤君が、がんばる前に、緒方さんとか私たちの世代が少し風よけになるということかな。こんなことを考えるとは、私も若くないということかも。
白川は30手前ではありましたが、棋士としては若造どころか古株になりつつあるのかもしれません。
一方の石橋九段の方は、息巻く相手に、少し苦笑しながら言いました。
「見苦しい言い訳ですよ。それは。結果は結果でしょうが。残念ながら私は完敗を喫したと思ってますわ。素直にうなずける結果でしょうな。今回の戦いは。実力の差です。白川さんというのは、素晴らしい棋士ですよ。この年になって、私は勉強をさせてもらったと思ってますよ。」
さて塔矢行洋がヒカルに新初段戦を互先でと申し入れた話は、一柳と桑原には、なぜか伝わっていました。
記録係と読み上げは、伊角と和谷が担当になり、見届け人には、一柳が名乗りをあげました。
当日、モニタールームには、早々と緒方と桑原が居ました。
緒方にとって幸いなことに、二人の舌戦が繰り広げられる前に、越智と門脇と白川が入ってきました。門脇は早速、桑原に挨拶しました。
「新初段戦ではお手合わせありがとうございました。次は、ハンデなしの手合いで、先生の胸をお借りします。」
門脇は新初段戦で桑原に勝ったのでした。
緒方はほくそ笑みました。
今年も新初段戦からつまづくとは、じじいも幸先が悪そうだな。
「桑原先生もそろそろ後進に道を譲ることを考えておられるのですか。囲碁界の未来は明るくなりますよ。」
桑原はじろっと、緒方を見ましたがスルーしました。
「白川君。今日は小僧は張り切っとるんだろうな。」
「はい。新初段戦とはいえ、塔矢名人と幽玄の間で対局できるというのは、良い経験ですから。」
白川は、おっとりと言いました。
さて、何も知らないのは事務方だけでした。
今まで塔矢行洋は、新初段戦を避けてきたのは確かだが。それでもたかが新初段戦じゃないか。なぜ、一柳さんのようなトップ棋士が出張る必要があるんだ?
出版部の古瀬村が、みんなの疑問を代弁しました。
「それほど塔矢行洋は偉大なのですかねえ。でも最近三冠になっちゃったじゃないですか。」
「そりゃ偉大だよ。相手の子にはまたとない名誉だろう。三冠の相手など早々はできないだろうからね。」
これだから、若いのは。と、そういう顔で、坂巻は言いました。
「どういう子でしたっけ。新初段の子って。」
「四敗でプレーオフで、合格にひっかっかた子だそうですよ。中二だそうだから。そうすると塔矢アキラと同い年か。越智君に去年の和谷君。このところ中学生の入段が増えてきましたね。」
「へえー。でも名人だったらそんな子より、一位の門脇君とかの組み合わせで打ってほしかったですねえ。」
ヒカルは幽玄の間で、ゆっくり深呼吸をしました。それから行洋に頭を下げました。
「よろしくお願いします。」
「私も名人の名に恥じぬ対局をするよ。」
「はい。覚悟はできています。」
事情を知らないものが聞けば、何やら不思議な挨拶でしょう。
ヒカルは第一手を置きました。さして時間をかけるでなく、名人はすぐに手を返してきました。
幽玄の間の空気は厳しい研ぎ澄まされた雰囲気に満たされました。
序盤からやけに激しい碁だな。進藤、気合入れ過ぎだ。伊角と和谷は盤面に目をやりながらそう思っていました。
「ちょっと幽玄の間に行ってみますよ。」
古瀬村は、そう言って腰をあげました。それから何気なく聞いたのです。
「そういえば、進藤君って、誰に負けたのか、知ってます?四敗っていうと、門脇君と越智君、それに本田君あたりかな?」
それに答えるように、プロ試験の結果をチェックしていた者が言いました。
「えっっと、ちょっと調べてみたんですけど、この子、最後の四戦を不戦敗してますよ。門脇君の一敗は、この子とのもの、あと越智君にも勝ってますね。何なんでしょうね。この子。ふざけてるのと違いますか?」
「不戦敗をするようなふざけた子がプロですか?」
その話を聞きながら、坂巻は苦い顔をしていました。
プロ試験をさぼるって、一体どんな子なんだ。対局が終わったら、一言きちんと注意をしないと、囲碁界の未来が暗くなる。礼儀を教えんと。全く同い年でも塔矢アキラとは大違いだ。名人もとんだ子どもと対局することになったものだ。
その時、古瀬村の横にいた男が言いました。
「そういや、思い出したけど、前に駅で事故があったでしょう。階段からおばあさんが突き飛ばされたっていう事故ですよ。あの時、確か巻き込まれたのがこの子じゃなかったですか。それで、入院したとかで。白川先生が、届け出をされてたのを思い出しましたけど、それがこの子だったんですね。」
「白川先生が?」
「ええ、白川先生が弟子だって言ってました。そうか。それで最後の四局、打てなかったんですね。門脇君にも越智君にも、勝ってますからね。それまで全勝、全部中押し勝ちですよ。」
「へえ。案外強いんだ。どんな碁打ってるのか見てきますよ。」古瀬村は、事務室を出て行きました。
坂巻は、それ以上話を聞いていませんでした。
ということは、この進藤っていう子が例の事故で入院したってことか。
塔矢先生が、新初段戦の相手にこの子を指名したという。それは息子のことと関係あるのか。事故にあうまで全勝ってことは、まさか塔矢アキラは進藤ヒカルを知ってるのだろうか。とすると…。いや。
坂巻はその時、決心しました。もうあのことは忘れよう。私には関わりの無いことだ。なんて言っても名実ともに、棋界のスターは塔矢アキラなんだから。
「今、モニタールームには、門脇君と越智君以外に誰がいるのかな?」天野が誰にともなく聞きました。
「確か白川二冠がいる筈ですよ。愛弟子のデビューでしょうから。」
その声を聞いて、天野はモニタールームへ向かいました。何となく胸騒ぎのする坂巻が後をついて行きました。
モニタールームのドアを開けて、天野は驚きました。
緒方さんはともかく、何で桑原先生がいるのだ?
「やあ、天野さん。坂巻さん。まあ、そこに座りたまえ。立っていられると、気が散るでの。」
桑原に言われて、天野は、「はあ」と言い、座りました。坂巻もその隣に座りました。
「桑原先生は進藤君を知っていらっしゃるのですか?」天野は聞きました。
「まあな。シックスセンスとでも言ってもらおうかね。」
「桑原先生のシックスセンスは当てにはなりませんよ。」緒方です。
「本因坊位、すぐに取り返して進ぜよう。」
「はあ? 私は進藤たち新しい波の方が手ごわいから、桑原先生の存在をすっかり忘れてましたが。」
「緒方君。どうだ。賭けをせんかね。」
「進藤の勝は決まってるでしょう。逆コミなんですから。」
「いや、そうではなく、あの二人が考えている勝負の勝ち負けをじゃよ。」
「そうですね。普段、進藤は先生に勝つことは、ありますけどね。でも真剣勝負は、公式戦は初めてですよ。彼は。」
天野が驚いて言いました。
「二人が考えている勝負っていうのは何なのですか? それより、進藤君は白川先生のお弟子さんと伺ってますが、塔矢先生ともそんなに打ってるのですか? っていうより、塔矢先生に勝ったことがあるって?本当ですか。」
白川は苦笑しました。
「天野さん。門下がどうのという言葉は塔矢先生のような方には、何の意味も持たないんですよ。それに私たちの世代以降は、門下だけでなく、棋士同士の横のつながりの意味も大きいんですよ。さらに、進藤君たちの世代は、ちんまりと仲間内で閉じこもったりしないのです。碁を打てるならどこででも誰とでも打つのですよ。」
桑原が言いました。
「進藤という小僧は特に特別じゃな。」
「そうですね。私が個人指導をしたからと言って、門下とか思ってはいませんし。緒方さんも彼をいろいろな棋士に引き合わせてくれてますから。感謝してますよ。」
聞いていた門脇が言いました。
「進藤君は中国の棋士とも親しいんですね。プロ試験に四敗したって分かった時、随分問い合わせが来たんですよ。事故で不戦敗になったことを伝えたんです。そういや、ホンスヨン君も心配してたな。彼もプロになれたらしいから。」
天野は頭がグルグルしてきました。しかし、それ以上にぐるぐるしていたのは、坂巻かもしれません。
二人同時の疑問形でした。
「どういうことですか?」
白川が答えました。
「進藤君は、中国棋院で武者修行体験をしてきたことがあるんです。二週間ほどのことですが。去年プロになった伊角君たちと。それにあちらの棋士たちとは、ネット碁でもよく打ち合っていますから。」
「スヨン君は、韓国の研究生なんですが、夏にちょっと碁会所で手合せしたんですよ。もちろん、進藤君の勝ですが。」門脇が付け加えました。
「門脇さんて、進藤と親しいんだ。」越智が言いました。
「いや、彼の噂を聞いて、プロ試験の前にずいぶん手合わせしてもらったんだよ。」
「噂?」天野が飛びつきました。
その時です。
「どうやら、勝敗が見えてきたのう。」桑原が言いました。
天野は、モニターに映し出されている、まだ半分も埋まらない碁盤を眺めました。
「細かい碁ですね。でも進藤君にも、もう見えてますね。」白川が答えました。
「それにしても、塔矢行洋、渾身の碁。小僧はよくもまあ、そこまで受け止めたものだ。普段勝つことがあるというのも頷ける話だ。」
「進藤はこれで、また強くなったな。あいつはそうやって強くなっていくタイプなんだ。」
緒方が誰にともなく言いました。
さて幽玄の間です。盤面はかなり埋め尽くされてきました。
ヒカルはふっと息をつきました。
ここまでか。
ヒカルは、そう思いながらも、もう一度盤面を見つめました。
佐為、俺の力ではここまでだけどさ。でも無様な碁じゃあ、ないだろ。俺の精いっぱいの碁だよ。
お前、見てくれてるんだよな。これを。
「ありません。ありがとうございました。」
ヒカルはそう言うと、一手、黒石を置きました。
和谷と伊角は顔を見合わせて、頷きあいました。
だって逆コミだからな。それで中押し勝ってことになるんだな。
一柳がそれを見て言いました。
「五目半だね。それにしても、進藤君。強くなったね。あの時の進藤君とは大違いだよ。まあ、あれから一年は経っているからねえ。若い子の一年は本当に違うものだね。」
「そうですよ。進藤君は本当に進境著しい。おかげで、実に興味深い一局を打てたよ。ありがとう。」
「興味深いというより、薄氷を踏んだんじゃないかね。名人は。」
いつの間にか来ていた桑原が言いました。
行洋は満足気に言いました。
「実に打ち応えのある碁だったよ。」
「検討をお願いしたいんですが。」天野は手帳を取り出しながら言いました。
検討も終わり、みんなが帰り支度をはじめ、ヒカルも帰ろうとしたとき、天野が聞きました。
「進藤君は塔矢先生や緒方先生と親しいのだったら、塔矢アキラ君とも親しいのかい?」
割り込むように緒方が言いました。
「天野さん。進藤と塔矢アキラを比較するようなことはしないで下さいよ。アキラ君はアキラ君ですから。進藤がプロとしてやっていけば、いずれアキラ君とは対局することになるでしょうしね。その時を待ってて下さいませんかね。」
それから一息置いて、さらに付け加えました。
「そうそう、進藤に進藤のことを聞くのは構わないけれど。進藤がらみでアキラ君に、いろいろな話をふるのは、くれぐれも控えて下さいませんかね。彼の碁を邪魔しないように。そうでなくてもアキラ君は雑音が多い中にいますからね。」
天野は分かったような分からないような顔をしました。
それを横で聞いていた坂巻は、事務室に帰り着いた時、天野を捕まえて、念を押すように言いました。
「塔矢アキラには何かいろいろ聞くのはやめて下さいよ。天野さん。緒方先生の言う通りですよ。いいですか。絶対にやめて下さいね。」
天野は、成り行きで、坂巻に約束してしまいましたが、訝しく思いました。
どういうことなのだろう。塔矢アキラにライバルができたら、話題になるだろうに。いや、進藤君の実力は実際どれほどなんだろうか。
緒方先生は弟弟子を気遣ったのだろうが。坂巻さんは、塔矢アキラがらみで何かあったのかな。
こうなると、ますます知りたいじゃないか。
そうだ。進藤君には、聞いてもいいらしいから、彼に聞いてみるか。いや、絶対聞くぞ。
今日の対局のことも塔矢アキラのことも。知りたいことはすべて。
天野は、久々に記者魂がうずくのを感じました。