プレハブ分遣隊ZERO 作:Tibetan Brown Bear
キーボードをタイプする音が事務室に響き渡る。
時刻は夜中、窓の外は真っ暗で、節電のため部屋の半分は電気が落ちていた。そんな中、濃緑色の制服の上に、上着代わりの青い迷彩服を着た巡洋艦、大井はデスクに座りながら、仕事用のラップトップと向き合っていた。
ここ、山形県酒田基地の庁舎に、艦娘、大井はいた。
本来であれば隣町の漁港分遣隊――プレハブ建ての粗末なそれ――の事務室で、雑多な仕事をこなしたり哨戒中の駆逐艦たちに指示を飛ばしたりと、日常の業務をこなしている筈だったが、本隊の事務作業に助っ人が必要となり、急遽応援として短期間だけ本隊へ復帰していた。
もっとも、仕事が終わればすぐにあの漁港へ戻る事になるが、分遣隊と比較にならない程の多忙な仕事に、あのプレハブの司令部が恋しい気持ちになりつつあった。
今まで大井は本隊と分遣隊を行き来していたが、最近は分遣隊に長居して久しい。もしかしたら、今後イレギュラーな事態でない限りは分遣隊勤務で任期を終えるのだろうな、という事を薄々考えていた。
「大井先輩、お茶を淹れてきました」
ニコニコと柔和な笑みを浮かべ、本隊の練習巡洋艦、鹿島がやってきた。
その特徴的な銀髪を揺らし、愛らしい顔立ちを持つ彼女は広報の顔に据えられるには相応しい子だろうなと、大井はふと思った。
両手に持ったお盆の上には、お茶が注がれた2つの湯呑みと、お茶請けの菓子が幾つか並んでいる。鹿島は湯呑みをそっと大井の座るデスクの上へと置いた。
「ありがとう、頂くわ」
湯気を立てる熱い湯呑みをそっと手に取ると、大井は仕事の手を少し休めてお茶を啜った。鹿島はその隣――自分のデスクにも湯呑みを置くと、座った。
「大井先輩、そろそろ休憩にしませんか?ずっと働き詰めじゃないですか」
「んー……まあ、それもそうね」
大井は壁にかかった時計の針を見て、もうそんなに時間が経ったかと思った。
休憩しつつも、隣に座る鹿島はそれから矢継ぎ早に世間話をはじめた。
楽しそうで生き生きとしている、と言うのが第一印象だった。酒田市内に新しく出来たレストランがよかった、とか、この間の艦娘募集説明会で鬼怒さんが鶴岡から来た女の子相手に力説していた、等と他愛のない会話ばかりであったが、普段よりも幾分か弾けた雰囲気で話している事は大井に伝わってきた。普段の仕事をしている彼女から想像も出来ないようなはしゃぎぶりだった。
大井は、彼女から向けられる好意に薄々気がついていた。何故かは知らないが、本隊では大井を慕う者は多かった。だが、大井が知る限り好意の寄せてくる艦娘の中では、過度すぎる好意とも感じた。
――まぁ、養成学校にいた頃に後輩から告白された事もあったっけ。
そんな思い出話を思い浮かべながら、お茶請けの最中を手に取って口にする。餡子の程よい甘さが口に広がり、書類仕事にかかりっきりの大井は、ほっとした気分になった。
会話の話題は、鹿島の家族の話になり、それから簡単な身の上話へと移った。鹿島は、不意に大井へある話題を振った。
「大井先輩は酒田に来る前は何をしていたんですか?」
その問いに、大井は自分の過去をふと思い出していた。
「特に面白い話じゃないけれどね。話せば、長くなるわ」
大井――細見薫という本名でしか呼ばれていなかった頃の彼女は、まだ高校生だった。
兵庫県に住み、家から離れた町にある商業高校に通う、どこにでもいる少女だった。
冬を迎えたこの時期、校内の3年生棟は慌しい雰囲気だった。高校3年生と言えば卒業後の進路が決まってなければいけない時期で、進学先や就職先をどうしても決めなければ、という焦りのような物を誰しもが抱えていた。
とは言っても、薫にはちゃんとした道があった。進学である。
都会の大学に進学してから就職するという選択肢を選んだ薫にとっては抜かりは無かった、すでに推薦で入学が決定している大学があり、後は平穏無事に高校を卒業する事、すなわち、いつも通りに過ごしていればいいだけであった。
昼休みに、薫は仲の良い友人達と共に、机を合わせて食事を取っていた。
弁当を食べ終え、片付け終えて持ち寄ったスナック菓子をつつきながら、色々な話題に花を咲かせる。こうして友人たちと語り合えるのも、あと僅かだと言う事は高校3年の冬を迎えた誰もが感じていた。
やがて、会話は誰もが避けて通れない進路の話になる。
「ねえ。A組のさっちゃん、就職決まらなかったら艦娘になるって」
「艦娘?めっちゃ危険じゃん」
そんな物になるくらいだったらブラック企業の方がマシかも、と薫の友人は笑いながら呟いた。彼女たちの話を聞きながら、薫は艦娘という選択肢を取る人がいるのか、と意外に感じた。
「今テレビでめっちゃ叩かれてるじゃん。人気ないから応募したら絶対受かりそう」
友人の言葉に、薫も「そうよね」と同意した。
今年に入ってから暗いニュースが持ちきりで、世間は艦娘という存在に対して辛く当たり始めていた。長引く終わりのない深海棲艦との戦争が続く中、政府の広報が伝えるクリーンなイメージの戦争は覆されつつあった。
マスメディアが、遠く離れたソロモン海での作戦で大量の戦死者を出した、という情報を政権批判に利用して以降、反艦娘運動はピークを迎えていた。艦娘募集に来ている広報の艦娘たちが、肩身の狭い思いをしているという話も無理は無かった。
それ故に、今現場は引く手数多の状態と噂されていた。説明会に行った薫のクラスメイトが広報の艦娘に必死に説得された、という話からも明らかであった。
「いいよねぇ、薫はもう卒業待つだけだし。私なんか入試落ちたら後が無いわ」
友人は心底羨ましがるように言ったが、薫は気を使って生返事を返した。
本当は心のどこかで、安心感を感じていた。優越感を感じるのは憚れるが、周囲が忙しく動いている中で進路が決定し、安心を手に掴む事が出来た事実にほっとしていた。推薦に落ちていればこうはならなかっただろう。
「ねぇ?みんなこれ見て」
友人の1人が、パンフレットを差し出してきた。友人たちが興味深々にそれを眺める。
政府発行の艦娘募集パンフレットだった。そのパンフを見て、薫も興味を惹かれた。
「実はさっちゃんと一緒に私もパンフもらってきてさ、ボールペンも貰っちゃった」
「もしかして興味あるの、艦娘」
薫の問いに、その友人が答える。
「いや全然、冷やかしみたいなもん。募集のお姉さんがすっごい綺麗だったから」
どっ、と友人たちが笑い、薫も釣られて笑った。
パンフレットをめくりながら、確かに綺麗だと薫は思った。戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦と言った単語と共に写っている彼女たちは、皆輝いているようだった。
見た所、十代から二十代ほどの彼女たちは皆笑顔で、自信と誇りに満ち溢れているように思えた。制服も派手な物から地味な物までそろっている。薫が思い浮かべる、戦争というイメージとは正反対に思えた。
何より、テレビで見たように彼女たちは海の上へ浮いていた。こうしてパンフレットを手にとって眺めていると、艦娘という非日常的な存在が身近に感じられるような気がした。意外と福利厚生もしっかりしていたし、具体的な収入を数字で提示されると、その身近さはより近くなった。就職の選択肢に艦娘を選ぶ子の気持ちもわからなくはない。
そうこうしている内に、チャイムが鳴り、昼休みが終わりを告げようとしていた。
くっ付けていた机を元に戻す中、放置されたパンフレットが薫の机の上に残った。
「これ、どうするの?」
「いらない、好きにしていいよ」
薫の問いに友人はざっくりと答えた。薫は、どうしたものかと思いながら、暇つぶしに読んでおくつもりで、机の脇から吊った自分の学生鞄にパンフレットを入れた。
放課後、授業を終えてホームルームが終わり、生徒たちはようやくその日の学業から開放された。後輩たちが部活動に精を出し始めるのを横目に、3年生たちは帰路へ就く。
薫も、ようやく一息つき、鞄を提げて学校の玄関へと向かっていた。
帰宅したら何をしようかと考える、レコーダーに撮り貯めた海外ドラマを見るのもよかったし、まだ読んでない漫画や小説を消化するのも悪くなかった。早々に電車に乗って早く帰宅してもよかったし、少しだけ寄り道をしてもよかった。
どうしようか考える中、廊下を歩く生徒たちの合間を、教師が走って駆け抜けていった。
何事だろうか、と思っていた矢先に、教師たちの切羽詰った声が響いた。
「下校は中止だ!みんな教室へ戻れ!」
中年の数学教師が声を上げて周りの生徒たちに、教室へ向かうよう指示を出し始めていた。ざわざわと生徒たちが動揺する中、教師たちが慌しく駆け回る。
「もう下校した生徒はどうする?」
「それより避難の必要はあるか?もしアレがここに来たら」
「車を出す、とにかく下校中の生徒を1人でも戻らせるべきだ」
「どこが安全なんだ!?ここだって危ないかもしれないだろう!」
教師たちが集まって慌しく相談を始める中、遠巻きにパトカーや救急車、消防車のサイレンが至る所から鳴り響き始めた。
「何……一体何よ」
薫は不安になりながらも、教室へ急いで戻った。
ホームルームが終わった後の教室に戻ると、そこにはクラスメイトたちが集まっていた。天井から下げられたテレビの電源が付いており、ニュース映像が流されている。
それを見た瞬間、薫は思わず声を上げそうになった。
そこには、爆発と火災に見舞われる都市――神戸と呉にある基地と市街地――と、空を覆う鳥の群れのような映像が映っていた。L字のテロップに避難情報が流れ、アナウンサーが切羽詰まった様子で原稿を読み上げている。
深海棲艦の空襲だった。
そして、画面に空襲を受けている地域や地区名がテロップで表示される。
そこに、薫の家がある町の名前もあった。
すべてが終わった絶望感に、薫は床に崩れ落ちた。気が付いた友人に支えられ、何とか薫は自分の席に座った。
友人たちが励ましの言葉を投げかけるが、それすら耳に入らなかった。
テレビをぼんやりと眺めながら、薫は家族の事が気が気でなかった。
両親は共働きで、恐らくこの時間帯には家にいない筈だった。だが、もし家に帰宅していたら――恐らくこの状況では生きて帰れない可能性もある。遠景の中継カメラから流れる映像はぼんやりとしていて、あの見慣れた町並みの詳細はわからなかった。
空襲が終わり、自宅への帰宅が許された薫は、すっかり日が暮れた中、かろうじて動いていた公共交通機関を使い、家へ帰ろうとした。電話は混線しており、家族にはメールも繋がらず、かくなる上は家が無事か、直接この目と足で確認する必要があった。
消防車や自衛隊の車両が町の中を忙しく駆け回っている中、薫は見慣れた町並みが一変してしまった事をようやく実感した。火事により家が焼け落ちた、という光景はニュースの映像や実際の目で確かめた事はあったが、今や市内は至る所が火災で焼失しており、町の区画がぽつぽつと歯抜けのように失われている有様だった。
ニュースが伝える事によると、被害が大きくなかったのは、深海棲艦の空襲が呉や舞鶴を標的とした物で、この町への爆撃は帰りのついで、つまり副次目標として選ばれた事に起因している。実際、爆風や衝撃波で窓ガラスが割れただけの家や、完全に無傷の家も多かった。
いてもたってもいられない気持ちで、足早に町中を歩いていく。
自分の家が近くなるうちに、薫は気がつくと走り出していた。
坂を上る、公園を抜ける、路地に入る、角を曲がる。
息を切らしそうになりながら、あと少しの場所で、薫は路肩に停車している見慣れた車を見つけた。それは両親――母と父が乗っている車であった。その車から出て、心配そうな顔を浮かべていた両親と、目があった。
「お父さん!お母さん!」
思わず叫んでいた。急いで駆けて、2人の元にたどり着いた。
「無事だったか、薫!」
父と母の声を聞いて、2人が無事だった事に薫は安堵した。
家族は、奪われずに済んだ。それだけで薫は緊張の糸が解けて、崩れ落ちそうになった。
しかし、両親の顔は晴れていなかった。
「お父さん、家は……」
薫の言葉に、父は黙って首を左右に振った。
薫は、足を進めて曲がり角を曲がった。
いつもなら、そこには我が家がある筈だった。
「……嘘、でしょ」
思わず声が出た。
そこには、焼け焦げた瓦礫だけが乱雑に転がる、がらんどうの空間があるだけだった。
呆然とした薫は、覚束ない足取りで、まだ燻り続ける瓦礫の前に立った。
そこは、玄関のはずだった。居間、キッチン、トイレ、脱衣所、風呂場、階段。間取りは鮮明に思い出せた、窓からみえる筈の景色も、薫ははっきりと確認した。
間違いなく、ここは彼女の家だった。
市の対応は早かった。その日のうちに近所の小学校の体育館が避難場所として開放され、多くの人々がそこで一晩を明かそうとしていた。
着の身着のまま、それぞれの仕事場で着ている服、学校の制服という姿で体育館に集まった一家は、これからの事を相談していた。
薫の父は、何とか繋がった電話で実家と連絡を取ると、暫くそこで暮らしていいという了承を2つ返事で取ってきた。少なくとも、避難所にずっと居なければいけないという事は無くなった。
しかし、手放しで喜んでいる暇は無かった。家は粉みじんに吹き飛び、財産も殆ど失ってしまったと言うのが現状だ。
細見一家はまだ救いのある方だった。近所では、避難が遅れて家ごと焼かれて亡くなった人や、学校や職場から帰宅したら家と家族を失っていた、という人すらいた。この町での爆撃の死者は奇跡的にもたった十数名で、テレビで報道されている舞鶴や呉、神戸への空襲と比較すれば微々たる物であった。
言い返せば、この狭い町で、十数名の人が理不尽に命を奪われ、多くの人たちが人生をめちゃくちゃにされた、とも言えた。
未だ放心状態の薫の前に、彼女の母は話しかけた。
「薫、今後の事なんだけどね」
「……うん」
薫は母の顔を見た。今まで見たことがない程、母の顔はやつれていた。それでも、気丈に振舞って我が子に憔悴しきった姿を見せまいと、踏ん張っているようだった。
「お金は何とか都合してあげるから、薫、あなたはちゃんと大学に行きなさい」
「でも……」
薫は思わず口ごもった。
大学への進学については、前々から両親とよく相談していた。
戦争が始まり、父の仕事がその煽りを受けて以来、家の経済状態が悪くなり始めたことは薫もよく知っていた。両親が、必死に働いて学費を稼ごうとしている事も知っていたし、娘が大学を卒業して職に就くことを、誰よりも望んでいるのも知っていた。
「そうだぞ薫、お前は心配しなくていい。大丈夫だ、父さんもアテがあるから」
薫の父は気丈に答える。
無理をしている。そんな事はよく分かっていた。
避難所の中で誰かが流しているラジオのニュース音声が耳に入る。
「……深海棲艦の機動部隊は今日の夜未明、能登半島沖を通過後日本海を北上し……」
腹が立った。
「……現在、大湊の艦娘部隊による追撃作戦が行われていますが、結果についてはまだ判っていないとの事です……」
許せなかった。
「……広島県警察の発表によりますと、呉の爆撃による死者は257名に……」
ふざけるな、と言いたかった。
薫は、学校から持ってきた鞄の中身を漁る。
教科書、プリントを掻き分けて、中に入っていたパンフレットを取り出した。艦娘募集パンフ、政府が艦娘になろうとする者へ向けた冊子。
中に書いてある現職艦娘へのインタビューやFAQ、細かい説明など見向きもせず、パンフに挟まっていた一枚の書類――空白の志願票を見た。
未来を台無しにされたのなら、復讐するまでだ。
あの忌々しい深海棲艦というふざけた連中に。
「大学は行かなくていい」
薫は意を決した。
その真っ直ぐな瞳――理不尽に対する怒りと、正義感と、使命感に燃えた――を携えながら、言い放った。
「私、艦娘になる」
「――で、卒業まで父さんの実家で過ごして、卒業すると同時に艦娘になったわ」
しみじみと昔の話を語りながら、大井はまだ暖かいお茶を啜った。
隣で話を聞いていた鹿島は、姿勢を正してその話に聞き入っていた。背筋を伸ばし、まるで面接にきた新卒社員のようにキッチリとした状態だった。
「知りませんでした、大井先輩にそんな過去が……」
「いやいや、大分盛ってるわよ。町が爆撃されたってのは事実だし、家が吹っ飛んだのも事実だけど」
大井は自嘲気味に笑った。
「でもね、あの後に市の復興事業で新居も手に入ったり、うちの損害も保険でどうにかなって、父のいた会社も新事業の成功で持ち直したし、結局私は無理に艦娘を目指す必要なんて無かったんだって、気がついたのよ」
「へえ……え?」
大井の言葉に、鹿島は思わず首をかしげた。
「最初からあんなの判ってれば、艦娘になってなかったし今頃は大学卒業して大企業で働いて順風満帆な人生だったってのに……何で私は艦娘なんか選んじゃったのか……」
ブツブツと呟きながら頭を抱える大井を前に、鹿島は慌ててフォローに入った。
「い、いえ!細見先輩が艦娘だったからこそ救われた人だってきっといた筈ですよ!落ち込まないでください!」
「……あなた、そう言うけどね」
お茶請けの最中をかじり、お茶を飲みながら、大井は話を続けた。
「私が艦娘になってからなんて地味もいいとこよ。まあ、養成学校にいた頃に後輩から告白されたりとか色々あったけど……」
「その……養成学校にいた頃に告白してきた人って誰なんですか?」
鹿島の問いに、大井は空になった湯呑みを盆に戻しながら笑った。
「秘密」
えー、と不満の声を上げる鹿島を前に、大井は気を取り直して「さ、仕事の続きをしましょうか」と言い放つと、またラップトップと向き合った。
お盆を手に給湯室に戻る鹿島の背中を見送りながら、大井はそこから先――誰にも語るつもりのなかった自分の過去を、思い出していた。
夕日に照らされる南シナ海を眺めながら、軽巡洋艦、大井は海上を走り続けていた。
彼女の部隊――呉の外洋派遣部隊に所属する艦娘たちはスエズ運河を超え、はるばるアジアまで物資を運ぶ貨物船や、重油を満載するタンカーを護衛中であった。華の海外派遣部隊と言えど、彼女たちの実態は何の変哲もない低脅威海域の護衛任務である。
深海棲艦の登場で、かつて海を荒らしていた海賊たちは軒並み全滅するか、別の仕事に鞍替えしており、今は散発的に現れる深海棲艦を撃退し、航路の安全を確保する船団護衛が艦娘たちの主たる任務となっていた。
大井がかつて望んでいた仕事――深海棲艦の大部隊との戦闘は、中部太平洋か北方展開の部隊に限られていた。
今日、大井たちが担当する船団は貨物船とタンカー合わせて5隻の小さな船団だが、低脅威海域であっても南シナ海にはどんな危険が潜んでいるかわからず、たとえ平穏無事であっても艦娘が必要とされていた。
周辺に潜水艦や駆逐艦が潜んでいないか、警戒しながらも大井は速度を上げて護衛の指揮を取っている軽巡洋艦の艦娘、川内に横付けした。
「この後の交代は?」
大井は再確認のため、川内に尋ねた。
「次の交代要員は……えーっと、スービック基地の太田さん、星野さん、澤――」
「艦名で言いなさい」
大井に諭され、川内は咳払いをしてから言い直した。
「スービック基地所属の駆逐艦、軽空母、軽巡、ほか3隻」
そうじゃない、と大井はため息を吐きそうになった。
全員同じ階級の艦娘しかいないこの部隊では、リーダーである川内が指揮を取る事になっていたが、部隊内でも夜戦馬鹿と呼ばれる女だけあり、指揮官よりも個人として戦うことに艦娘の能力を全振りしているような女だった。細かな場所で荒が目立つ。
「交代時間は?」
大井の問いに川内は腕時計と計画書に目を落とす。
「1900、もうすぐだね。引き継ぎは私がやっておくから、大井っちは後方の警戒お願い」
「了解。くれぐれも失礼の無いようにお願いね」
大井は欠伸を漏らしかけて、我慢した。今朝からぶっ通しの護衛であった。疲労もたまり始めていたが、バシー海峡へ入る前に交代がくれば、後ろに控える艦娘母艦に戻って休息できるし、古巣の呉まであと少しだった。
――次の出撃から私が代わるか。
そんな事を考えた大井は速度を落とし、他の艦娘と位置を代わってもらいながら、後方の艦娘母艦の援護へと向かった。
船団護衛を追え、久々に呉へと帰還した大井はほっとする気持ちだった。
見慣れた日本の町並みは安心したし、古巣に戻った大井は日本の土を久々に歩いていた。とは言え、まだ作業は山積みであり、これから船団護衛の報告書を上司へ提出する必要があった。
呉の司令部に向かった大井は、上官の待つ部屋にたどり着いた。
ドアをノックして返事を待つ。間を置かずに「どうぞ」とドアの向こうから返事が来た。
大井は部屋へと入る。中はデスクと書類棚があるだけの質素な事務室で、デスクの向こうには大井の上官――伊勢型戦艦のネームシップ、伊勢が書類に目を通している最中だった。
「やぁ、大井ちゃん。2週間ぶり?」
大井に挨拶を交わす。大井は頭を下げた。
「3週間です。伊勢さん、報告書を持って来ました」
ありがとう、と答えると伊勢は差し出された報告書を受け取った。
「どうだったスエズからの長旅は?」
伊勢に問われた大井は「疲れました」と簡単に答えた。「だろうねえ」と呟いた伊勢は手始めに一枚、二枚と報告書の用紙を捲ってから手を止めて文面をじっくりと黙って眺め始めた。
「……何か書類に不備でも?」
「あ、ごめんごめん。何でもないよ」
伊勢はあらぬ誤解を与えてしまった事を急いで詫びた。
「大井ちゃんの報告書さ、やっぱり同年代の入隊組に比べると一番出来がいいし出来上がるのも早いよね。みんな事務作業は二の次だから。きっちりそういう勉強してきた子はある意味強いよ」
「はあ」
思わず生返事をしてしまうが、伊勢は「褒めてるんだけどなぁ」と言った。
「そうそう。大井ちゃんがいない間に問題があってさ。酒田基地に艦娘を1人異動させなきゃいけなくなったんだよね」
伊勢は広げた書類を眺めて、表情を曇らせた。
「今更、酒田に異動させる艦娘もいないし、どこの部隊も人を引き抜きたくない状況でさ。お偉いさんも人選に手間取ってるみたい」
「まさか、ここの部隊から異動ですか?」
伊勢は首を左右に振った。
「ないない。大井ちゃんは安心して。僻地なんかに行きたくないでしょ?」
そういわれて、大井は安心した。
酒田基地と言えば、東北沿岸を守る要所の一つであったが、低脅威海域、すなわち戦闘も滅多に無い平和な海である日本海を見張ってるだけの二線級艦娘で揃えられた袋小路、というのが呉の艦娘の総意であった。横須賀や呉のエリート部隊の艦娘からしてみれば、そこへの異動は左遷と同義だった。
とは言え、最近では情勢も変わってきているようで、深海棲艦の活動が緩やかに活発化しているとの報告もある。異動の話が出てきたのもそれが理由だった。
「ああ、そうだ。来週から護衛任務の参加はしなくていいわ、大井ちゃんには別の仕事が出来たから。休暇明けからよろしくね」
「……別の仕事、ですか?」
大井は思わず聞き返した。
「前の出撃前に艤装転換やるって話があったじゃない。それが来週から」
艤装転換。そう聞いて大井は数週間前の話を思い出した。
切欠は前線部隊を見た事だった。
呉から出発した部隊が帰還し、彼女たちが好意と尊敬を持って歓迎される様を見た。少なくとも、海外派遣の船団護衛部隊として活動していた大井とは雲泥の差だった。大井が目に通した報告書には華々しい戦果が踊り、艦娘たちの間でも、その武勇伝が噂で流れてきていた。
そうした話を聞くたびに、船団護衛という地味な仕事に甘んじている自分が空しく感じられるようだった。進学という道を蹴ってまで艦娘の仕事を選んだ彼女にとって、現在の仕事に劣等感を覚えるような、そんな気さえしていた。
そこで巡洋艦としての花形――重雷装巡洋艦になるという選択肢を考えた大井は、前線部隊へ配属される可能性の高い、二次改装試験を受ける決断を下した。それを上官である伊勢に相談したのが数週間前の事であった。
もう試験が始まるのか、そう思った大井は心なしか気分が明るくなった。
「とりあえずは柱島の試験場で4日間の実技テストね、各種マニュアルには目を通しておいてね。はいこれ」
伊勢は、デスクの引き出しから分厚いマニュアルを数冊、大井へと手渡した。表紙には艤装メーカーのロゴと、「重雷装巡洋艦 球磨型 二次改装艤装」という文字が踊っている。
「ありがとうございます」
大井は深く頭を下げた。
本当は嬉しい気持ちで一杯であった、気を抜けば鼻歌でも歌いだしそうな状態であったが、何とか理性で抑えてから部屋を後にした。
数日後、大井は真夏の空の下、広大な演習海域に立っていた。
柱島――かつて旧軍の泊地があったその海域は、現在、民間船舶の立ち入りが禁じられ、代わりに艦娘用の演習場が設置されている。主に利用するのは呉の艦娘養成学校の生徒だが、艦種を変更する場合の試験や、二次改装試験を受ける艦娘たちも利用している。
ここに来るのは、大井が艦娘になった時以来であった。
蛍光色のテープが張られた演習用の艤装、訓練用のペイント弾が装填された青いテープを巻いた主砲。控えめに言っても工事現場の作業員のような格好であったが、大井には念願の二次改装艤装、大井改二と呼ばれる艤装であった。
初めて身に着ける艤装だったが、履きなれた靴でハイキングへ出かけるように、慣れた手つきで艤装を使いこなしていた。
教官役の艦娘が見守る中、大井は主砲を構える。
駆逐艦の艦娘に曳航される、移動標的を照準に捉えながら、引き金を引き絞る。実弾とは比較にならないほどの粗末な砲声であったが、発射されたペイント弾は驚くほど綺麗に標的へ命中し、赤い塗料で染め上げられていく。
曳航する艦娘や、教官が感嘆の声を上げる。
次いで、艤装にフル装填された訓練用魚雷の発射訓練へと移る。自走標的――遠隔操縦方式の深海棲艦を模した標的――が放たれる中、大井はその魚雷を手馴れた手つきで発射する。
航跡を引かない最新鋭の魚雷は、スッと標的へと向かい、見事に命中する。
命中を告げるブザーを聞きながら、大井はどこか胸がすくような気持ちになった。
その日の試験を終え、島に設置された休憩施設に戻った大井は一息ついた。
艦娘用の簡易的な休憩施設や補給設備のあるそこには、すでに先客がいた。自販機とベンチがあるだけのそこには、軽巡の艦娘が座っていた。
見た所、長良型だろうか。大井は身につけていた制服から察した。同じベンチに座ると、大井はその艦娘から話しかけられた。
「……凄いね」
ふと、大井は軽巡から話しかけられた。
「さっき見たけどさ、あんな凄い機動は始めて見た。長いこと球磨型やってるの?」
「長くは無いわ」
素っ気無く大井は返した。
「……あなたはどこの部隊?呉じゃ見かけない顔だけど」
「佐世保のスービック派遣部隊」
スービック、というのはフィリピンにある基地だ。深海棲艦との戦いが勃発すると同時にフィリピン海軍が再度軍事基地として整備し、今ではアメリカや日本の艦娘たちが詰める東南アジア有数の艦娘基地だった。大井も聞き覚えがあった。
「随分遠い所から来たのね」
「うん、艦種変更試験の真っ最中」
ふーん、と大井は返したが、そのまま流すのも悪いと思い会話を続ける。
「どの艦?」
「……金剛型」
「試験の調子は?」
「最悪。多分落ちるかも」
自虐的なその言葉に、大井は気まずくなって言葉が出なくなった。世辞でもいいので、何か声をかけてあげるべきかと思った。
だが、彼女は腕に付けたデジタルウォッチの数字を見ると立ち上がった。
「そろそろ行かなくちゃ。じゃあね」
そそくさと休憩施設から出て行く彼女を見送りながら、大井は名前を聞きそびれた事を今更思い出したのだった。
柱島演習場での4日間の二次改装試験を終えて、大井は呉へと帰還した。
試験は、誰が見ても――大井本人ですら合格確実だろうと思える内容であった。後は合格という正式な結果発表を待つだけで、改二艤装への転換命令を受けるだけとなった。
久々の事務仕事や駆逐艦への指導など、通常業務をこなした大井は、夕方に携帯のメールを受け取った。
差出人は、父だった。
自由時間に基地を抜け出し、大井は呉の駅前で父と再会した。
去年の年末に帰宅して以来、数ヶ月ぶりとなる再会であった。「出張でここまで来たついでだから会わないか」というメールを見落としていれば、会う事もなかっただろう。
鞄と紙袋を提げたスーツ姿の父と駅前で落ち合ってから、2人は手近な喫茶店に入って、注文したコーヒーを飲みながら、久々の親子の会話に興じた。
「これ、職場の皆と分けて食べてくれ」
地元の銘菓が詰まったお土産の紙袋を手渡された大井は「ありがとう」と礼を言いながら受け取った。お茶請けには丁度いい菓子で、出来れば海外派遣中――船団護衛という日本が恋しくなる任務の時期――にあればよかったな、と下らない事を考えた。
「新しい家はどう?」
大井は尋ねた。
爆撃で家を失ってから、市の支援もあって新居――実際は集合住宅だが――に格安で入れる事になってから、ようやく一家は普通の生活へ戻れたという状態にあった。
「ああ、いい家だよ。前よりちょっと狭くなったけど、ずっといい」
父はそう言うと、しみじみと続けた。
「まぁ、薫がいなきゃ母さんと2人だけだからな。その点じゃ、あの家は広すぎる」
まだ任期終了はずっと先よ、と大井は釘を刺すように伝えた。
それから、父と子の世間話は続いた。
ご近所の人の話、最近の仕事の話、そして、話題は母の話へと差し掛かった。
「母さんは心配しているぞ」
「心配って……そんな大げさな」
大井は笑ったが、父の顔は曇ったままだった。
コーヒーを一際苦々しそうに啜りながら、父は続ける。
「家を失って、次は薫、お前を失うんじゃないかってピリピリしている。そっち関連のニュースを見る度に思い出すって、随分と気が気でないんだ」
大井は思い出す。
中部太平洋での作戦が実施され、米軍と共同の作戦が行われていた。詳細な内容はまだ機密になっているが、大まかな内容はマスコミ各社にも流れていた。横須賀や第7艦隊が苦戦している事は大井も耳にしていたし、すでに10名近い戦死者が出た事を大手新聞社がすっぱ抜いたのは記憶に新しい。
当然、わが子が艦娘になった両親たちには気が気でない情報だろう。
「……それは」
安心させる言葉を呟こうとしたが、父は更に続ける。
「母さんの同級生にも娘が艦娘の人がいてな。娘さんは前線に行って、最初の任期が終わる前に亡くなったそうだ。未だに遺骨の一つも戻ってこない、太平洋の海の底だ。鞄に収まる程度の遺品だけが戻ってきたと嘆いていた」
もし薫もそうなったら……と父は続けるが、言葉に詰まった。
これ以上は想像もしたくない、と言うのが表情から見て取れた。
「俺は薫が艦娘を辞めてほしいと――正直思っているが、いいんだ。薫が選んだ道なんだから父さんは応援するしかない。ただな、絶対に生きて帰ってきてくれ」
絶対だからな、と更に父は念を押す。
「家は幾らでも建てる事が出来るが、人は死んだらそこで終わりなんだ」
「……当たり前でしょ」
大井はそう呟いてから、ようやくコーヒーに口を付けた。
カップに揺れる、真っ黒な液体に視線を落としながら、大井は縮こまった背中でテレビや新聞を眺める母の姿を想像した。
心の中に、壁が現れたような気がした。
大井が父と会った翌日。
彼女はその日の業務を終えてから、司令部にある上官の部屋を訪ねる事にした。いつものように、その部屋には仕事中の上官、伊勢がいた。
「伊勢さん、相談があります」
開口一番、大井にそう言われて、伊勢は書類作成のためキーボードを叩く手を止めた。
「少し時間がかかりそう?それとも“ながら聞き”でもいい?」
「大丈夫です、すぐに終わりますから」
わかった、と言うと伊勢は仕事を再開した。
「まだ、酒田へ異動する艦娘の件、決まってないですか?」
「うん。決まってないよ」
伊勢はキーボードを叩きながら続けた。
「内地の東北の基地に異動だから、みんな「左遷だ左遷だ」って騒いでいて気が気でないみたいだし、こっちも色々やり辛くてね……適任の子があまりいなくて」
「私、そこに異動できますか?」
伊勢の手が止まった。画面から目を離し、大井へと向き直った。
「それってどういう……」
「言ったとおりの話です。酒田基地に異動できますか?」
伊勢は、大井の言葉を理解できないようで、目を丸くしていた。
「あれだけ前線部隊へ行くって言ってたのに、何で?もう二次改装の許可も下りるんだし、別に行かなくたっていいでしょ?」
「その……心変わりというか」
詰め寄られながらも、大井は久々に会った父との会話を思い出す。
「とにかく、その酒田基地への異動が可能かどうか、上の方に掛け合って貰ってもいいですか?」
「え、ええ……わかったわ、そう伝えておくから」
伊勢はどこか釈然としない表情のまま、急いでデスクに置かれた電話を取った。
基地の宿舎に戻り、一日を終えようとしていた大井はベッドに寝転がるなり特大の溜息を吐いた。天井をぼんやりと眺めながら、自分が伊勢へ持ちかけた話を思い出して、さらに大きな溜息を吐く。
何を考えているのだろうか?自分の中でそんな感情が今更ぶり返してきた。
父と会って話をしてからと言うもの、心の中にあった「迷い」に振り回された――そんな気がして大井は頭を抱えたくなった。
あの改装済みの艤装を背に、新しい制服を着て主力部隊の一員として前線へと向かう。
そんな栄えある選択肢、華々しい未来を、自分の手で握りつぶすような真似。
今更、後悔の念が心の中に渦巻き始めた。
翌日、午前の仕事を終えた大井の元に、伊勢が現れた。
書類の入ったファイルを片手に、伊勢は待機所に現れるなり、大井へ外に出るように伝えた。待機所を出ると、周りに人がいないか確認して、こほんと咳払いをしてからファイルを手渡した。
「酒田基地への転属が決定したわ」
そう伝えられた大井は、息を呑んだ。
通ってしまったのだ、自分の意見が。
「それが書類よ、詳しい内容については追って知らせるわ」
大井はファイルを受け取ったまま、固まってしまう。
何か言おうとしたが、それを遮るように伊勢は続けた。
「大井ちゃんの事だから、たぶんどの基地に行っても上手くやれると思うよ。新天地は大変だと思うけど、私は応援しているからね」
屈託のない笑顔だった。
大井は愛想笑いを返しながら、内心、自分を呪いたくなった。
大井は基地の休憩室に向かう。
喫煙所、ベンチ、自販機など一通りの設備がそろったそこには、何人かの艦娘がいたが、前線帰りの艦娘だと気がついて誰とも会話する気持ちになれず、ベンチの端に座ると、自販機で買った缶コーヒーをちびちびと飲み始めた。
気持ちを落ち着けようとした矢先に、大井の姿を見て休憩中の艦娘が近寄ってきた。
「柱島で訓練してた大井さん?」
その言葉に、大井は記憶を手繰り寄せた。
二次改装試験中に柱島演習場の休憩施設で出会った、軽巡の艦娘だった。名前を思い出せなかった大井は、そもそも彼女から名前を聞いていなかった事を思い出した。「また会ったね、隣いい?」と言いながら同じベンチに座る彼女を前に、大井はこの愚痴を誰か――目の前の部外者にぶつけたい気持ちになった。
「まだ呉にいたのね」
大井の問いに、彼女は「転換試験が長引いちゃってね」と答えた。
「改装試験はどう?改二になれそう?」
彼女の問いに、大井は首を左右に振った。
「試験は問題なかったわ、でも蹴って東北の基地に異動する事にした」
途中まで普通に聞いていた彼女は、思わず大井の顔を二度見した。
「え?蹴ったの?」
「雷巡の一次改装のままで、酒田基地に転属よ。怖気付いて、急に前線へ出るのが怖くなって……気の迷いで逃げ道に飛びついたのよ」
呆気に取られる彼女を前に、大井は自虐的な笑みを口元に浮かべて話を続けた。
「もう私が中央に戻る事は無いわ、キャリアの袋小路よ。酒田みたいな辺鄙な基地で任期を終える事になるんでしょうけど」
バカみたい、と大井は付け加えた。
「笑うなら笑いなさいよ、こんなグダグダで迷走した――」
「別に、いいんじゃないの」
彼女はあっけらかんとした顔で大井に言った。
「むしろ、羨ましいくらいだよね。暑くてじめじめした東南アジアや寒い北方の基地にずっといるよりかは、慣れ親しんだ日本の方が良いに決まってるし、平和が一番じゃん」
「……田舎の辺鄙な基地よ」
「それはそうだけど、いつだって家に帰れるでしょ?そんなに前線へ行きたいの?」
大井は答えなかった。答えたくない気分だった。
少しの沈黙が流れるが、彼女は大井の横顔で全てを察して、声のトーンを落として話を続けた。
「私の勤務地、海外にあるんだけど、毎日毎日色んな部隊が補給ついでに寄って行ったりするの。本土から来て、前線に向かう部隊の艦娘もよく見るけど、皆自信に満ち溢れたり、使命感を持ってるって気がする」
周りにいる艦娘たちに聞こえないように気を使いながら、彼女は大井に話し続けた。
「でもね、そういう人たちが内地に帰還する時は来た時と人数が違っている。海から帰ってこれなかった人たちを、私は何人も見たの」
大井は、缶コーヒーを握る手に力が入るのを感じた。
自分が目を向けようともしなかった現実を、改めて見た気がした。
「例え帰ってきても、無表情で何キロも先を見る目をしている人もいれば、まるで魂が抜けちゃったみたいな人もいる。もちろん、そうじゃない人も沢山いるけど、そういう風になっている艦娘が何人か、必ずいる」
そういう覚悟はある?と尋ねられ、大井は何も答えられなくなった。
――やっぱり、そうだった。
自分が熱に浮かされていた事を知った。あの日、激情に駆られて艦娘になった日と同じように、自分が「前線での活躍」という熱に浮かされていた。
そこに華々しい成功があると信じて、そこがどんな場所であるか知ろうとも思わずに。
バケツ一杯の冷や水を、頭からかぶった気分だった。
「前線に身を置くのはそういう事よ。私は――その覚悟を決めて転換試験を受けたから」
でも、ダメそう。と彼女は続けた。
「私なんて金剛型の転換試験もさっぱりだし、やっぱり軽巡のままなのかな。せめて重巡ぐらいにはなれたらいいと思ってるけど……」
「いいんじゃない?今更変えたって。あなたなら出来るかもしれないわ」
そう言うと、憑き物が落ちた顔で大井はベンチから立った。
じゃあ、と素っ気無く挨拶を交わすと、そのまま立ち去っていった。
1人残された彼女は、不意に呟いた。
「重巡かぁ……」
今更になって艦種を金剛型から重巡に変えたいと言っても大丈夫だろうか?そんな事を考えていた彼女は上官へ直談判の電話を入れるべく、席を立って急いで駆けて行った。上官に勧められていた艦種に、青葉型の二番艦があった事を、彼女は思い出していた。
酒田基地の事務室では、全てを書き終わり、プリンターから吐き出された書類を纏めた大井がようやく一息ついていた。
休憩を済ませてから1時間、ようやく仕事を片付ける事が出来て大井は肩の荷が下りる気持ちであった。時計の針を眺めてから、風呂を済ませて就寝するには十分な時間で仕事が終わった事に安堵した。
閉じたラップトップと書類を小脇に挟み、席を立って事務室を後にする。
誰もいなくなった部屋をもう一度見回してから、大井は照明のスイッチに手をかけながら、ふと艦娘になってからの自分を思い返した。
前線に自分がいたとして、どうなっていただろうか?
華々しく活躍して、その魚雷を振り回しながら深海棲艦を蹴散らし、艦隊決戦の花形として、艦娘として大成していたかもしれない。
それとも。
大井はそれ以上考えない事にした。
少なくとも、今の彼女には彼女なりの満足できる生活があった。
分遣隊での生活は平穏そのものであり、呉にいた頃とは違った個性的な同僚に囲まれているし、部下である駆逐艦たちの面倒を見たり、上官として指導する忙しい日々を送っている。もちろん、山のような事務仕事や雑務も残っているが、退役後の人生を考えればそれらは十分に役に立つ経験になるだろう。
少なくとも、今はこの選択が後悔であったと思わない。
大井は口元に微笑を浮かべながらも、事務室の照明を落とした。
【こぼれ話】
大井が主役の回。概念まとめでは一切過去が語られなかった(と言うより出番が少なかった)大井がどんな理由で艦娘になったのか、そしてどういう経緯で分遣隊に来たのかという理由を書く為の回になりました。前2つと合わせて完全に自分の脳内設定全開で書きなぐった回でしたが思いのほか好評でした。
8月末のイベントでアドバイスをもらった事もあり、別に概念の纏めで語られていなくても書けばいいじゃないか、と踏ん切りが完全についた回でもありました。
衣笠の軽巡時代(同人誌の「艦娘募集パンフ」より参考にしたネタ)と、大井との馴れ初めを書く回でもあり、学生時代の大井の話や生い立ちも語りつつ、世界観を広げたりと忙しくなった結果17000字という長尺になりました。でも原作ゲームのボイスで絡みのある2人を書きたかったのでこれで良し。大井っちは当人の与り知らない所で、人を変える力のある人だったらいいな、と思っています。