長良は足を止めて大きく息をついた。
行く手の上り坂を恨めしげに見上げる。
勿論そんなことをしても坂がなだらかになるわけがなかった。
あの上りを上がり切ったら一休みしよう、そう決めてまた一歩を踏み出す。
たぶん視界もある程度は開ける筈だ。現在地は把握できるだろう。
それにもしかしたら、ともうひとつの期待を抱きかけて、その先は考えるな、と自分に言い聞かせた。
期待した分だけ、それが空振りに終わったときの落胆も大きくなる。
なんでこんなことに、と思い返しながら、長良は鉛のようになった足を進めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
艦娘の休日の過ごし方は人それぞれだ。
寮でのんびりと時間を潰す者、部屋の掃除や私物の整理に時間を費やす者、趣味や娯楽に打ち込む者。
長良は趣味の山歩きに時間を使っている。
普段の訓練のときも足腰を鍛えるために時間を使っているから、僚艦たちには休みなのに普段と同じことをしていると笑われなくもない。
長良本人は、皆も来ればいいのにと考えている。
山は不自由だ。一蹴りでぐんと身体が加速することもなければ腰と膝と体重移動だけで針路を変えられることもない。
水平線まで見通せる電探の目もなければ見えない水中を感じ取る探信儀の耳もない。
一歩ずつ自分で歩かねば前には進めないし、荷物は全て艤装の助けを借りずに自分で持ち運ばねばならない。
そういう不自由を楽しみにいくのだと、長良は思っている。
潮の香りとむせ返るような湿気の混じっていない空気の匂いや、渓谷を吹き上げてくる風の涼やかさや、海の上よりもずっと遠くにある水平線や、波立つ海のようでいて全く違う雲海や、その雲海の上に島のように浮かぶ遠くの山々を見たり感じたりするたびにそう思う。
そうやって一日二日と過ごすうちに海の上が懐かしいと思うようになり、帰りしなに温泉に寄って帰路につく頃には海へ出ることを待ち遠しいと思うようになっている。
長良自身もそれがどういう心境の変化なのか、よくわかってはいない。だが、そうやって自分は心の平衡を保っているのだろうと考えていた。
今回山に入ったのは昨日の午前中。夜行バス、電車、タクシーと乗り継いで麓まで入り、尾根筋の避難小屋まで上がって一泊した。
今朝は暗いうちから起き出して朝食を摂り、9時頃には頂上へ着いてそのまま主稜を縦走している。
人の少ない山だった。山に入ってから会ったのは二人だけ。一人は昨夜止まった避難小屋で会った中年の男性で、長良とは逆方向から縦走してきたという。お互いの行く先の道について情報を交換した。人が少ない割には道は整備されていて、荒れたところはないらしい。唯一の難所と言っていい場所は、急な岩肌を鎖を頼りに降りる鎖場だけだ。
ここを越えたら適当な場所で昼の休憩にしよう、と考えながら鎖場を上から覗き込むと、ちょうど下に誰かが来たところだった。
二人目だ、と思いながら、お先にどうぞと声をかける。ありがとうございますと返事があった。じゃらりと鎖が鳴り、下の誰かが上り始めたのを確認して周囲の風景に視線を移す。
平地より一足二足早い山の秋も、ここではまだ入口に着いたばかり、というところだ。紅葉はまだなく、咲き終わりの夏の花がここかしこで風に揺れている。振り返ればなだらかにうねる稜線の先に自分が上ってきたばかりの山頂がある。遠くへ視線を転じれば、白く光る街並みの先にうっすらと青い海が見えた。
ポーチからスマホを取り出して一枚二枚と写真を撮った。
撮りながら、あの海でも誰かが、とふと思う。風に海の匂いなど勿論混じってはいないけれど、山に来て海を意識してしまうのはこういうときだ。
これも一種の仕事中毒なのかなあ、と苦笑いして伸びをした長良を、三つの物音が現実に引き戻した。
激しく鎖が鳴る音、小さな叫び声、何かが地面に落ちる音。
覗き込むと、下で誰かが倒れていた。鎖の配置が先ほどと変わっている。鎖を岩肌に固定しているアンカーがどこかで抜けたに違いなかった。
一番上から抜けるのは勘弁してよ、と祈りながら鎖を伝って素早く降りる。
「大丈夫?」
鎖を降りきって荷物を地面に下ろし、声をかける。
「すみません、落ちちゃって」
横たわったまま苦しそうに答えたのはまだ若い男性だった。中学生から高校生といったところだろう。落ちたときに岩角にでも打ち付けたのか、右脚に大きな傷がある。
「右脚、動かせる?」
彼は黙って首を横に振る。ひどく痛むらしい。出血もある。
「無理しなくていいよ。バックパック下ろそう」
手早く相手のバックパックを外す。
自分のバックパックに括りつけていたマットを外し、少し離れた安全と見える場所に敷いた。
「落ちたときに頭ぶつけたりした?」
「いえ、脚だけだと思います。下には背中から落ちたから」
「わかった。じゃあちょっと動かすね。両手を私の首に回して」
「え、あの」
「いいから早く」
抱きかかえられる形と知って躊躇する彼に押し被せるように言い、半ば強引に抱え上げた。
「痛っ」
「ごめんね、すぐだから」
マットの上に下ろし、楽にしてて、と声をかける。
長良は応急手当の手順を思い出していた。
意識はある。出血はあるが、即座に命に関わるほどの大出血ではない。
自力で受傷部位を動かせない。たぶん骨折。
まず安全の確保、次に止血、骨折が疑われるから患部の固定。
ポーチから出した小さなハンドタオルを畳んで患部に当て、汗止めに巻いていたバンダナを外してタオルごときつめに巻く。
しばらく圧迫していれば大概の出血は止まる、と鎮守府の研修で教わった知識を反芻する。
折れているであろう脚の固定には、自分のバックパックのフレームを引き抜いて使った。
とりあえずはこれでいい――これ以上悪化はしないはずだ。
問題はこの先よね、とスマホの画面を確かめる。圏外。
「助けを呼びたいんだけど、あなたのスマホ、どこかしら。私のは圏外なの」
ああ、と斜め掛けしたサコッシュからスマホを取り出して画面を確かめ、首を横に振る。
「僕のもです」
そう、と頷き、長良はあたりを見回した。
「昨夜はこの先の避難小屋で?」
「はい」
「他に誰か、一緒に泊まった人はいた?」
「いましたけど、反対側に行く人だったので……」
「人、少ないもんね」
この場所で救助は呼べない。
少なくとも日が暮れるまでの間に人が来ることは期待できない。
選択肢は三つしかなかった。
彼をここで待たせ、長良が救助を呼びに行くか。
長良が彼と一緒にここでビバークするか。
長良が彼を救助が呼べる場所まで移動させるか。
ほんのわずか考えて、ひとつめとふたつめは無理だな、と長良は判断した。
一人で残すにせよ長良が付くにせよ、怪我をした身体でビバークさせるのは負荷が大きい。ましてここは遮るもののほとんどない稜線で、二人ともテントを持っていない。
今は問題がなくとも、体力を消耗すれば容態悪くなる可能性もある。
人が通りかかれば補助を頼むことはできるが、長良も彼も今日この道を通る予定の人とは一人も会っていない。
方針を決めたならばあとは行動あるのみだ。
「これからの話なんだけど、あなたを下ろさないといけないと思うんだ。
二人ともスマホが圏外だから救助は呼べないし、ここでビバークは難しいし、誰か来るのもあんまり期待できないし」
「――はい」
「あなた一人なら背負えると思うの」
「え、いや、それは」
「怪我人が気を遣わないの。
それでね、悪いけどバックパックはここに置いていくから、貴重品と水と行動食だけ持って。
保温が要るかもしれないから、レインウェアも」
「はい」
「日が落ちる前に救助呼びたいから、すぐに出るね。バックパック持ってくるから、支度して」
「はい」
長良も最低限の荷物の他は持つつもりがなかった。
ポーチの中身を確かめ、必要なものを持ってあとは全て残置する。
「荷物いい?ザックカバーどこ?」
そこのポケットです、と答える言葉のままに雨避けのカバーを引っぱり出してバックパックに掛ける。
自分のバックパックにも同じようにカバーを掛け、マップケースを括りつけた。
ペンと、この先通る予定のないエリアの地図を出し、地図の裏面にメモを書く。
『負傷者の搬送のため、荷物を残置しています』
念のため自分の連絡先も書き、マップケースに入れる。
運が良ければ誰かが見て連絡をくれるだろう。少なくとも無用の騒ぎにはならない筈だ。
肩を貸して立ち上がるのを手助けし、自分は相手の前へしゃがんだ。
「乗って」
「――あの、やっぱり」
「今更どうこう言わないの。これでも鍛えてるから大丈夫」
乗りなさい、ともう一度促すと、やっと背中に体重がかかった。
トレーニングと称して名取あたりを担ぎ上げたときよりも軽かった。
ということは私よりも、とあらぬ方向へ連想が飛び、筋肉は重いから、と誰に対してだかよくわからない言い訳を心の中で述べる。
ともあれ今は、軽い体重が有難い。これから数時間はこの重みを背負って歩かねばならないのだ。
レインウェアの上半身分を支え代わりに腰に巻き、自分の腕は彼の脚の下を通して腕を握る。
「揺れるから響くかも。
痛み止めでもあればよかったね、ごめん」
「大丈夫です。すみません、僕こそこんな」
こういうときはお互い様よ、とだけ答えて、長良は歩きだした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それが2時間ほど前のことだった。
平地では秋の入り口で暑さも残るこの時期、山では随分と涼しくなっている。
であるにも関わらず、長良は暑さに喘いでいる。頭上の太陽が今は恨めしい。止まらない汗を拭うことすらできなかった。
30分に1度ばかり彼を下ろして休み、水分と糖分を補給してはいる。
それで蓄積された疲労が消えるはずもなく、立ち止まる間隔は徐々に短くなっていた。
背負う彼の体調も気掛かりだった。なるべく振動を伝えないよう心掛けてはいるものの、おのずと限界はある。
時折噛み殺した呻き声が背中から聞こえ、同時に腕や脚がこわばるのを、長良は感じていた。
普段から自分に厳しいトレーニングを課している長良は、そのことを普段の自分に感謝している。
しかし同時に、トレーニングとの違いを思い知らされてもいた。
――きついからってやめるわけにいかないのよね。
追い込んでも、限界を迎えたらそこでやめる。無理をしない。
それがトレーニングの鉄則であり、長良の自己管理のやり方でもある。
今はそれができない。
たまたま会って、言葉を交わして、背負ってしまった。
もう見捨てることなどできない。少なくとも自分が倒れるまではこの背中の荷を下ろすわけにいかない。
そして自分が倒れたら、それはすなわち共倒れなのだ。だから倒れるわけにもいかない。
戦場と同じか、とふと思い、こんなに海から離れてるのに、と少し可笑しくなった。
艤装を扱う技術も操舵の技術も僚艦たちと連携する技術も関係がなく、ただひたすら体力のみが問われる、ここは戦場だった。
普段の戦場を離れたくて、なにもない不自由を楽しみに来たはずなのに、不自由なままで他人様の命を背負っちゃうなんて。
歯を食いしばったまま、口の形だけで笑う。
――まだ笑えるなら大丈夫。
言い聞かせて一歩を踏み出し、努力して呼吸しながらまた一歩を踏み出す。
足も腕も重い倦怠感に包まれてしっかりとした感触がない。呼吸のたびに肺が痛む。
日が落ちるまでに下りなければいけない、天候が崩れれば状況がより悪くなる、そのことは理解できていても、いま日差しを遮って涼を得られるのであれば、早く日が暮れるか雨のひとつも降ればいいのにと思ってしまう。
無論そう思ったところで天候が変わるわけでもなく、背に負った重みは軽くはならないし、歩くべき距離が短くなるわけでもない。
勝手なものだなと自分で自分を笑うだけだ。
あれこれと脈絡のないことを考えながら、長良はようようにして坂を登りきった。
「ね、下ろすよ」
手頃な場所を見つけて背中に声をかける。
返事がなかった。
ぞくりとしたものが背筋を走り、一瞬で汗が冷える。
まさか、と慌てて背中の彼を下ろして寝かせた。意識がないが、怪我をした足に響いたのか、かすかに呻いて顔をしかめた。
弱々しくはあるが呼吸も正常だった。怪我と苦痛で体力を消耗しきったのか、あるいは転落したときに頭でも打っていたのか、どちらとも判断がつかない。
――頭は打ってないって言ってたっけ?
呼吸を整えながら、地図と周囲の地形を照らし合わせて現在地を確認した。
あの鎖場から麓までの道程の、半分ほどは消化しただろうか。
もうしばらく歩いて稜線を外れ、その後は林の中を麓まで下る。
人ひとり担いで下るのは楽な仕事ではないが、あと半分と思えばどうにかなりそうな気がしてくるから不思議なものだ。
そういえば、と思い出して、ポーチからスマホを取り出して確認する。
安堵のあまり膝から崩れそうになった。2本だけアンテナが立っている。
110番に電話して状況を簡単に伝えた。
遭難者を搬送していること、要救助者は負傷して意識がないこと、負傷の経緯、現在地と下山予定。
ヘリで救助に向かうから動かないように、という言葉に、心からの同意とともに了解の旨を伝える。
動かずに済むものであれば、もうこれ以上動きたくなどなかった。
ヘリを待つ間、彼の様子に気を配りながら、改めてあたりを見回す。
傾き始めた太陽が、柔らかい日差しを落としている。
火照った身体に吹き上げてくる風が心地良い。
歩いてきた方を振り返ると、ずっと上の方に、日に照らされて光る岩肌が見えた。
よくあそこから人ひとり担いで歩けたものね、と半ば呆れた気分で見上げる。
深く息をついて視線を転じると、あの鎖場の上で見たのと同じように、遠く青く海が見えた。
今日も誰かが戦っているだろう海とは離れているけれど。
隣に僚艦はいないけれど。
艤装すらここにはないけれど。
守るべき誰かがいれば、そこが自分の戦場になるのだ。
そういえばこの達成感と満足感は、戦場で耐えて耐えて持ち場を守ったときのそれと同じなのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
救助のヘリは30分ほどで到着した。
降りてきた救助隊員に状況を説明して負傷者を引き継ぐ。
担いでここまで下ろしたことに、少なからず驚かれた。まあそうだろうな、とは思う。長良とてこの状況でなければ担いで下ろそうとは思わなかっただろう。
人数に余裕があるので乗っていきますかと尋ねられ、少し考えて長良は首を横に振った。
「いえ、彼と私の荷物を上に残置したままなので。取りに行かないと」
救助隊員が顔を見合わせて何事か言葉を交わし、中の一人が、こちらで取ってくるから乗っていきなさい、と促した。
実のところ、行き帰りの時間と体力を計算して、どちらもぎりぎりかなと考えていた長良にとっては、この上なく有難い申し出だった。
ヘリに乗ってしまうと、街まではわずかな時間のフライトだった。ヘリポートで下ろされると、待っていた救急車が負傷者を乗せて病院へ向かう。
見送った長良は、改めてことの経緯を尋ねられ、名前と連絡先を確認された。
身分証を出し、連絡はこちらへと鎮守府の連絡先を示す。救助隊員は驚いたような顔をしたが、そのことについては何も言わなかった。
「ところで、あの怪我をした方は?」
そのときになってはじめて、長良は彼の名を聞いていなかったことに気付いた。
「たまたまあの現場で行き違っただけです。そういえば、名前もなにも訊きませんでしたが」
取り立てて期待もしていなかったのだろう、後日なにか追加でお尋ねするかもしれませんと言われ、事情の聴取はそれで終わった。
回収した荷物をどこへどう届けるといった事務的なやり取りを済ませ、日帰り温泉で汗を流して駅へと向かう。
腕と脚の怠さと重さは変わらない。ただ、今夜はよく眠れそうだと長良は考えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌々日。
帰ってから1日休んだというのに、長良は全身の筋肉痛に苦しんでいた。
トレーニングはあと1日2日は休まねばならないだろう。
ルーチンワークになっている課業の演習ですら、満足に身体を動かせていない。
いいニュースもあった。長良が運んだ怪我人は、命に別状なかったらしい。
あれだけ苦労したのだからいいニュースがあってもいいじゃない、と長良は思っている。
「長良姉、どこか怪我でもしたの?
休みの間、また山に行ってたって聞いたけど」
尋ねてきたのは五十鈴だった。
「んー……」
どこまで話したものかと考えながら、長良はあのとき背負った背中の重みを思い出していた。
「怪我じゃないよ。まあいろいろあってさ。筋肉痛」
「え、長良姉が筋肉痛なんて珍しいじゃない。どうしたの?」
「人助け。怪我人背負って山下りたのよ」