明子にとって幸いなことに、行洋も緒方もトップ棋士としてそれぞれに忙しい身でした。
二人の相手をして石を置くといっても、週に二回もあればいい方です。
行洋は、夜中に対局をしたいと思ったのですが、それは明子が頑として断りました。
夜更かしをしたら、朝早く起きれないし、そうすると、アキラさんのお弁当も作れないわ。
それでも明子にとっては、これは新しい生活の始まりでした。
何しろ、結婚してから今まで、夫の一番である碁に触れることなどなかったことでしたから。
例え佐為の指し示す場所に石を置くだけであっても、夫と碁を通して対峙しているのです。
夫が人差し指と中指で、ぴしっと碁石を打ちつける様子に刺激されて、明子は、ひそかに人差し指と中指で石をつまんで置く練習を始めました。
佐為には知られないようにです。
明子には何と言っても佐為に対する意地がありました。
最初の悪印象が抜けなかったからでした。
私の存在を無視して、シカトして、夫とアキラさんにだけ接触しようとしたのよ。
佐為の方は明子が何をしているかなど、実際気にしておりませんでした。
行洋と緒方というトップ棋士と対局できる日々が嬉しかったからです。
佐為にとっても週二回ぐらいのペースが、今のところ最適でした。
虎次郎やヒカルといた時と違い、誰にも憑かずに幽霊として、対局をするのは、実にエネルギーを消耗させるものでした。
碁盤でゆっくりと休んで回復させねば、体が持ちませんよ。
もっと長時間対局できるように、少しづつ鍛練を続けましょう。
明子には、特別の碁の才とか勘は備わっていないかもしれません。
それでも、毎回、当代きっての碁打ちの真剣勝負を、碁石を置くことを通して、体験しているのです。
そのうちに、何となく、それぞれの癖というか特徴のようなものを感じる様になってきました。
じっくり対局の様子を観察する余裕すら出てきました。
緒方君が一番分かりやすいのよね。
いい手が置けたと思うとすぐそういう顔をするし、やられると顔色が変わるし、本当に見ていて面白いわ。
夫は分からないわね。幽霊さんと同じ。どう思っているか分からないのよ。
知りたくなっちゃうわね。そこに石を置く意味を、何となくね。
私だったらどこに打ちたいと思うかしらなんてね。
「ここに置いたらいけませんの?」
ある日明子はとうとう口に出してしまいました。
その返事は長いセリフでした。
「明子は碁は打たなくていい。石を置くだけでいいから。」
明子には当然予測できた言葉でした。
ただその時、明子の横にいた佐為が激しく頷いて、それに同意を示したのです。
まあ、この幽霊さんは。夫が言うのは許せるわ。
でも幽霊さん、あなたって一体なんなのよ。その顔。
「そうです。あなたはただ私の指示通りに石を置けばいいのです。」っていう表情ね。
許せないわ。あなたなんて、私がいなければ、夫とは打てないのよ。
明子はひどく憤慨しておりました。
夫にではありません。佐為に対してです。
今、明子は自分でも碁を打ってみたいという気持を抱いているのです。
最高の棋譜並べを、臨場感溢れるそれを体験し続けてきたのです。
それは至高の碁を目指すとかそんなものではありません。
ただ碁って自分で打つとどんなものなのか知りたいわという素朴な普通の気持なのです。
それなのに、打たなくていいだなんて。幽霊さんたら。
明子はその台詞が夫から出たということなど忘れておりました。惚れた弱みでしょうか。
誰か碁を教えてくれる人はいないかしら。
もちろん、この二人には絶対教わりたくないわ。
緒方さんも駄目。というか、夫の門下生に教わると面倒な気がするし。
アキラさんは、悪くはないけど、あの子は夫とはツーカーの仲なのよね。碁に関しては。
どうしたものかしら。