明子夫人からの電話に、緒方は考え込みました。
何の相談だろうか。普通に家においで下さいなら、まだしも。
緒方は、明子夫人というのは塔矢行洋のような男にとっては実に得難い女性だと思っていました。
碁に関するワガママは許す、 “いつも一緒”を求めない 、女の心理の理解を求めない、一ヶ月半、いや十年以上会話なしでも我慢する、それができる女性だ。
もちろん、塔矢行洋は妻の条件として、そういうことを言ったことはないでしょう。
そもそも、そういう条件すら思い浮かべたことはないでしょう。
あの明子夫人なら言いそうだな。
「あら、塔矢行洋だからできるのよ、他の男にはそんなことできるわけないでしょ」と。
そう、確か見合い相手の明子夫人が先生に惚れて結婚したと聞いている。先生がではなく。
もしかして何かその生活に亀裂が入るようなことが起きたのか?
俺は知らんぞ。先生の大人な私生活など。
俺には関係ない。なんで俺を呼ぶんだ?
疑心暗鬼で、約束の時間に、駅前の喫茶“クラクラ”に行くと、すでに明子夫人は来ていました。
「遅くなりました。」
「いえ、いいのよ。まだお約束の時間より“三分”早いわ。」
緒方が椅子に座る間もなく、明子は単刀直入に尋ねたのです。
「緒方さん、あの碁盤、どういう謂れのあるものですの?」
緒方は「煙草を吸っていいですか」と、聞こうとしていた時に、ずばりと言われて、ポケットに入れた手を止めました。
明子夫人は、一見おっとりとした女性だ。だが、決してボーっとしている人間ではない。
むしろ逆だ。後援会のこと、碁会所のこと、門下生のこと、どれをとっても、すべて面倒はうまくやり過ごし、そつなくおっとりとふるまえる女性なのだ。
そういう女性がズバッと、尋ねてくるというのは、極めて危険だ。
俺は関係ない、運んだだけだ。芦原のせいなのだから。
そこで緒方は碁盤の由来を話しました。
「…というわけで、烏帽子を被った幽霊が出るっていうのですが、でもあくまでそういう風聞がついてるだけで、誰も見たものなどいないのですよ。」
「そう、分かりました。緒方さんこれからお時間あるかしら。ちょっと、家へ来てくださいます?」
緒方はそれを聞いて頷きました。
「ええ、今日は空いてますから。車できてますから。」
引き取れますよ。緒方はその最後の台詞は言いませんでした。
自分から言うことはあるまい。
明子を乗せて、運転しながら緒方は思っていました。
まあ、信じなくても、気味悪がるということはある。芦原に引き取らせるつもりかな。
それもしかたない。芦原も邪魔なら売っちまえばいいじゃないか。
明子の方は全然別のことを考えていました。
この調子じゃあ、緒方君も幽霊を信じやしないわね。幽霊が見えるなんて言ってもろくなことにならないわ。あの幽霊、碁盤に執着してるのだし、うん、取りあえず試す価値はあるわね。
家に着き、座敷に通すと、明子は、緒方に言いました。
本当は幽霊に聞こえるようにです。
「緒方さん、私に碁を教えて下さらないかしら。私、ちょっと碁を打ってみたいのよね。」
緒方は思いがけない言葉に仰天しました。
「はあ、構いませんが。」
何とも間の抜けた声を出してしまいました。
確か明子夫人は碁を打たなかったはず。
もちろん結婚してから今まで暇はあっただろうし、アキラ君が碁を打ち始めるのを見てるだろうし、少しは打てるかもしれないが。
でも碁を教えてもらうなら、夫に頼めばいいじゃないか。
夫じゃ敷居が高いのか?なら、アキラ君に頼んだらどうなのだ。
息子が母親に教える、なんだか微笑ましい風景ではないか…。
何で俺なのだ。俺は何にも関係ないのに。
その間に明子は隣の部屋に行き、碁盤の包みを軽くたたき、囁きました。
「碁を打たせてあげるわ。」
幽霊さんが碁を打てなかったら。まあ、それはそれでいいわ。
佐為はといえば、明子夫人の言葉に、欣喜雀躍いたしました。
遂にその時がやって来たのです。
「はい、対局致しますとも。確か、この男とはいつぞや、どこかで打ちたいと思った気がしますよ。
虎次郎の頃の強豪と同じような気が漂っています。」
幽霊がついてくるのを確かめ、明子は碁盤の前に座わりました。
「この碁盤でお願いしますね。」
「ええと、何から始めましょうか。」
「とりあえず、私の棋力を見ていただける?置石なしで。私が黒で。」
塔矢明子、一世一代の賭でした。
明子は碁は一度も打ったことはありませんが、打たなくても、その程度の知識はありました。
俺は八段なんですけど。いや、まあいいか。
緒方はそう思いながら言いました。
「では、「よろしくお願いします。」」
明子は、碁石や碁盤と無縁で15年を生きてきたわけではないですが。
「私、ちょっと打つの遅いけど、ごめんなさいね。」
明子は、とにかく親指と人差し指で黒石をつまむと、佐為が扇子の先で示した箇所に何とか、コトリと石を置きました。
わあぁ、思い切り初心者の手つきだな。
緒方は、しかし、打ち合い始めているうちに感じました。
手つきは拙いが石の筋はしっかりしているな…。
いや、それどころか、俺の打ち込みにも動じない、っていうか…軽やかにかわしていく。
しばらくして緒方は投了しました。
愕然としながら、緒方は言いました。
「塔矢先生に習われているのですか。いやいや、習うといえば俺の方が長い…。このままプロでリーグ戦に出れますよ…。」
そこで、明子は、おもむろに言いました。
「こうでもしなければ信じないと思ったからよ。当然ですけど、私、対局なんて一度もしたことありませんのよ。実はこれは幽霊さんとの対局なんですのよ。ここにいるのよね。今。烏帽子を被って。」
烏帽子を被った幽霊が実在していて、碁打ちだったというのか?
目の前で、この対局という事実を突きつけられても、俺はまだ信じきれない。
緒方は明子が指さす方向に目を凝らしました。
佐為は澄まして、誇らしげにしておりましたが、でも緒方には、やはり見えません。
「もう一局よろしいでしょうか。」
というわけで、もう一局打ってみました。間違いなく、名人級の打ち手です。
緒方は、とにもかくにも事実を受け入れないわけにはいきませんでした。
「あのー、これから私の時間が空いている時に、対局をお願いできないでしょうか。」
緒方のお願いに佐為は力を込めて首を縦に振りました。
「そうね。ちょっとこちらへ。」
明子は緒方を名人の書斎に呼びました。ここなら佐為はやって来れないし、話声も漏れませんから。
幽霊さんには、聞かれたくないですものね。
そこで、明子は訳を話しました。
夫が、幽霊のことは気にも留めないこと。アキラに話すなと言われたこと。芦原に話すと、アキラに筒抜けになるだろうから、言わないでほしいこと。
それと、幽霊は碁盤からあまり離れられないこと。
「幽霊さんはここまでは来れないのよ。何か喋ってるみたいだけれど、私は見えるだけで聞こえないの。
だけど幽霊さんは人の話をばっちり聞いてるのよね。」
それから明子は尋ねました。
「それで、あの幽霊さんは、一体どれくらい強いのですの?」
「先生と、どっこいなのではと。」
それから、時間があると、緒方は塔矢邸に、足繁く通うようになったのです。
佐為も少し落ち着いて、明子にちょっかいを出すことは、あまりしなくなりました。
ですが、これでやれやれうまくいった、万々歳というわけにはまいりませんでした。
一つには佐為が緒方との対局だけで満足するはずがないのですから。