緒方が、塔矢行洋がいない時に限って、塔矢家に足繁く出向くようになったのに、最初に気付いたのは、行洋でもアキラでもなく、芦原でした。
緒方さんは、先生がいない時に限って、先生の家に入り浸っている。なぜ?まさか…。
緒方さんは、明子夫人とは10歳ぐらい年下じゃなかったかな。
でも今は年の差婚も結構流行っていないこともない…。
先生に言った方がいいのか。いや、緒方さんにまず言うべきか…。そうなると碁盤のことを…。
「先生に言うべきか…」
「芦原君、私に何を言うのかね。」
自分の妻には、「そうか」しか言わなくても、弟子の様子には敏感な師匠なのでした。
聞かれた? 僕、もしかして声に出して言ってはいけない日本語を言っちゃったのかな。
彼は、気の良い口の軽い青年でした。
これこれ云々なんです…。
塔矢名人は、その話に、驚きました。彼も碁以外で驚くことがあるのです。
何? 妻と緒方君が?
“そうか。そうだったのか。”
緒方君は明子のような女性が好みなのか。
こういう時、どうすべきなのか、行洋には全く思い浮かびませんでした。
その日、名人は家に戻って、妻の顔をつくづく眺めましたが、いつもの通りで、何の変化も見られません。
最も妻に変化が見られても、行洋には分からなかったでしょう。
その数日後、午後の会合が流れて、行洋は早くに家に戻ってきました。
その時は、芦原の言ったことなど、すっかり忘れていました。
玄関の鍵を開けながら、行洋は気づきました。
緒方の靴に目が行ったのです。
それが緒方の靴かどうかなどは、行洋には分かりませんでしたが、来客があるくらいは分かりました。
座敷に入ると、妻と緒方が碁盤を挟んで座っていました。
それは行洋にとって、結婚以来初めてといっていい衝撃でした。
不倫など、どうということはない…。が、しかしこれは、まさに悪夢だ。
そうだとしてもですが。行洋は、何よりもまず碁盤に目を向けたのです。
そして、それがすべてでした。
「美しい一局だ。」
悔しいことだ。なぜ対局者が私ではないのだろうか。
その声に、緒方と明子は、顔をあげました。
明子は碁盤を見ている夫の真剣な眼差しに胸が弾む思いでした。
自分を見ているわけではないのにです。
緒方は、ひそやかな楽しみが終わったことが少し残念でした。
幽霊との対局は、俺の力を確実に伸ばしてきたのだ。師匠を超えるチャンスだったのに。
でもだ。幽霊とは話ができない。ゆえに検討ができない。
しかし、先生とは検討ができる。
損得勘定で行けば、こちらの方が得だ。
「お二人とも、こちらへ来てくださいね。」
明子は、取りあえず、行洋の書斎へ、二人を連れて行きました。
いろいろ算段があっても、幽霊さんには絶対話を聞かせたくない。
それは明子の意地でした。
明子がお茶を用意しに行っている間に、緒方が、これまでのいきさつをかくかく云々と説明しておりました。
「明子は、なぜ私に言わなかったのだ。」
塔矢行洋、結婚以来の、長いセリフでしょうか。
だってあなたは幽霊を信じないでしょう。それに。
ここまでは口に出しませんでした。無用な軋轢を避ける何事にも賢明な明子なのです。
「アキラさんには内緒でしょ。ですからとりあえず、緒方さんと対局させてみたのよ。あの幽霊さん、本当に碁が打てるか試してみたかったし。緒方さんによると思った以上に強いそうなのよ。」
行洋は頷きました。
緒方君の実力は分かっている。
だから、さっき見た盤面でおおよそ想像はつく。
魅力的な打ち手だ。
「私とも打ってくれるだろうか。」
「打ちたがるでしょうね。」
幽霊さんのおかげで、会話が成り立っている気がするわ。
明子の感想でした。
明子は緒方に頼んで、碁盤の包みを書斎の隣の納戸に運んでもらいました。
ここなら、私の生活範囲から可能な限り遠くなるわ。
碁盤は風呂敷を解かれることはありませんでした。
明子が、風呂敷をほどくことを頑として認めなかったからです。
そして明子の意見は何より尊重されました。
なぜなら、幽霊が示す場所を見れるのは明子だけです。
明子がいなければ、対局は成り立たないのですから。
もしも幽霊さんの力が増して、ところ構わず、歩き回ったらいやですもの。
だから風呂敷を外すのは、絶対だめよ。
佐為は包みをほどいてもらえなくても取りあえず、文句は言いませんでした。
もっとも文句を言っても、誰にも聞いてもらえませんが。
何といっても、これからこの者としょっちゅう対局ができるのですよ。
一回きりで消えるなんてことなくです。
私は正しかったのです。
明日から、私の時代が始まるのです。
新しい夜明けです。