プレハブ分遣隊ZERO   作:Tibetan Brown Bear

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私が分遣隊に来た日

 初夏の風に乗って運ばれてくる潮の匂いが好きだ。自転車を漕ぎながらセーラー服を着た少女――今年で15歳になる式沢遥はそんな事を考えていた。

 漁港にある祖父の家へ向かうルートは、何度も行った事のある道のりだが、家が内陸にあり、山に囲まれて海が見えないという理由もあってか、山を越えて潮風がふわっと体をなで始める度に違う世界へ来たような気持ちになった。県道を抜けた時に見える景色は格別で、「東北の江ノ島」と呼ばれるに相応しい綺麗な情景が好きだった。

 

 自転車を漕いで、緩やかなカーブを描く県道を抜けて町へと入る。

 大きな商店もスーパーも、娯楽施設も無い、漁港と民家があるだけのその小さな港町に入る。立ち並ぶ民家、民宿、郵便局――子供のころから変わらない景色を通り過ぎる。

 道中、遥は自分と同じくらいの歳に見える少女とすれ違った。

 紺色に錨のマークを付けた帽子に、セーラー服。銀髪という目立つ髪の、青い目をした少女。それを見て、遥は相手が艦娘だと直感で分かった。

 煙草の匂いをかすかに漂わせた艦娘は、煙草で一杯になったビニール袋を提げて、そのまま漁港の方面へと向かっていった。

 

 見慣れた光景だった。

 この町の漁港には艦娘がいる。酒田にある基地から派遣された分遣隊が設置されていて、小規模ながら艦娘の部隊が常駐していた。深海棲艦の活動が活発化したため、近海の安全確保を理由に分遣隊が設置された、というのが理由だ。

 とは言っても、遥を含めて地元民たちはあのプレハブ建ての施設が到底艦娘たちが詰める日本海の防衛施設だとは思えなかったし、中には指摘されて始めて分遣隊が設置されている事に気がつく者もいる。漁港に用事がある人が、うっかり間違えて分遣隊の施設に入る事もあるし、逆もよくある事だった。

 つい最近、漁師を引退した遥の祖父も、この艦娘たちの事を話していた。

 皆可愛くて若いだの、彼女たちのお陰で安心して漁へ出れるなどと嬉しそうに、そして誇らしげに語っていた事を遥は思い出していた。

 

 そうこうしている内に、遥は祖父の家の前にたどり着いた。

 自転車の鍵を外そうともせず、そのまま家の前に自転車を停めたままにすると、自転車の籠に放り込んだスーパーの買い物袋――中に野菜や肉などの食材が詰まった――を手に、引き戸をがらがらと空けた。

「爺ちゃん、来たよー」

 遥の声に、部屋の奥から祖父の間延びした返事が返ってきた。

 この家に今住んでいるのは、遥の祖父だけだった。祖母と祖父の2人暮らしだが、祖母は急病で入院中で、今は祖父が独りで暮らしている。退院予定は早くても9月末であったが、タイミングを悪くして祖父が事故で足を骨折してしまい、今は遥と両親が、祖父の食事や買出し等の面倒をたまに見ている状態だった。

 

 遥も、最近足しげく祖父の家へ通う内に、段々と彼女――艦娘たちの日常を知るようになった。

 日々の定期哨戒として出撃していく艦娘もいるが、大抵の場合は彼女たちは漁港をぶらぶらしていた。平和そうに釣りへ興じている時もあれば、漁港の外周をランニングしていたり、ここから離れたコンビニへ買出しに行ってくる事も多々ある。彼女たちの談笑の声が、静かな漁港に響く事もままある。

 出撃を待機しているのか、それともやる事が無いのか、遥には知る由も無かった。それでも、漁港のスロープからその両足だけで浮きながら海面を走る彼女たちの姿に最初は衝撃を受けたし、ひとたび海に出れば彼女たちの表情は、陸にいる時よりも凛々しく(単に自分がそう思っているだけかもしれないが)見えた。

 艦娘たちの髪色も、制服も、顔立ちも、派手だったり地味だったり様々だったが、遥には遠いようで近い存在に思えた。

 学校にいるクラスメイトたちは、テレビや酒田のイベントでしか艦娘を見た事がない、と言う者も多くいた。しかし、遥にとっては日常生活に溶け込んだ、まさに「いつもの光景」として艦娘を頻繁に見ていた。

 

 晩御飯を作り終えた遥は、そのまま祖父の家で夕飯を食べて帰宅する事にした。

 今日の晩御飯――肉じゃがと、ほうれん草のおひたしと、味噌汁とご飯、漬物。簡素だが、祖母と母の手ほどきを受けた遥の得意な和食が、食卓へと並んだ。

「いただきます」

 祖父と遥の声が響いてから、テレビから流れる夕方のニュース番組をBGMに食事を始める。料理を箸で突きながら、祖父は満足げに食事を楽しんでいる様子だった。

「遥の料理は美味いなぁ、婆さん似の味だ」

「褒めたって何も出ないよ」

 祖父の言葉に冗談を返すが、遥は嬉しい気持ちだった。

 それから、少しの世間話を交わしながら、遥は今日すれ違った艦娘の事が気になり、祖父へと話を振った。

「ねぇ、漁港の艦娘って、どんな人がいるの?」

「艦娘?あぁ、あの分遣隊の?」

 ずず、と味噌汁を啜ってから祖父は言った。

「えーっとな、重巡洋艦ってのが2人いてな、軽巡洋艦ってのが2人、そして駆逐艦ってのが数人くらいだな、全員で8人はいるな。駆逐艦は大体遥ぐらいの背格好だ。戦艦やら空母やら、派手で強いのはいないがな」

「今日、来る時にセーラー服の艦娘とすれ違ったんだけど。その子も駆逐艦かな」

「髪の色は?」

「銀色だった、錨のマークが付いてる帽子の……」

 味噌汁のお椀を置いてから祖父は答えた。

「ああ、灰住か。あいつぁ煙草と酒が滅法好きでな、前に漁港の宴会に顔出した時はいい飲みっぷりだったもんだハハハ」

 漁師だった時のエピソードを思い出して祖父は笑った。

「酒に強いって聞いてたが、ありゃあ漁港で一番の酒飲みで、酒豪だよ」

「ふーん……」

 という事は成人済みの艦娘か、と遥は納得した。そうでなければ煙草を抱えて出歩いてる非行少女にしか見えないだろう。

「しかしまぁ、酒飲みであれ何であれ、艦娘がいるおかげで安心して漁に出れると考えりゃ文句はないさ。艦娘は漁港の守り神ってとこだ」

「深海棲艦、まだ出るの?」

 祖父は頷いた。

「一昨日も深海棲艦の駆逐艦だったが出て、分遣隊の艦娘が撃退するまで漁が中断になったって聞いた。1匹2匹程度のはぐれたような雑魚しか出てこないが、漁船と衝突したり撃たれたり、網を千切られた日にはもう大惨事だからな、死活問題だ」

 祖父の顔には険しい色が浮かんでいた。

 深海棲艦が出るようになってから、日本の漁業も様相が変わってしまったと言われている。祖父が漁師だった遥にとってはそれは身近な話であったし、祖父自身の口から幾度と無く話を聞いていた。祖父の知り合いには、深海棲艦の犠牲になり海から帰ってこなかった漁師もいるという。

「最近じゃ、日本海側で深海棲艦が増えてきてるって噂を分遣隊の仲原さんが話してるって、又聞きしてな。大事にならなきゃいいが」

 肉じゃがを箸で突きながら、祖父は食事を再開した。

 

 食事を終え、食器を洗って片付けると、遥は帰宅の準備を始めた。

 作り置きの手料理を容器にまとめてラップをかけて冷蔵庫へ入れ、明日の朝食としてレンジでチンして食べるように祖父に伝えてから、遥は祖父の家を後にした。

 既に日は落ち、空が夕闇に染まるマジックアワーになっていた。

 

 気分転換に海沿いを自転車で走っていると、漁港から出航する艦娘が見えた。

 来る前にすれ違った、銀髪の艦娘だと遥はかろうじて確認できた。こっちを見たような気がしたので、遥は自転車を止めて、大きく手を振ってみた。

 気が付いてないだろうか、と思った遥だったが、その艦娘はこちらに気が付いて手を振り返して見せた。

 

 ――見てくれてた。

 艦娘に手を振ってもらった、それだけの事が嬉しくなった遥は、上機嫌にペダルを漕ぎながら家路についた。

 

 

 

 

 

 数日後。

 その日の授業と部活動を終え、遥は市内にある自宅へと戻った。

「ただいまー」

 玄関の扉を開け、靴を脱いで遥は自宅に上がった。キッチンから母の「おかえりー」という間延びした声が聞こえてきた。居間では作業着姿のまま、仕事帰りの父が寝転がって再放送の時代劇を見ており、遥へ「おかえり」と短く声を返した。

 喉が渇いた。遥はそんな事を思いながらキッチンへ向かい、戸棚から湯飲みを取り、冷蔵庫からピッチャーを取り出して冷えた麦茶を注いで煽った。生き返るような気分だった。

「遥、今日はお爺ちゃん家には行った?」

 母の言葉に、遥は首を左右に振った。

「明日行く。そろそろ作り置きの煮物もなくなるだろうから……」

 たんと美味しい物作ってあげなさい、と母は微笑みながら返した。

 

 いつもの日常だったが、こんな日はいつまで続くのだろうか。そんな事を遥は考える。

 高校生の兄――二階の自室でゲームでもしてるであろう――はそろそろ進学か就職か、進路を決定しなければならない時期だったし、遥もそろそろ高校進学という進路を考えなければならない時期だった。

 進学先の高校を選ぶ事はもちろん、これからは受験勉強で忙しい時期に入るだろう。いずれ4人家族のこの家も兄の進学で3人になるし、学校の友人たちも進学でそれぞれ離れ離れになる者も出てくるだろう。

 だが、先の事を今考えても仕方ない――そう思って敷波は気を取り直して、暇潰しに母の料理の手伝いでもしようかと考えた。

 

 そして、

 非日常は突然襲ってきた。

 

「あ!?」

 部屋の中に突如としてブザーのような警報音が鳴り響く。

 こんな音が鳴るものは家に無く、テレビからもそれらしい音は流れていない。何事だろうと思った遥は、すぐにそれが自分の携帯電話から流れている事に気がついた。

 一体何だろうか、と思って反射的に携帯電話の画面を見た。

 メッセージが入っていた。遥は、それが災害時に流れる緊急速報だと知った。地震か?と思った遥だったが、画面に踊っていたのは「深海棲艦の大艦隊が接近中」という文字だった。

「深海棲艦……?」

 遥は思わず首を傾げたが、次の瞬間に時代劇の再放送を流していたテレビ画面に、緊急ニュースを告げるチャイムとテロップが流れ始めた。

 画面上に表示された「日本海沿岸に深海棲艦警報発令」の文字を見て、遥の背筋へ冷たい物が這った。それは数年前にニュースで見たあの光景だった。忘れもしない、空襲や艦砲射撃に襲われる、太平洋沿いの街の映像。太平洋戦争以来、日本人にとって何十年ぶりとなる本土への攻撃、戦争――

 

 そんな物とは無縁だと、どこか心の中で思っていた遥は、いきなりの事態に頭が真っ白になった。そんな馬鹿な、そんな筈は。

 居間で寝転がってテレビを見ていた父が、起き上がって目を丸くした。

 テレビの映像はすぐに切り替わり、慌しく動くテレビ局の報道フロアと、原稿を手にカメラの前に座ったアナウンサーが写された。

『番組の途中ですがここでニュースをお伝えします。先ほど5時45分ごろ、日本海上で大規模な深海棲艦艦隊が発見され、日本海沿岸に深海棲艦警報が発令されました。これに伴い、日本海沿岸の各都市に避難警報が……』

 遥は急いでテレビを食い入るように見つめた。

 

 こういった画面は過去に何回か見た事があった、地震による津波警報のように、避難指示が出ている沿岸沿いに、赤や黄色のラインが浮かぶようになっている。

 それを見て、遥は顔が青ざめた。

 自分たちのいる町は、深海棲艦の上陸・攻撃確実とされる地域のど真ん中にあった。

 

 防災放送のチャイムが鳴り、避難を指示するアナウンスが屋外に響き渡る。

 急いで料理の手を止め、ガスの元栓を切った母が、どたどたと部屋の中を駆け回った。

 部屋着姿の兄が急いで二階から降りてくる。兄も驚いた顔を浮かべていた。通帳と印鑑を急いで手提げ袋に入れた母が、エプロン姿のままで家を飛び出した。

 自宅の駐車スペースには、母と父の自家用車2台が停められていた。母が急いで自分の車に乗り込み、兄がそれに続いた。しかし、父はそれを見てからわざわざ自分の車へと急いだ。

 運転席から顔を覗かせた母が「早く乗って」と声をかけるが、父は首を左右に振った。

「俺は親父を見てくる、お前たちは先に避難しろ!後から行く!」

 切羽詰った父の声に、母はすぐに頷いた。

 遥は、そう聞いて母の車ではなく父の車の助手席へと飛び乗った。

「遥、お前は母さんの車に……」

「爺ちゃんが心配だからあたしも行く」

 遥はそう訴える。父は遥の目を見てから、黙ってエンジンをかけた。肯定と受け取った遥は、シートベルトを掛けて覚悟を決めた。

 

 走り出した車は、漁港方面から避難する大量の車とすれ違いながら、すぐに港町へと付いた。地域の防災放送がひっきりなしに鳴り響く中、目的地である見慣れた家の前へ車が停車した。

 エンジンを止めもせず、遥の父は急いで車を降りると祖父の家へと入る、続けて遥も中に入った。祖父の名を呼ぶ父の声に、部屋の奥から声が上がったことに遥は僅かに安堵した。

 松葉杖をつきながら、祖父は家電話の子機を片手に誰かと話しているようだったが、息子と孫の顔を見てからすぐに通話を切った。

「隆、何でここに来たんだ!?俺に構ってないで早く避難を……」

「そう言ってる場合じゃない!その足だけで避難するのは無理だろ!」

 息子の剣幕に思わずたじろいだ祖父だったが、電話を放り投げてからすぐに避難の準備を始めた。

「漁港の連中の安否確認は取れた、早く逃げよう」

「急いで車に乗って!早く!」

 そう言われるがまま、祖父は慌しい足取りで、不自由な足を松葉杖で何とか支えながら家を出て行こうとする。

 

 ふと、遥は窓の外を見た。

 

 祖父の家の窓から、漁港と港町の景色を一望する事が出来た。夕陽に染め上げられた海へ、漁港から飛び出る幾多もの影を遥は目にした。

 艤装を背負い、武器を手にし、綺麗な陣形を組んで海の上を走る少女たち。

 遥も、漁港から出撃する艦娘を見た事は幾度となくあった。

 しかし、今日は様子が明らかに違った。普段なら見かけない12人という大人数、それに混じって、駆逐艦と呼ばれる軽武装の艦娘とは違った威圧的な主砲を携えた巡洋艦の艦娘が、日本海へ向かって突き進んで行くのを見た。

 その勇壮なシルエットに、思わず遥は目を奪われたが、急いで祖父の後に続いて父の乗る車へと向かっていった。

 

 避難警報が解除されたのは、発令から数時間後の事だった。陽はとうの昔に落ち、辺りはすっかり夜になっていた。

 警察や消防に誘導されるがまま、より深い内陸部へ避難し、避難場所となった学校で、警報解除を待っていた遥とその一家はようやく自宅へ帰れる事に安堵した。

 ラジオに耳を傾け、テレビや携帯電話を注視して情報を漁っていた人々の顔に安堵の色が浮かび、何一つ損害がない――家も、店も、学校も、畑も、日常にある何もかもが無事――というニュースに胸をなでおろした人々は、横須賀や呉空襲のような悲劇や、艦砲射撃という悪夢が避けられた事を喜んだ。

 避難していた人々が徒歩や車で、避難所から自宅へと戻っていく中、遥の家族もまた、避難所から家へ戻る道についた。

 兄は母の車に乗って自宅へ、そして父と遥は、祖父を送り届けにあの港町へと向かった。

 

 車内は未だ緊張しつつも、警報が発令されたその時よりは落ち着いた雰囲気だった。

 しかし、車内の祖父の顔は晴れない様子だった。

「爺ちゃん、どうしたの?」

 父との会話に混ざろうともせず、黙っていた祖父は、遥の言葉に重たい口を開いた。

「……艦娘が無事かはわからんな、これじゃあ」

「艦娘?ああ、あの」

 遥は避難した時の光景を思い出した。

 漁港に設置された分遣隊の艦娘が、夕日を浴びながら出撃していく光景だ。

「由良にいるのは、皆駆逐艦や軽巡ばかりだ。普段のニュースや宣伝に出てるような空母や戦艦など居やしない。ニュースじゃ民間人の被害は無いと言ってたが……」

 祖父の表情に曇りが見えた。

「あの深海棲艦の数じゃあ、殉職者が出たかもわからん」

 その言葉に、車内は再び暗い空気になった。

 

 港町に戻り、遥と父と祖父は家へと戻った。「また何かあると大変だから、今日はここで泊まっていく」との父の言葉もあり、遥も素直にそれに従う事にした。

 遥は、避難する前に漁港を一望したあの窓の前に立った。

 外灯や車のヘッドランプで照らされた漁港は、一際明るく見えていた。帰還する艦娘たちの姿を見ようと思った遥は、漁港に詰める人数に驚いていた。

 警察官や、基地の職員と思しき人たちが忙しなく駆け回り、救急車も何両か停車していた。担架に乗せて運ばれる女性――艦娘と思しき人を乗せて救急車がサイレンを鳴らして発進していった。

 艤装を背負った若い少女たちもいたが、彼女たちの半数は憔悴しきっており、中には泣き崩れている者や蹲ったまま動かない者もいた。

 遠巻きにそれを眺めていた遥は、これが戦争の光景だと知って手が震えそうになった。

 

 

 翌日から、いつもの日常が戻ってきたように思えた。

 遥は祖父の家から自宅へ戻り、いつものように通学をしたし、父もいつものように仕事場へと向かった。

 だが、深海棲艦の大攻撃を告げるニュースは新聞とテレビにひっきりなしに流れていて、いつもなら長閑な空は、自衛隊の飛行機やヘリコプターが忙しなく飛び交う騒々しい空へと変わり果てていた。深海棲艦への反撃作戦と安全確保のため、民間船舶は航行を禁止されるか、あるいは限定される措置が取られており、テレビを見る限りでは報道各局が酒田へ押し寄せているようだった。

 遥は登校して早々、朝礼で担任から「深海棲艦の空襲・砲撃がいつ来てもいいよう、避難訓練の内容を思い出すように」と伝えられてから、ますます日常という物が戦争という、忘れかけた異物に支配されたような気さえしていた。

 つい最近まで漁師だった祖父が「たまにはぐれた深海棲艦と艦娘が戦闘する事が、この近所でもある」と言っていたのを思い出してはいたが、こうも大きな物は始めてであった。それだけ、昨日の事件がいかに大事件だったかを遥は痛感した。

 

 それから少しして、遥の住む町は平穏な日常へと戻っていった。

 深海棲艦掃討作戦の完了により、日本海側の安全度は例の事件以前まで戻った事、あの日の戦闘で1人の艦娘が殉職した事がニュースで伝えられて以降、この事件は記憶の片隅に忘れ去られて行った。

 だが、遥にとって、皆が記憶の片隅に追いやったあの日の出来事は、鮮明な記憶として脳裏に焼きついている。夕日が沈む日本海に向けて出撃していった、勇壮な艦娘たちの姿を。

 遥の心には艦娘になりたい、というもう一つの選択肢が生まれていた。

 

 

 

 

 

 秋のある日。

 遥は、学校を終えて帰宅してから、すぐに自転車に飛び乗って家を飛び出した。

 ペダルを踏み、山の合間を縫って伸びる県道を走り、漁港へと向かった。今日こそは艦娘に「どうすれば艦娘になれるか」と話を聞くつもりだった。

 自転車を漁港の近くに止めて、遥は漁港の中に足を踏み入れた。

 漁港の施設に溶け込むように、分遣隊の施設は存在している。それを見回しながら、遥はどうしたものかと思案する。

 艦娘に直接声をかける、と言うのも緊張するし、かと言って手近な施設のドアをノックするのも勇気がいる。いざ現地に来たはいいものの、遥は途方に暮れていた。

 

 また、日を改めよう。

 そんな事を考えようと、停めた自転車に戻ろうとして、遥は後ろに立っていた人影と目が合った。ひっ、と思わず遥は声を上げた。

 日本人離れした銀髪と、セーラー服と錨のマークが付いた帽子――艦娘だった。遥は、彼女が何度かすれ違った事がある駆逐艦だとすぐに気が付いた。

 

「……迷子?」

 銀髪の艦娘はそう呟くが、遥は首を左右に振った。

「艦娘でも見物に来たのかい」

「ちょっと用事があって」

 かちこちに緊張する遥だったが、銀髪の艦娘は気だるそうな瞳で遥を見てから、問いかけた。

「何の用事だい?艦娘と漁師、どっち?」

「えっと……えーっと……ちょっと艦娘の人に話を聞こうと思って」

「どんな?」

 そう問い質されて、遥は少し困った顔を浮かべた。

 いざ口に出すと少し勇気が必要だった。艦娘になるにはどうすればいいか聞きに来た、と答えるだけなのだが、本職の艦娘を前にすると緊張で尻込みしてしまう。遥は何とか勇気を振り絞って答えた。

「そ、その……艦娘になるにはどうしたらいいか聞こうかと」

「そう」

 銀髪の艦娘は、すっと二階建てのプレハブを指差した。

「案内するよ」

 

 彼女に案内されて、一緒にプレハブ建ての司令部に向かう中、その艦娘は簡単な自己紹介を遥にした。

「私は響、駆逐艦の艦娘だよ。灰住って名前もあるけど、少なくとも部隊じゃ私を響と呼ぶ。君もどっちか好きな方で呼んでいい」

 歩きながら、響は漁港の反対側を指差した。

「あっちは格納庫と待機所――仕事場だから、窓口はそこの司令部だ。次に用があるなら、こっちの司令部に行くといい」

 説明されている内に、2人は司令部の前に立った。

 遥は、いざ司令部を目の当たりにして緊張した。

「本当は上官に一報を入れるべきなんだろうけど、生憎みな非番か事務仕事中でね。私でよければ教えてあげようか?」

 お願いします、と遥は答えたが、その声は緊張で裏返った。

 

 先に響が風除けの扉を開け、戸を開けた。

 入り口から見えるプレハブの中は質素な物だった。

 その艦娘の言う通り、中はガラガラで、無線番をしている艦娘と、事務仕事中と思しき2人の艦娘がいるだけだった。どうやら備品の発注云々や報告書の話になっているのか、専門用語に混じって、軽く言い争いが起こっているようで、騒がしい雰囲気が玄関外の遥にも伝わった。

「ここはうるさいな……」

 響はそう言うと「そこで待っていて」と遥に伝えてから窓口に置いた艦娘募集パンフレットを手に取って、そそくさと入り口まで戻ってきた。

「外で話そう。それでいいかい?」

 遥は大丈夫です、と答えた。

 

 プレハブの階段下、そこには煙缶とベンチの置かれた喫煙所があった。

 そこに案内された遥は、響と並んでベンチに座った。相手が未成年という事もあってか、響は癖のように取り出した煙草の箱とライターを、思いとどまってポケットへ戻した。

「とりあえず志願票の書き方はこの中に載ってるから参照してほしい。後は書いたらここの窓口か、他の地本の窓口に提出するだけ、以上」

「それだけ……?」

「それだけ」

 響はキッパリと言い放った。

「艦娘の募集説明は長ったらしいからね。詳しい説明を受けたかったら酒田に行くといい。そこだったら色々と詳しく説明してくれる。大事なのは気持ちと覚悟だよ」

 響はぱらぱらとパンフレットを捲りながら続ける。

「イルカと並んで航行するCMが切欠なら、やめた方がいい。人生を棒に振る。前線で深海棲艦相手に死力を尽くして戦うか、でなければここみたいな場所で哨戒と事務仕事をするだけの生活だ」

 響の言葉に、遥は思わずプレッシャーを感じた。

「もっといい進路だってある筈だよ、艦娘になるという事は、最悪死ぬことを覚悟しなきゃいけない。志願する前にしっかり考えた方がいい。現職の本音のアドバイスさ」

 遥は思わず面を食らった。響は構わず続ける。

「どうして艦娘を目指そうなんて思ったんだい?」

 響の言葉に、遥はきゅっと拳を握った。

「あの日、ここで見たから。深海棲艦をやっつけに、あたし達の町を守ってくれた艦娘を。だから……」

 遥の声は途中で途切れそうになるが、響は割り込むように尋ねる。

「君は、ここの生まれかい?」

 遥は頷いた。

「爺ちゃん家が近くにあるから」

「もしかして、今年引退したあの人の……」

 はい、と遥は答えた。全てが腑に落ちたのか、響は頷いた。

「なら、止める理由はないね」

 そう言うと、響は募集パンフレットを遥へと差し出した。

「倍率的にもまず落ちないと思う、書類の不備には気をつけて、本隊の三隈って重巡ぐらい下手でなければ受かるはず。入隊前のアドバイスはそれぐらいだね。重ねて言うけど私だけじゃなく、本隊――酒田の方でも話を聞くといい。鬼怒っていう艦娘が上手く説明してくれるから」

「あ、ありがとうございます」

 パンフレットを受け取った遥は思わず頭を下げた。

 

 去っていく遥を見送ってから、響は喫煙スペースに戻るとベンチに再び腰掛けた。ようやく一息つこうと、反射的に煙草の箱とライターを取り出した。

 プレハブの階段を踏む足音が近づく、響は、書類仕事の休憩に入った隊長の衣笠だと気がついた。恐らくは響と同じ煙草休憩目的だろう。

 案の定、階段下の喫煙スペースにやってきた衣笠は、お気に入りの銘柄とライターを片手に響の隣に腰かけた。

「響、なんかさっき女の子と話していたみたいだけど、何かあった?」

 衣笠の言葉に、響は頷いた。

「未来の艦娘になりそうな子と、ちょっと話をしてた。式沢さんちのお孫さんだ」

「……え?」

 衣笠は急いで喫煙スペースから飛び出すと、あたりを見回して遥と思しき人影を見た。すでに人影は遠く離れて小さくなっていて、漁港の近くに停めておいた自転車に跨ると去って行った。

 行ってしまった、と衣笠はがっくりと肩を落として喫煙スペースまで戻ってきた。

「艦娘志望者が来たの!?うちに!?」

「そうみたいだね」

 響は煙草を銜えると、ライターで火を点して紫煙を吸い込み、美味そうに吐き出した。してやったり、と言う顔だった。

「何で人が仕事してる時にそういう事するかなぁ……呼んでくれたら、直々に手取り足取り説明してあげたのに!」

「隊長がやると却って逆効果かもしれなくてね」

 響のあっけらかんとした物言いに衣笠は一瞬だけムッとした顔を浮かべるが、響は嬉しそうな笑み――実際にはほんの小さな微笑を浮かべた。

「まぁ、あの子は必ず艦娘になるよ。私たちがここにいる意味をよく知ってるだろうからね。私も初めてだよ“艦娘冥利に尽きる”なんて思った事は」

 響は嬉しそうに笑った。

「……どういう事?」

 話を飲み込めない様子の衣笠を前に、響は返した。

「ラキスト1カートンくれたら教える」

「……あんたねぇ」

 衣笠の呆れ顔を前に、響は美味そうに煙草を吸った。

 

 

 

 例年通りに桜が開花する中、卒業式を終えた遥は必要な荷物を揃えていた。

 クラスメイトの殆どは進学を決定し、多くが県内の高校へ、中には県外の遠い進学校へと向かう中、遥は入隊を目前に控えていた。

 あの日、響という艦娘に言われた通り、志願票を片手に酒田基地まで訪れ、件の艦娘、鬼怒から一通りの説明を聞いた遥は志願票を提出した。試験にも受かり、晴れて入隊が決定した遥はあっさりと進路が決まり、受験で忙しいクラスメイト達を尻目に入隊準備に追われた。

 どうして艦娘になるのか、そんな言葉をクラスメイトに切り出されもしたが、遥の心は揺るぎなかった。両親も、兄も、果ては祖父と祖母も遥の決断に最初は面を食らった様子だったが、どうしても艦娘になりたいという遥の声を受けて、力強く後押しをしてくれた。

 15歳の春。

 彼女はこの小さな町を飛び出した。

 

 

 

 

 舞鶴基地。

 日本海の防衛を担う艦娘たちが詰める大基地、そこに艦娘の養成学校はあった。

 入隊式と宣誓を終えた遥は、真っ先にそこへと送られた。そして、遥は訓練初日に出撃用スロープの近くにある格納庫へ、他の訓練生たちと一緒に集められた。

 

 整列し、何が起こるか待っている間、赤い制服に身を包んだ艦娘がやってきた。

「やぁ、艦娘候補生のみんな。私が初頭訓練の担当教官、川内だよ。よろしくね」

 フランクな挨拶と、人懐っこい笑顔に訓練生たちは面食らいながらも「よろしくお願いします」と挨拶を返した。姿勢を正し、ガチガチに緊張する彼女たちを前に川内は話を続けた。

「とりあえず、今回は基本の基本、訓練用艤装を付けて港の内部を動き回る訓練から始めるね」

 そう聞かされて、候補生たちは互いの顔と川内の顔を見た。

 動揺していた。もうそんな事を?という驚きが見て取れた。それを見透かすように、川内は笑う

「いきなり航行だなんて驚く子もいるかもしれないけど、補助輪付きの自転車に乗るようなものだからね。私以外の教官や艦娘のバックアップも付いているし、今から装着してもらう訓練用艤装は誰でも使える基本中の基本みたいなものだよ。何ならそのへんの子供に装着しても使える代物だから」

 よし、じゃあまずは背負ってみようか、と川内は格納庫の隅を指差した。

 全員分の艤装がすでに用意されていた。

 格納庫で、遥ら候補生たちは訓練用艤装を装着した。

 蛍光テープが各所に張られた、白色に塗装された訓練用の煙突付き艤装を背負い、それから足に嵌める“船体”を装着する。鉄製でどう見ても重たいと遥は思ったが、どういう原理か、遥はそれを軽く背負う事が出来た。

 他の候補生たちも艤装を装着し、格納庫を出てスロープの前に集合、整列する。すべての訓練生が背負ったのを確認できてから、川内は話を始めた。

「さて、これから皆は艦娘としての記念すべき第一歩を踏み出す事になるけれど、まず先に教えておく事があるよ、いい?絶対にパニックにならない事、これが第一だからね」

 念を押す川内の言葉に、全員が返事をした。

「よし……じゃあ、海に向かって前進!」

 

 スロープを歩いていく。練習用艤装ががちゃがちゃと音を立てる。

 海に向かっていく、それだけで遥は緊張していた。

「わっ」

 思わず声が出た、遥が踏み出した右足は、沈むことなく水面へと浮いた。

 恐る恐る次の足を踏み出す、左足は同じように水面へと浮く。不思議な感覚であった、本来であれば沈むであろう足が、水面を踏み抜かないという光景はいざ自分が目の当たりにすると奇跡のような光景に感じられた。

 同じように、周囲の候補生たちも水に自分の身体が浮いている事に興奮している様子だった。ある者は驚愕の声を上げ、ある者は歓喜の声を上げ、またある者は改めて不思議な光景に困惑しているようであった。

 

「よーく覚えておきなよ!艦娘は艤装を付けている限り水に浮く。今は凄い事だと思うけど、退役して艦娘辞めるまでこれは「当たり前」の事になるからね。こんなのは物序の口に過ぎないよ!」

 にしし、と候補生たちに声を掛ける川内の声は実に楽しげだった。

「じゃあ、とりあえずは初歩的な訓練からだね。まずは――あそこにあるブイとブイの間、そこを目指して航行するよ!返事は?」

 川内の言葉に、候補生たちの威勢のいい返事が一斉に返った。

 

 時間はあっという間だった。

 実技訓練の終了を告げるアナウンスと共に、候補生たちはスロープから陸に上がった。整列し、教官の話を待った。

「どう?実技訓練初日は?」

 嬉しそうな顔で聞いてくる川内の顔を見て、遥は恐らく「疲れた」だの「大変だった」という答えを期待していように思えた。しかし、そこは艦娘の訓練教官だ、迂闊に答えると厳しい返事が返ってくるに違いないだろうと誰もが思った。

 どうしたものかと答えに困っている内に、返事を待たずに川内は答えた。

「多分皆疲れたとか大変だった、と思ってるだろうね。まぁ、私としては転覆する子がいなかっただけで満足だね。皆海に立つ事が出来て、ほっとしてるよ」

 去年は3分の1がここで転覆して悲惨な結果になったから、と川内は続けた。

 それを聞いて候補生たちは互いに顔を見合わせた。皆、一様に無事に航行出来た事を思い出して、それをクリアした事に安堵している様子だった。

「これで今日の訓練は終了!皆お疲れさま。訓練用艤装を返還してね」

 川内の一言で訓練は終了し、候補生たちの顔に疲れの色がどっと押し寄せた。それぞれが背負った訓練用艤装を外しながら、出撃用スロープの近くにあるハンガーへと向かっていった。

「あなた、式沢ちゃん?」

 背負った訓練用艤装を外し、ハンガーへ向かっている最中、遥はふと川内に呼び止められた。

「中々今日はいい動きだったよ。初めてにしては小慣れた感じだったね」

 ありがとうございます、と遥は反射的に頭を下げた。

 今日の遥の立ち回りは、ぎこちないながらも候補生の中ではかなりまともな方だった。遥が、祖父の家から眺めていた分遣隊の艦娘の動きを、見よう見まねでやってみただけだったが、褒められたのは素直に嬉しかった。

「今日はどうだった?まだ初日だけど」

「もっと厳しいものかと……」

 遥の口から、ぽっと本音が漏れた。

 それを聞き、川内は快活に答えた。

「まあ、最初はこんなものだよ。出来れば皆、楽しく元気よくやりたいよね」

 ウィンクとサムズアップを遥に返しつつも、川内は「でもまあ、厳しくないのは舞鶴の養成学校だけかも」と続ける。

「舞鶴はこんな感じだけど他所はどうかわからないけどね。呉と横須賀はここの何倍も厳しいし、最前線へ向かう選抜部隊は罵声暴力人格否定なんでもありのフルコースだけど。初等訓練の時点であんまりやりすぎるとちょっとね……」

 不穏な言葉に、遥は思わず表情が固まった。

 

 

 翌日からは本格的な座学がスタートした。

 舞鶴にある訓練施設の教室に集められた遥たち候補生は、分厚いマニュアルや資料と、筆記用具を片手に、訓練教官の入室を待っていた。

 時刻に違わず、訓練教官の艦娘が入室する。

 号令と共に、候補生たちが起立し、礼をした。

 遥は座学担当の艦娘に思わず見とれた。柔和な笑顔を携え、整った顔立ちをしているが、その手に持った教鞭と、瞳の奥に携えた鋭い視線は間違いなく艦娘である事を物語っていた。

「始めまして、今日から貴方達の座学担当となる艦娘の香取です」

 挨拶も程ほどに、香取は本題へと移った。

「座学では艤装についての詳しい解説、火器の使用手順、艦娘としての心得まで、ありとあらゆる知識を覚えてもらいます。ですが、その前に基本的な事――私たちが海にいる理由、深海棲艦についての話から始めたいと思います」

 香取は話を続ける。

「開戦からかなりの時間が経ってますが、おそらくここに居る世代であれば、深海棲艦の出没も開戦のニュースも見聞きしたでしょう。五洋の陥落、沖縄占領、各深海棲艦支配海域の奪還作戦。呉空襲、横須賀空襲、仙台艦砲射撃。日本海側での大規模反抗作戦も記憶に新しいです」

 それらの事件――特に最後の事件に遥は思わず気を引き締めた。

「情勢も安定してきた昨今、深海棲艦との平和的な接触を叫ぶ人々も出てきましたが、我々艦娘としての見解は「ありえない」の一言に尽きます」

 香取は険しい顔を浮かべながら、ある例を引き合いに出した。

「昔、開戦間もない頃――それも艦娘の運用がまだ手探りだった頃に彼らとコミュニケーションを図れると思い、武器を下ろして接触を試みた艦娘がいました。恐らく彼らとはETの様に平和に分かり合えるのだろうと、もしくはクジラやイルカのような知性を持った動物か何かだと思っていたのでしょう」

 この後の結果は分かりますか?と問われ、候補生たちは答えに困った。

 中々回答が出てこなかったが、香取はそれを待たずに自ら答えた。

「彼女はイ級を撫でようとして首を噛み千切られて即死しました。そういう事です」

 しん、と部屋が静まり返った。

 息を呑む者、顔を強張らせる者、覚悟を決めた者、様々な人たちの顔がそこにあった。

「私たちの仕事はスズメバチの退治や畑を荒らすサルの撃退などの「安心な駆除」ではありません、深海棲艦という脅威に命を賭けて戦いに挑む“戦争”である事を、必ず心の中に留め置いておくように。“艦娘”という存在の意義について学び、深海棲艦という敵を理解する事が、戦う事への第一歩になります……では、まず艦娘についてです。資料の4ページ目を開いて下さい」

 遥は、手の平に汗が滲むのを感じた。だが、気を引き締めてぎゅっとその手に力を入れた。艦娘になるのなら、覚悟しなければいけない道だ。

 遥はそう心に言い聞かせ、授業に集中した。

 

 

 

 

 

 養成学校での日々は、あっと言う間に過ぎていった。

 実技訓練は基本的な事からスタートした。まずは海を歩く事、そして基本的な航行訓練、ブイとブイの間を通ったり、僚艦と共に陣形を組みながら航行したりと徐々にハードルが上がっていき、完全武装した艦娘の護衛付きで、外海で出る事もあった。

 そして基地へ戻れば座学が続く。艦娘としてどうあるべきか、という心構えは無論のこと、海図の見方や艤装の応急修理、艤装や兵装の基本的な取り扱い方法、海上での各種艦娘・深海棲艦の見分け方など、海の上での仕事に必要な知識を全て叩き込まれた。

 そして実技訓練と座学の間にはトレーニング……体力作りの為の運動が待っていた。基地の外周をランニングして体力を付けたり、トレーニング器機を使った筋力トレーニングも必要とされた。これが一番厳しいと、遥含めて候補生全員が思っていた。

 しかし、遥はそんな忙しい勉学の日々に忙殺されつつも、苦しくも充実した日々を送っていた。候補生たちの間に連帯感が生まれつつあるのも感じていたし、食堂で振舞われる食事は数少ない娯楽となった。

 

 訓練を終え、食堂で晩飯を済ませてから、遥は宿舎の自室へと戻った。

 食事、風呂、就寝の前後と、様々な訓練や座学の間に挟まれる休憩時間のみが候補生たちに与えられる自由時間であった。遥は、殺風景な宿舎自室――4人の少女が雑に押し込まれるだけの部屋――に入った。

 すでにルームメイトの1人は戻ってきているようだった。長い黒髪をゆらした、小柄な少女が遥のベッドの上段に寝転がっていた。

「おかえり遥」

「ただいま、百合」

 養成学校で出来た初めての友人、同い年の彼女の名前は早坂百合。遥と真っ先に打ち解けた、天真爛漫な少女だった。今日は遥とは別の訓練海域で試験を行っていた。

「今日の訓練きつかったね、砲撃訓練どうだった?」

「まぁまぁ。百合は?」

「全弾命中。川内教官にべた褒めされた」

 羨ましいなぁ、と遥は呟いた。

「はやく任命されないかなぁ。あたし、戦艦がいい」

 天井を眺めながら、百合は期待に胸を膨らませている様子だった。

 

 遥や他の候補生は、まだ正式な艤装が与えられていない。

 全員が、共通している汎用の訓練艤装を使っているに過ぎず、この初等訓練が一通り終われば、次は正式な艤装の任命が下る。

 そこで初めて、彼女たちは正式な、軍艦の名前を背負った艦娘になる。

 

 

 

 初等訓練も終盤に差し掛かる頃、ようやく候補生たちに待ちに待った瞬間がやってきた。

 配備される艤装の任命である。

 

 艤装の任命は、艦娘候補生にとって最も緊迫するイベントだった。

 試験の合格発表のような物で、本人の適正から判断された艤装を任命される。その時点で、候補生は本名――両親から授かった名前のほかに、艦娘としての名前を授かる。多くは駆逐艦だが、中には軽巡や重巡を任命される者もいれば、いきなり空母や戦艦と言った強力な艦種に任命される者もいる。

 しかし、どの艦種に任命されるか、そしてどの艦になるかは候補生本人は知る由もない。訓練によって弾き出された成績が重視され、何より本人の素質も重要視されるというが、その選考方法は未だ機密事項として公開されていない。

 

 午前中の座学を終え、候補生たちは養成学校施設のある部屋へと集められた。同じように艤装任命を控えた候補生たちが待機し、今か今かと別室に呼び出される順番を待っている。

 まるで病院の診察待ちだな、と最初は思っていた遥だったが、あながち間違いでもなかった。手渡された書類に目を通すと、そこには艦娘になるために必要な処置に対する免責事項についても説明があった。

 そうこうしている内に、遥の名前が呼ばれる。返事をしてから、遥は別室のドアの前に立つ。

 ノックをし、ドアを開けて「失礼します」と一礼してから遥は部屋へと入った。

 机と椅子だけ置かれたシンプルなその部屋には、彼女たちを指導している教官の川内と1人の女性がいた。見慣れない人物であったが、遥はその桃色の髪を揺らした女性が工作艦として様々な基地に配備されている艦娘、明石である事にすぐに気がついた。

「始めまして、私が工作艦の明石よ」

 よろしくね、と続けた明石は挨拶もそこそこに、遥へ椅子へ座るように促した。

 川内と明石を前に、改めて艤装の任命を伝えられるとなると遥は面接でも受けるかのように緊張したが、そんな彼女を尻目に話は淡々と進んでいった。

「さてと、今日この日から任命される艤装が決まる訳だけど……式沢さん。この任命がどういう意味を持つかは、言えるかしら?」

 明石の言葉を受けて、遥は明石の後ろに控えた川内の顔を見た。うんうんと頷く彼女の目から、遥に完璧な返答――座学で教わった基本的な事の振り返りを言えるかどうか――を求めている事は明白だった。

 少しの沈黙の後に、遥は口を開いた。

「艤装を適合させる事による艦娘としての能力の最適化と、艦艇の名を受け継ぎ、艦娘として国防の責務を果たすため……です」

 よりによって最後がうろ覚えだった、と遥は焦ったが、明石は川内の顔を見ると微笑んだ。どうやら“正しい答え”だったようだ。

「そこまで言えれば、まぁ、合格点ね」

 川内は明石の言葉に黙って頷いた。明石は話を続けた。

「この任命は艦娘になるための、第二のステップよ。決して軽い話ではないし、伝えなければいけない重要事項も多いから、こうして面談形式で説明しているの。この任命から次の訓練コースや教官も変わる事になるわ……準備はいい?」

 明石に問われ、遥は「はい」と答えた。

 緊張感が増していく中、明石は机の上に置かれたバインダーを手に取ると、書類を捲っていった。

「あなたが任命される艦娘は、駆逐艦よ」

 明石の言葉を聞いて、遥はまず深呼吸した。

 駆逐艦――その艦種に任命されるのは予想の内だった。艦娘の総数で言っても、大部分を占めるのは駆逐艦だった。いきなり空母や巡洋艦に任命される訳でもなく、駆逐艦という艦種に収まったのは特段珍しい事ではなさそうだった。

 明石は遥の様子を伺ってから、話を続けた。

「艦級は、特型駆逐艦ね。綾波型」

「綾波型」

 その言葉に、遥は思わずその名に心を躍らせた。

 綾波型と言えば、そのネームシップである。ニュースでも目にし、座学でも耳にした“武勇伝”を持つ艦娘の1人だ。綾波の艤装を与えられた者が打ち立てた戦果は類を見ない物が多いと、遥もよく知っていた。海外での大規模作戦に参加する艦娘で、よく名が挙がるのもその証左だろう。

 だが、明石は次いでその艦名を口にした。

「綾波型駆逐艦2番艦――敷波」

「しき……なみ……?」

 疑問詞が浮かんだ。

「敷波ですか」

「そう、敷波」

 バインダーに挟まった書類から視線を外さないまま、明石はそう言い放った。

「もしかして考えていた艦娘と違った?」

 いいえ、と遥は答えようとしたが、知らない間に表情に出ている事を察してしまったのだろう。遥を横目に見た明石は「そうよね」と呟いた。

「毎回いるのよ、雪風とか島風とか、秋月型みたいなエリートや有名艦になれる!って思ってる子が。いいのよ正直に「予想してたのとハズれた」って思っても」

「え、いや、その……」

 見透かされた、その事実に遥は思わず混乱と羞恥の気持ちに襲われた。

 明石はそれを見て優しく微笑んだ。

「どの艤装が適合するかについては個人差があるし、誰だって自分が望んでいる艦娘になる事はないわ。でもね、しばらく経験や階級を積めば「艤装転換試験」を受けて別の艦や、別の艦級になる事も出来る。今落ち込まなくてもいいの、チャンスはまだあるから」

 明石は励ますように続けた。

「それに、私だって入隊したての頃は特型駆逐艦としてブイブイ言わしてた時期があったのよ?駆逐艦なくして艦隊なし、駆逐艦を笑う者は駆逐艦に泣く。敷波だって立派な艦娘よ?」

「は、はい」

 姿勢を正す遥を前に、明石は「正直でよろしい」と笑った。

「後は事前に聞いている通り、投薬での“慣らし”に入るわ。身体が艦娘に近付いて、髪の色や瞳の色が変わったりするけど、肉体的な後遺症は現れないから安心して頂戴」

 遥はそう説明され、思わず自分の髪に手を触れた。

 両親譲りの濃い黒髪を撫でる遥を見て、明石は補足するように続けた。

「大丈夫よ。“敷波”ならピンクとか紫とかメッシュとか、そういう髪色にはならないから。両親が自分の子だと認識できないくらい顔が変わる事も、羽が生えたりツメが伸びたり、後遺症で子供が作れなくなったりしないから安心して」

 思わず「大丈夫か?」と遥は思ったが、明石はそれすらも見抜く様に話を続けた。

「今の所、艦娘になる事で肉体への深刻な副作用や弊害が報告された事はないわ。医療的な施術も必要になるけど、入院の必要はないし、今まで通りの生活をすればいいわ」

 そう聞いて、遥は僅かに安堵した。

 後ろに控える川内が、笑みと共に遥へと語りかける。

「駆逐艦コースに進級おめでとう。引き続き私の指導で、駆逐艦娘としてきっちり鍛えてあげるから、覚悟しておくように。今後はもっと実戦的な訓練になるからね。“敷波”ちゃん!」

 艦娘としての名前で呼ばれた――その瞬間、遥は胸の奥底から熱い物がこみ上げる気がした。

 

 

 艦娘になるための処置が始まって翌日の朝。

 慌しく一日の始まりを迎える候補生で宿舎が騒がしくなる中、起床した遥は、ベッドから降りてきた百合と目があった。

「おはよう、遥」

「おはよ……?」

 遥は、百合の異変に気が付いた。

 髪染め途中に切り上げて出てきたような――そんな感じだった。同室の候補生も、百合の髪色を見て目を丸くしていた、残りの2人も同じように金髪や青髪が入り混じる、歪な髪色になっていた。

「もう変化が出始めてきたみたい、私“清霜”だからかな」

 そう言うと、彼女は髪を指差す。銀や紺の髪と、地毛が入り混じる奇抜な髪色になったそれを指でいじりながら溜息を吐いた。

「何か不恰好だから早く終わって欲しいなあ」

 窓ガラスを鏡代わりに、自分の髪を気にする彼女を前にして、遥も思わず自分の髪に手を伸ばし、ガラス窓に写る顔を見た。濃い茶髪だったので、自分の髪はさほど変化が出ていないように思えた。髪を少しだけ染めて、申し訳程度にイメージチェンジを図ったような、そんな程度の変化に思えた。

「あたしは全然変わらないなぁ。身体の反応が遅い?」

「遅いんじゃなくて、そういう艦娘なんじゃない?」

「そうかなぁ」

 遥はそう思いながら、資料を読み漁って見つけた「敷波」という艦娘の写真を思い出していた。それを見た遥の第一印象は控え目に言って“地味”だった。

 陽炎型のような派手さも無ければ、最近になって適合者が出始めた夕雲型や、最新鋭の武装ユニットが使用できる秋月型とは程遠い、地味な艦種に思えた。

 ただ、日常生活を送る上では派手すぎない艦娘だったとも思えた。少なくともカラフルな髪色では、日本の日常風景ではかなり浮くと見えた。

 

 教官にどやされないうちに支度を素早く済ませ、足早にいつもの一日が始まっていく。

 見慣れた光景だったが、遥が気がついたのは、他の候補生たちも、自分が任命された艦娘の名前を互いに教えあっているようだった。

 

 ――また一歩前進した。

 そう考えながら、遥は今日の訓練日程を思い出して気を引き締めた。

 

 

 

 

 

 

 砲声。

 演習海域に響き渡る轟音と水柱の中で、敷波は必死になって艤装を背に海上を走り回る。

 識別用の青色のテープが巻かれた各々の艤装や武装を手に、敷波は1秒でも長くこの海で生きながらえようと、後ろを付いて走る清霜と共に海上を駆け回っていた。

 駆逐艦「敷波」を任命されてから3ヶ月、訓練は厳しさを増していた。

 

『砲撃の餌食になりたくなければ素早い回避行動が原則!はい嵐ちゃん死んだ!!残り2人も巻き添えで死体袋!反応速度が遅い!!』

 険しく、激しい川内教官の声が無線から漏れる。これこそが、訓練教官としての川内の顔なんだろうか、と敷波は一瞬だけ考えたが、すぐに訓練に集中した。

 訓練砲弾やペイント弾で死ぬ事は無い、と敷波は聞いているが「当たっても痛くは無い」とは言われていないし、ペイントは簡単に落ちるとも言われていない。どっちにしろ当たるのは嫌だった。 手に持った連装砲のグリップをぎゅっと握りながら、敷波は後続の清霜へと声をかける。

「どっから撃って来てる!?11時?9時?」

「9時方向みたい!」

 その言葉に、敷波が左――9時方向を見る。

 敵艦役の教官らしき影を見た瞬間、主砲のマズルフラッシュを敷波は目撃する。

「来るよ、回避行動!」

 回避行動を取ろうと、敷波は針路を変更しようとするが、後続の清霜は反対の方向へと目を向け、そして叫んだ。

「さっ、3時方向、敵艦!」

「へっ!?」

 敷波が右を見て素っ頓狂な声を上げた瞬間。視界の端に敵艦役の教官が見えた。

 その赤いシルエットから、敷波は川内教官だと認識した。顔は見えないほど遠くだったが、何故か敷波は肉食獣の獰猛な笑みを携えた川内の笑顔が見えたような気がした。

 風を切る訓練弾の音を耳にした瞬間、敷波はすべてを諦めた。

 敷波と清霜が、訓練弾を当てられ海面へ派手に転び、撃沈判定が上がったのはそれから僅か1秒後の出来事だった。

 

 基地の出撃用スロープへと戻ってきた敷波たち訓練生は、もはやボロボロの様相であった。戦闘訓練が始まって1ヶ月、駆逐艦たちは訓練教官たちにのされるがままの状態だった。手玉にとられては撃沈判定を出され、不備や反省点を学んで行動しては、また打ちのめされて戻っていく。その繰り返しだった。

 一列に並んだ訓練生たちを前に、川内教官は1人1人に話を続けていく。

「嵐ちゃん、血気盛んに迎撃に出るのはともかく、周りが見えてなさすぎ。それと後続2人がやられそうになっても無視して見向きしなかったでしょ。アレがいっちばん悪い」

 姿勢を正しながらも、陽炎型の嵐は冷や汗を浮かべた。

「秋雲ちゃんは回避行動がワンパターンすぎ、スクリプトで動いてるNPCじゃないんだから予想されない動きを心がける事。水無月ちゃんは――状況判断は良かったけれど実行に移すまでが遅かった」

 川内の“悪かった”探しの番が近づくにつれ、敷波は緊張していく。

「敷波ちゃん」

「は、はいっ」

 正した姿勢がさらに強張る。隣の清霜も同じだった。

「一点に集中していたのが悪かったね。同じ標的に固執して、それ以外が注意散漫になったのはいけないね。常にどこから攻撃されるか注意しながら動く事が必要、いい?」

 はい、と敷波は答えるが、川内は微笑を口元に浮かべた。

「ただ、清霜ちゃんと連携が取れていたのは良かったし、今回攻撃側を手こずらせたのは敷波ちゃんと清霜ちゃんの2人組だけだった。そこは褒めよう」

「あっ、ありがとうございます!」

 敷波は嬉しさと恐縮の混じった声で返事をした。

 川内も笑みを返したが、それはほんの一瞬だった。

 

「さっ、みんな反省点が浮き彫りになった所で仕切りなおして、もう一度はじめるよ。今度はシチュエーションを変えて、護衛対象の船舶がいる前提での攻撃対応で、もう5戦ほどやってみようね。さ、駆け足で燃料と弾薬補充!」

 まだ続くのか、と訓練生の艦娘たちが顔を歪みかけるが、すぐに気を取り直した。

 強くなりたい。この人を超えたい。

 いつしか、そんな艦娘としての団結の心が、彼女たちにも生まれていた。

 

 

 

 それから数ヶ月、養成学校の卒業日まではあっという間だった。

 教官の艦娘に先導され、式典用の制服に身を包んで将校や先輩艦娘、家族らに見守られながら海上を行進するのは緊張したし、祝砲が鳴り、正式に彼女たちは艦娘として世に羽ばたく事が認めらた嬉しさで胸が一杯だった。

 養成学校の卒業式も終え、配属先が決定すると、艦娘たちは1週間の休暇を迎える。

 

 実家に戻って家族と過ごす者もいれば、訓練と座学の日々から開放されて羽目を外しに遊びに出かける者もいる、仲睦まじくなった同期と卒業旅行をする者もいれば、逆に1週間という長い休暇に困惑する少数派もいる。

 ただ、共通しているのは、この養成学校で日々を過ごした艦娘たちは今日からばらばらに各地へと散る事だけだ。どこかで再会を果たす者、同じ基地で働く者もいるが、多くはここが最後の別れ道となる。もう二度と会う事も無い艦娘も、中にはいるだろう。

 

 バックパックに余裕を持って収まるだけの荷物を背負い、遥と百合は舞鶴基地を後にして駅へと向かった。駅までの道は、運動も兼ねて歩きにした。

 バスやタクシーを使っても良かったが、2人のこれからを歓迎するような良い天気で、少しでも別れの時まで長く話していたかった――それが本音だった。

 

「新潟基地か……新潟ってどういう所なんだろうね?」

 新潟基地配属を言い渡された百合の言葉に、かつて家族旅行で新潟まで出かけた事のある遥は答えた。

「畑があって……あと田んぼがあって……うん、大体畑と川と町だけだね」

「えー、つまんないー」

 百合が露骨に嫌な顔をするが、遥はフォローのつもりで話を続けた。

「でも新潟市あたりは結構商業施設も遊ぶ所も一杯あるよ」

「だといいんだけどなあ」

 そうこうしている内に、2人は駅へとたどり着いた。

 

 切符を買いながら、2人はいよいよ別れの時間が迫ってきた事を実感していた。

「百合は新潟基地、私は酒田基地かぁ……」

 遥が呟いた独り言に、じゃあ近所だね、と百合は微笑んだ。

 

 養成学校を卒業した遥は、酒田基地への配属を任命されていた。

 川内教官から酒田基地への配属を伝えられたときは、どう反応していいかわからなかった。遥は、舞鶴や佐世保基地に配属になるだろうと思っていたし、呉や横須賀のようなエリートの部隊になるとは最初から思っていなかった。しかし、いざ蓋を開けると実家の近所にある基地へと配属される事になった。

 喜ばしいのか、期待していたのと違う落胆か。とにかく今は組織の下っ端の艦娘である以上、遥にとってはそれは絶対の命令であった。

 

「近所も何も、私の実家、酒田の隣町なんだよね」

「じゃあ、そっちの意味でも近所だね。羨ましいなぁ」

 百合は心底羨ましがっている顔だった。

 当然だろう、と敷波は思った。話を聞く限りでは彼女の出身地は遠く離れた山口県だと言う。そこと比較すれば、実家に帰省するのはかなりの遠出になる。

 そう言われると遥の配属先はかなり恵まれていると思えた。例え海外派遣任務を言い渡されたり、他の基地へ異動になったとしても、少なくとも実家の近所で経験を積むというのは悪くない選択肢ではないか、遥はそう自分に言い聞かせて納得させた。

 何より、あの“分遣隊”の本隊だ。

「もしかしたら遊びに行くかも。その時はよろしくね!」

「うん、こっちも遊びに行くかも」

 じゃあ、またいつか会おうね、と百合は屈託の無い笑顔を浮かべた。

 

 駅の階段前で手を振って別れ、それぞれ反対のプラットホームに向かう。

 遥は急いで自分の携帯電話を開くと、実家の電話番号へとかけた。父は仕事で、この時間帯は家にいる母が電話に出るはずだった。

 数回のコールの後に、電話は繋がった。

『もしもし?遥、どうしたの』

 母の声だった。

 興奮気味の遥は、事情の説明もそこそこに、母に一刻も早く情報を伝えたくて仕方なかった。

「ねぇお母さん、私の勤務場所、決まったよ」

『へぇ、どこの基地に配属になったの?国内?まさか海外の基地とかじゃ……』

 母の声は少しの心配を含んでいるようだった。

「ううん、違う。海外じゃないの」

 ならどこなの?という母の問いに、遥は答えた。

「酒田基地、ずっごい近くで働く事になった」

 嬉しそうな顔をするだろうな、そんな事を思っていた遥の予想は、甲高く上ずった母の声で的中する事になった。

 

 

 

 

 

 酒田基地。

 青函海峡を防衛し北方海域への睨みを利かせる大湊基地、規模は小さいが艦娘の戦力は充実している新潟基地、そして日本海防衛の最大拠点である舞鶴基地。それと比較すると庄内地方に設置されたこの基地は小さく、そして地味な存在であった。

 しかし、敷波にとっては生まれ故郷に最も近い基地であり、安心できる場所への配属であった。養成学校を卒業し、配属基地が決まった際に両親へ電話した際は、下手をすれば艦娘として卒業した時よりも喜ばれた気さえしていた。

 

 そんな酒田基地への配属を済ませ、諸々の手続きや引継ぎを終えてからの日々は地味そのものだった。

 毎日が訓練と哨戒の連続であり、砲撃や航行訓練と行った基本訓練から、決められた海域を哨戒して異常が無いか見て回るだけの日々が始まった。

 舞鶴、佐世保に行った同期や、海外派遣任務を言い渡され日本を飛び出していった艦娘を思うと、敷波は自分の仕事のスケールの小ささにギャップのような物まで感じていた。

 だが、自分が夢見た職を手にした喜びの方が、勝っていた。

 

 

 その日、いつものように一日を始めた敷波は、待機所にいた。

 この日の午前の訓練を終えた敷波は、休憩を挟み午後の哨戒まで暇を潰しており、基地の待機所に詰めっぱなしの状態であった。

 同じように待機所には出撃待ちか手持ち無沙汰の駆逐艦娘が何人か詰めていた。

 ベンチに座り、コーヒーでも飲みがら同僚たちと雑談を興じている敷波だったが、やがて待機所に自販機で買ってきたジュースと、読み回してよれよれになった雑誌を小脇に抱えた駆逐艦娘がやってきた。

「おはよ、敷波」

「おはよう、霞」

 敷波は彼女と挨拶を交わす。

 

 霞、と言うのはこの綺麗な銀髪の駆逐艦だ。

 朝潮型駆逐艦の艦娘であるが、鋭い目つきと顔立ちに、敷波は当初、若干のとっつき難さを覚えたが、話せば堅物でない事はすぐに分かった。むしろ本隊の駆逐艦の中では、お人よしの部類であった。

「どう?ここの生活は慣れた?」

 敷波の隣に座りながら霞は世間話を振る。

「まあ、多少は」

 敷波はそう答えながら、飲みかけだった缶コーヒーを一口飲んだ。

「学校卒業してすぐに艦娘になったんだっけ、大変じゃない?遠い場所での新生活って」

「近所だからあんまり遠くに来たって印象はないんだけど……」

「近所?どこの出身なの」

 そう問われて、敷波は「鶴岡」とだけ答えた。

「とても近所じゃない」

「でしょ。すぐにでも家に帰れるし、何なら自宅通勤だって出来るぐらいだし」

「由良分ならもっと近くよね」

 霞の言葉に、敷波はコーヒーを飲む手を止めた。

「……分遣隊かぁ」

 敷波は反射的に、ぼそりと呟いた。

 酒田基地の配属になった際に真っ先に思い浮かんだのは分遣隊の存在であった。自分が艦娘になる切欠となった、漁港配置の部隊だ。酒田に配属された際には自分がそこに配属されるものだとばかり思っていたが、実態はそうでも無く、順当に酒田基地の水雷戦隊に放り込まれていた。

 それでも、近所の配属になっただけでも良しとしていたが、憧れの部隊に一歩近付きながらも手が届かないのは、若干の歯痒さがあった。

「分遣隊の配属じゃなくて良かったわね」

 霞はそう呟いた。本心からそう言っているようで、思わず敷波はその顔を見た。

「分遣隊ってそんなに悪い所なの?」

 思わず聞き返すが、霞は頷いて肯定した。

「こっちで手に負えなくなった艦娘の受け皿、みたいな使われ方もするわね。イタズラ小僧の卯月はあっちに飛ばされたきりだし、とんでもない事しでかした陽炎に至っては任期終わるまであそこから出てこないでしょうね」

 はぁ、と霞はため息を吐いた。

「毎年、この時期になると本隊から引き抜きされて分遣隊へ異動する事が多いのよ。どういう選考基準かは知らないけど、もっぱら左遷じゃないかって噂よ」

 あなたもそうならないよに気を付けなさい、と霞は付け加えた。

 敷波は複雑な気持ちになるが、霞の言葉に混ざっていた「本隊からの引き抜き異動」という単語に耳を奪われた。少しだけ思案をしてから、敷波は霞へ尋ねた。

「異動の選考とかって、誰がやってるの?」

「多分、山城さんじゃないの?ここに来てる艦娘の何人かはあの人が引き抜いてきたって噂だし、確か陽炎が分遣隊送りになったのもあの人の指示らしいわよ」

 そう聞いて、敷波はふと考えた。

「ふーん……ありがと」

 手短に礼を言うと、敷波は缶コーヒーを急いで飲み終えてから足早に待機所から立ち去った。一人残された霞は、何事だろうと思いながら持ってきた雑誌に視線を落として暇つぶしを再開していた。

 

 

 基地司令部の中を足早に歩きながら、敷波は目当ての部屋を探していた。

 司令部の建物は来たばかりでまだ完全に把握できていなかったが、記憶を手繰り寄せて艦娘部隊の指揮官である戦艦――山城の居るオフィスを探す。階段を駆け上がり、2階まで来た所で、敷波は上官の1人である軽空母が廊下を歩いているのを見かけた。

 見間違えようの無い、緑基調の服と小さな背丈は、この部隊のNo2である軽空母の瑞鳳だった。急いで階段を駆け上がってきた敷波に気がついたのか、瑞鳳は振り向いて敷波を見た。

「あ、あのっ、瑞鳳さん」

 渡りに船だった。敷波は瑞鳳に声を掛けた。

「どうしたの敷波ちゃん、何か緊急の用事?」

 とことこと歩み寄ってきた瑞鳳を前に、敷波は「山城さんはどこにいますか」と尋ねた。そう問われた瑞鳳は素っ気無く廊下に立ち並ぶドアの一つを指差した。

「あの部屋だよ。何かあったの?」

「い、いえ、急を要する話じゃないんですけど……」

 ふーん、と瑞鳳は淡白に返事をした。それから、瑞鳳は笑った。

「何か急ぎの案件だよね?大方、深刻な話じゃないと思うけど、心配なら付いていてあげるよ?」

「えっ?あ、あの」

 全てを見透かすような言葉に敷波は困惑したが、瑞鳳はやや強引に敷波の手をとると「こっちこっち」と山城の部屋の前まで敷波を引っ張った。

 心構えがまだ出来ていない敷波は焦ったが、有無を言わせぬ瑞鳳に背中を押され、あっさりと部屋の前まで連れて来られた。

 

 瑞鳳はノックだけすると、返事を待たずにドアを開けた。

 中には、デスクで書類に判を押す作業をしていた山城がいた。度々基地の中で見かけていたが、こうして直に話すのは敷波にとって配属以来の事だった。敷波は改めて緊張した。

「山ちゃん、敷波ちゃんから話があるって」

 瑞鳳はあっけらかんとした声で伝えた。

「……何かしら」

 作業の手を止めた山城は、じろりと敷波を見た。

 相変わらずの目つきの悪さだった。隈の浮かぶその相貌に敷波は思わず萎縮しそうになるが、先ほどから頭の中で用意していた話を伝えようとする。

「分遣隊の事について話を伺いたいんですが、近々異動があるというのは本当なんですか?」

 山城はため息を吐いてから「また噂話になってるのね」と呟いた。

「どこの艦娘に吹き込まれたかは大方検討が付くけれど、分遣隊へは左遷ではなく“正当な”選考で配属される事になっているのよ。近々駆逐艦の誰かが行く事になるのは事実だけど……」

 誰かがあの分遣隊へ配属される。

 そう聞いて、敷波は居ても立っても居られず、本題を切り出した。

 

「分遣隊への異動を希望します」

 敷波は言い放った。

 言い切った。その事実で緊張感から開放されそうになるが、返ってきたのは沈黙だった。

 山城は表情を一切崩す事無く、瑞鳳は目を丸くしたまま敷波を見ている。

 迂闊な意見だったかと敷波は焦るが、山城はようやく口を開いた。

「それだけ?」

「はい。それだけです」

 敷波が答えると、短い沈黙が返る。

「自宅通勤したいからという理由なら無しよ、それとも今の部隊に何か不満でも?」

 山城の口調と顔に圧倒されながらも敷波は首を左右に振った。

「いえ。不満はありません。自宅通勤も考えていません」

 そもそも自宅通勤は結婚でもしない限りどのみち無理だろうに、と敷波は心の中で突っ込んだ。

「……分遣隊は予備部隊のさらに予備の部隊みたいなものよ。仕事の内容も雑務中心で、ここよりも勝手が違う。艦娘としてのキャリアを積みたいのなら、悪い事は言わないから五十鈴の指揮下で経験を積んだ方がいいわ。あなたの成績なら海外派遣部隊でも十分通用するはずよ」

 ですが、と敷波は言いかけて言葉に詰まった。

 一向に食い下がらない敷波を見て、山城は不思議がった。

「変な新人もいたものね。なら、どういう風の吹き回しで分遣隊行きを希望するの?」

 山城の言葉を受け、敷波は緊張しながらも話を始める。

 そう問われたら、こう切り返す。頭の中で何回も繰り返していた事を言うまでだった。

「忘れもしません。一昨年の7月です」

 

 あの日、夕日が沈む海に出撃していった艦娘を思い出す。

 遥が住む町を、そして人々を守るために出撃していった艦娘たちを。

 そして、戦いで犠牲になり、散って行った艦娘の事も。

 

「私は鶴岡で暮らしていて、祖父はあの漁港に居ました」

 山城は少しの間沈黙し、それ以上は聞かなかった。

 言葉の意味を理解するための沈黙。

 それから、山城の硬く結んだ口元に微笑が僅かに浮かんだ。

「どうしても?ギャップで幻滅しても責任は取らないわよ」

「構いません」

 敷波の返答に、山城は少しの間思案した。

「……考慮するわ。仕事に戻りなさい」

「ありがとうございます。失礼しました」

 敷波は頭を下げると、敬礼を返して部屋を退出した。

 

 彼女が出て行くのを確認すると、事の成り行きを見ていた瑞鳳は、山城に声をかけた。

「あの子、大物になりそうだよね」

「どうかしら。少なくとも舞鶴の学校じゃ良い成績だったそうだけど」

 経歴書の内容を思い浮かべていた山城だったが、瑞鳳は「ちがうよ」と訂正した。

「山ちゃん相手にあそこまで意見を通せる新人、中々いないって意味」

 山ちゃんと呼ぶな、と山城は間髪入れずに答えてから、瑞鳳の言葉に答える。

「でもまあ、ここまで気概のある子は初めてかもしれないわね。陽炎や卯月のような問題児と違うタイプの」

 久々に面白い奴を見た、と言わんばかりに山城は笑った。瑞鳳は、久しぶりに見せる皮肉でも嘲りでもない、山城の純粋で柔和な笑みに驚いた。

 

 

 

 数日後。

 いつものように基地の待機所で次の哨戒を待っていた敷波は、数日前から続く、一向に続報のない異動の件について、やきもきしていた。

 山城の「考慮する」という発言から、自身の分遣隊への異動が現実味を帯びていたものの、音沙汰がなかった。いつもように哨戒任務や訓練に明け暮れて気を紛らわせていたが、こうしていざ暇が出来ると、頭の中はそれで持ちきりになった。

 やはり、自分には過ぎた意見具申だったのだろうか?そんな気さえしていた。

 待機中の駆逐艦たちと雑談をして時間を潰しているうちに、待機所に来訪者が現れた。

 

「敷波ちゃんいるー?」

 どかどか、と駆逐艦たちが詰める待機所に先輩艦娘が入ってきた。エメラルドグリーンの髪を揺らす先輩の重巡艦娘――鈴谷だった。世話好きで誰よりも人懐っこく、元気な上官で、特に下っ端の艦娘に対する世話の焼きっぷりから駆逐艦娘の間でも慕われてる重巡だ。

「はい」

 敷波は返事をして鈴谷の前に立った。

「何ですか?」

「分遣隊への異動が決定したって、さっき山城さんから連絡あったよ」

「ほ、本当ですか!?」

 思わず敷波は声が上ずった。周囲の艦娘たちはそれを聞いて顔をしかめた。

「本当本当。近いうちに正式な命令が下ると思うから、早めに準備しといてね」

 後ろに控えていた駆逐艦たちが「しっきー、もう異動かよー」「何で分遣隊に行くんだよー」「あの分遣隊に!?」と声を上げるが、それを聞いた鈴谷は諭すように話を始める。

「分遣隊だって悪い所じゃないでしょ。あそこはご飯も美味いし景色が綺麗で……」

 力説を始める鈴谷を前に、駆逐艦娘たちは口々に突っ込みの言葉を投げる。

「平野先輩あそこの緩い空気が好きで行ってるんでしょ」

「完全に通い妻でしょあれは」

「舞鶴にいた頃のノリが忘れられないだけでしょ」

 もーうっさい、と鈴谷は冗談めかして怒るが駆逐艦娘たちもそれを笑い飛ばした。鈴谷は咳払いを一つしてから、敷波へと改めて向き直った。

「異動の希望理由、山城さんから聞いたよ」

「えっ?あ、あの……」

 突然の言葉に敷波は思わず言葉に詰まったが、鈴谷は優しげな笑顔を浮かべた。

「夢が適って良かったね。私は応援してるから、頑張ってね!」

 まぁ、向こうに行っても頻繁に会いに行くと思うけど、と鈴谷は続けて、またも駆逐艦たちに笑われた。

 

 鈴谷が去ってから、周りの駆逐艦たちはどっと敷波へ詰め寄った。どうして?何で?と駆逐艦たちは敷波を質問攻めにしたが、理由を話すべきか迷った敷波は中々答えを言い出せずにいた。

「分遣隊に自分から行くつもりだったの?」

 到底理解できない、と言った顔の霞が敷波に詰め寄るが、敷波は頷いた。

「うん。あたしから言った、そこで働きたい理由があったから……」

 その言葉に駆逐艦たちは顔を見合わせるが、敷波は意を決して話す事にした。

「日本海側で攻勢があった時に、深海棲艦を追い払って、あたしの町や家族を救ってくれたのは、あの分遣隊の艦娘だったから」

 ざわついていた駆逐艦たちが、しんと静まり返った。

 ある者はその単語を聞いてはっと我に返り、誰かはそれを聞いて何かを思い出した。

「……あの日、出撃していく艦娘を見て、あたしは艦娘になった。だから、分遣隊で働きたいと思ってた。海を守る仕事がしたいと思って、だから……」

 笑われるだろうかと思っていた敷波だったが、全員の反応は腑に落ちた様子だった。むしろ、不知火や満潮は姿勢を正して敷波を見ていたし、何人かは尊敬の念を抱いて敷波を見ている様子だった。

「その……ああ言って御免なさい」

 霞はばつが悪そうに呟いた。散々分遣隊についてこき下ろした事について、謝っている様子だった。

「全然大丈夫。緩そうなのは艦娘になる前から知ってるから」

 敷波はフォローするが、逆に自虐じゃないかと不安になった。その一方で、事の成り行きを見ていた親潮が不意に口を開いた。

「……分遣隊に行くなら、料理できると凄いモテるし尊敬されるよ」

 そうだな、と分遣隊の勤務経験がある誰かが同調した。親潮の言葉を切欠に、皆口々にアドバイスを始めた。

「そうそう、宿舎に家庭菜園あるし漁港から魚よく分けて貰えるからご飯は美味しいよ」

「宿舎のトイレ、鍵のかかり悪いから気をつけた方がいいよ」

「ずやさんの置いてった映画のDVD沢山あるからヒマだったらそれで潰したら」

「陽炎は気に入った子をコマそうとする癖があるから気を付けなさい。陽炎に何かされたら真っ先に私にチクって、全力で黙らせに行くから」

「先任の響って人、見た感じアレだけど物凄く頼りになる人だから、何かあったら頼るといいよ」

 矢継ぎ早にアドバイスを受けて敷波は思わず苦笑いを浮かべてしまったが、嫌な気持ちはしなかった。

 皆、何だかんだで分遣隊という存在が好きなように思えた。

 

 

 

 

 

 それからの1週間は目まぐるしい物だった。

 赴任してから早々の分遣隊への異動であったが、僅かな期間だけ同僚だった艦娘たちは敷波をちゃんと見送ってくれた。

 両親に異動についての話をした時は、もっと喜ばれた。晩飯を食べに戻って来い、だの、昼飯ぐらいは爺ちゃんの家で食べとけだの言われもして、敷波は小恥ずかしい気持ちになったものの、艦娘になった娘が近所にいるという安心感は親として見過ごせない物なのだろう、と実感した。

 

 そして、その日はついにやって来た。

 

 春の心地よい空気と、潮風を感じながら敷波はそこへやって来た。

 

 バス停へ降りてから、敷波は周囲を見回した。

 

 そこは何の変哲もない漁港とその港町で、小さな田舎町とも言えた。敷波――遥にとっては幼少期から何度も何度も訪れた、それこそ庭のような場所だった。

 あの山々の連なりも、立ち並ぶ民家も、その中にある祖父と祖母の家も、道沿いに建つ民宿も、鉄筋コンクリート作りの漁港施設も、防波堤も、見慣れた港湾も、スロープも、漁船も。

 すべては自分の日常であった光景。

 だが、今ここに立っている彼女は違う。

 ただの中学生の少女ではなく、使命と義務を背負った艦娘だ。

 

 発車するバスを横目に、敷波は荷物を担いだ。

 歩いて港へと入る。

 立派な漁港管理施設、その隣に建つ、プレハブ建ての司令部の前に立った。

 

 いざ見ると敷波は緊張した。

 手が届くほど身近ではあったのに、触れる事の出来なかった世界が、目の前にあった。

 深呼吸してから、敷波はそのドアを開けた。




【こぼれ話】
 ご存知主人公(?)の敷波が主役の回です。今まで本名設定が無かった敷波の本名と、彼女の生い立ちを語るストーリーです。最終回らしい過去最長の回になりました。主人公たる彼女に与えたい物語を、考えるがままに盛り込んだ回なので、ある意味四次創作か五次創作ぐらいの作品。
 でも敷波はこういう子であって欲しいんですよね。地元生まれの芯の強い艦娘で、その後の分遣隊の物語の軸にいてほしい人物です。今までの物語総まとめという感じも入れたかったので、カメオ的に馴染みの顔を沢山出してます。最終回っぽく仕上がったかな。

【あとがき】
 プレハブ分遣隊って何ぞや、という人はTogetterの纏めを見てもらったりするとわかりやすいと思います。長いので短縮版ある?という方は当方がpixivにまとめた「まとめのまとめ」をご覧ください。大体あんな感じの概念です。
 さて、pixiv版に掲載してから足掛け10ヶ月超(うちインターバル半年)という長い期間でしたがようやく完結、もとい一区切り付いたので後書きとさせて頂きます。
 事の始まりは概念について呟き始めた1年前。長らくゲームから離れていた(完全に距離を取った)コンテンツで面白そうな二次創作がTwitterでやってると聞いて、ずぶずぶと「分遣隊ワールド」にハマってしまってから自分も何か書きたい、と思いつつ「そうだ、前日譚の話を書こう」と思い立ったのが始まりでした。
 シリーズ名は「Fate/ZERO」とか「エースコンバットZERO」みたいに前日譚あるあるな安直な「ZERO」という単語をくっ付けただけという体たらく。メモ帳で適当に書いてから放置した作品ですが、実際に概念の物理書籍が出てから「書きたい」と思うようになり、1話をすぐに書き上げて完成・投稿と、かなり突貫で書き連ねたシリーズながら、好評を頂けたのは嬉しい限りでした。
 その後、1月半ばで書くだけ書いて更新停止、7月にまたやる気が沸いてきて夏にめちゃくちゃ書き上げまくり、何とか当初の予定であった最終回までこぎつける事が出来ました。これもひとえにTwitterのTLや実際に会って反応を頂いた皆様や、ブックマークを付けてくれた皆様から頂いたモチベーションあっての完走でした。本当にありがとうございました。
 もしかしたら「もうちょっとだけ続くんじゃ」みたいな感じで続きを出すかもしれませんし「前日譚はもういいから本編書こうや」と新シリーズに入るかもしれませんが、ひとまず最終回という形にします。
 応援ありがとうございました。またどこかでお会いしましょう。

・スペシャルサンクス
概念の設定や世界観形成に多大な影響を与えてくれた 月極さん
3話のイラスト本当にありがとうございました。平野外伝はいつか書いてみたいですね。

多大なインスピレーションとモチベーションを与えて下さった 非労働英雄さん
素晴らしい物理書籍を本当にありがとうございました。あの作品無くして今シリーズはありませんでした。

その他、概念の形成して下さった皆様
今作を見て下った皆様
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