短く、深く、息を吸う。
それが合図。
目の前の鬼へと拳──壱の型・山吹を繰り出す。
狙うは頸、ただ一点。
それを真横からいなすように
ぱぁん、という軽快な音と共に、軽い衝撃波が髪をわずかに巻き上げる。
すかさず逆の腕を突き出す。中指一本で、撫でるように逸らされた。
再びの殴打。何度防がれようと、間断なく。
互いの双腕が空気を貫く度に起こる風が、彼我の周囲を、結界のように覆う。
「お、お、おおおおお!!!」
雄叫びが上弦の参から上がる。
奴の額に滲んだ冷や汗が、手風で吹き飛んだ。
「──綾鼓さん!」
空気を切る音の中で耳に入り込んできた澄み声に、反射で叫ぶように声を張り上げる。
「真菰ォ!3人の手当だ!間違ってもこっちに近づけるんじゃあねえぞ!!」
そう、近づけてはいけない。
杏寿郎は殊更に、だ。
此奴──上弦の参の目的は、柱である煉獄杏寿郎の抹殺。
最優先される目標がのこのこと近づいてくれば、すぐさまあの拳がそちらに飛ぶ。
否、仮に近づいていなくとも、少しでも意識がそちらに向けば、あの遠撃を放つだろう。
そうなれば、いくら防御に優れた水の呼吸を修めているとはいえ、真菰1人で手負い3人を守るのは厳しい。
それだけはあってはならない。
私の目の前で、死なせることなど、あってたまるか。
足を踏み鳴らし、更に一段腰を低く。
絶え間なく、拳を振るう。
腕を大振りにする余地は与えない。
一息の間に二発、五発、十発。
速度を上げて、頸めがけて叩き込む。
「邪魔だ!どけ!杏寿郎と俺の語らいを妨げるな!」
「はいそうですか、なんて言うわけねえだろうが!てめえの敵は私だこっち向け馬鹿野郎が!」
苛立ちに、苛立ちで返す。
決定打が与えられない。
最初の不意打ちこそまともに喰らってくれたものの、その後の連撃は全て防がれている。
しかも、肌の接触面積を最小限に抑えて、だ。
足元に浮かぶ文様が動きを察知しているにしても、信じられない精緻さ。
そしてダメージを最小限にし、蓄積された頃を見計らって自ら切り落とし再生させる。
腕が使い物にならなくなる瀬戸際と、こちらの攻撃の一瞬きの隙を見極める神業。
油によって波紋の伝導率が上がっている状態でここまでとは。相当な手練れだ。
タルカスやブラフォードのような、武芸で名を馳せた人物の成れの果てなのだろうか。
千日手のような攻防が続く。
己の不甲斐なさに、奥歯を強く噛みしめた。
残念なことに、私に他の隊士──杏寿郎や真菰ほどの高い身体能力はない。
素の膂力や心肺機能では負けない自信はある。
しかし、呼吸法を使用した際の戦闘能力では、全集中の呼吸に軍配が上がるのだ。
おそらく、全集中の呼吸と波紋呼吸法では、生成されるエネルギーの種類が異なるのだろう。
波紋呼吸法が、本来身体内で発生しない太陽の生命エネルギーを生み出すところを、全集中の呼吸は、代謝を上げてエネルギーを増幅させ、全て身体強化に使用している──というのが、私の仮説だ。
新しいエネルギーを生み出すことと、本来存在しているエネルギーにブーストをかけるのでは、後者の方が同じ効率でより大量のエネルギーを得られるのだろう。
日本独自の、波紋とは異なるアプローチを試みた呼吸法。
だからこそ、鬼と同等の速さが出せるし、鬼に力で競り勝つこともできる。
必死の鍛錬でなんとかその領域の
だが、玖の型・白練のための布は先程駄目になってしまった上に、ここは開けた平地だ。
他の装備を取り出そうにも、この膠着した状況で少しでも隙を作るわけにはいかない。
しかし、幸いにして夜明けまでは程近い。
どれだけ長くとも、その時まで、この場に留まらせることができれば──後ろの4人の下へ向かわせることなく、日光に晒すことができれば、私の勝ちだ。
「──何だ。何を笑っている!」
攻防の手は止めない。
少しでも、此奴の意識を此方へ向けさせる。
「何、少しばかり安心しただけさ。上弦がどんなものかと思ったが──なんて事はない、所詮はただの鬼。
「俺が、奴らに劣っているとでも!?」
挑発に乗ってきた。
奴の顔の青筋が増える。
やはり、
2000年生きている鬼ではないことを確認し、内心安堵する。
「ああ劣っているともさ!こんな状況でも意思の切り替えができていない。思考を一方向に固めてしまっている!戦士としては二流だぜ!」
「一体何を根拠に──」
動きを読み、後の先をとるための足元の文様。
敵を
「──なんでこの期に及んで、
頬の肉がばっくりと裂けた。
直接当たらず、拳圧だけでこれか。
咄嗟に逸らした衝撃で、籠手の手甲部分が砕け散り、欠片が舞う。
はじめて、攻勢に出てきた。
敵意と戸惑いに満ち、見開かれた目には、私しか映っていない。
明確な殺意が宿った──その殺意の源を、本人も理解していないようだが──途端、動きが変わった。
頭を叩き割る意志を持った突きを、後方転回で回避。
そのまま地面に手をつき、振り上げた踵で拳を弾き飛ばす。
開いた胴体部めがけ、逆立ちの姿勢のままで体を捻り、波紋を纏わせた蹴りを入れる──が、逆の拳がそれを殴り逸らした。
上弦の参の拳が溶け落ち、切り捨てられるのと、私の脛当てが砕けるのが同時。
互いに、急所に一発でも入れられれば終わる。
予断を許さない攻防。
しかし、持久力ではどう足掻いても鬼が有利である以上、こちらとしては先手必勝あるのみ。
腕の力で跳躍し、脳天目掛けて踵を落とす。
流石に、頭部に波紋を喰らうのはまずいのだろう。腕を一本犠牲にして庇う。
そして──その腕が溶け落ちないことに、目を見開いた。
この蹴りはフェイクだ。波紋を通していない。
腕に接したまま、足を振り下ろし──地面に叩きつけた。
手の甲を踏み、地を這う姿勢のまま、縫い付ける。
逆の腕も踏みつけ、完全に固定。
波紋を集中させていた右拳を、
かふ、と気管支の奥から鉄の味が漏れる。
横腹に感じる熱。
両腕を動かせない状態で、しかし強引に曲げた脚が、私の胴体を掠めた。
明らかに人体ではありえない角度だ。アリかそんなもん。
ほぼ反射で避けたため、直撃こそ免れたものの、衝撃波までは躱しきれなかった。
出血はないが、内臓がしっちゃかめっちゃかになっている。
そして何よりまずいのが──肋骨が折れて、肺に刺さったこと。
空気が漏れ、肺がしぼむ。
「綾鼓さん!!」
「
呼ばれる声が、どこか遠い。
押さえつけていた両足を力任せに弾かれて、体勢がよろける。
呼吸をしようとする度に肋骨が喰い込み、激痛が走るが、波紋による緩和はしない。
波紋が流れる耳を切り落しながら、しかし上弦の参は酷く狼狽しているように見える。
追撃が来ない──どころか、何かに気付いたように、視線を外した。
見ると、空が白んでいる。
──夜明けだ。
上弦の参の脚に、力が籠る。
後ろに飛び退くための、予備動作だと、直感的に理解した。
「逃──が、す、かッ!」
口角から血の泡を飛ばしながら、足を強く踏み出す。
跳躍した上弦の参の足首を、すんでのところで掴めた。
体内に残った波紋の量では、一番遠い頭にまで届かない。
ならば。
──波紋の呼吸、弐の型・
高温を放つ、炎の波紋を、ありったけ流し込んだ。
それは、鬼の身体を濡らす油に伝わり──全身に、炎を走らせる。
「ギ、ァアアアアアアアアア!!」
火だるまになった上弦の参は苦悶の叫び声と共に、必死に逃れようと脚を振る。
手の骨が砕かれる前にそれを回避して、両手首を掴み、地面に引きずりおろす。
「オォ──ォオオオオオオオオ!!退、けえええええ!!!」
肩口を踏みつけて、できる限り動きを抑える。
もう体内に波紋は残っていない。
──構わない。
手が、脚が、諸共に焼かれる。
──構わない。
息を吸う。熱で気管が爛れる。
──構わない、構わない、構うものか!
絶対に逃がさない!此処で
「──杏寿郎ォ!!!」
「伊之助、動けーーーっ!!!」
力の限りの叫びの合いの手のように、赫い炎刀の模様が、視界を滑るのが見えた。
頸を一回りする鬼の痣に、刃が食い込まんと進む。
瞬間、衝撃。
吹き飛ばされる中見えたのは、両の腕が肩回りの肉ごと引きちぎられた鬼の姿と、粉々に砕け散った杏寿郎の日輪刀。
日輪刀を踏み台にして、大きく跳躍した上弦の参は、焼ける身体をそのままに、木の群れの中へ。
「待──」
がぼり、と大量の血で、言葉が遮られる。
激痛と出血で視界が霞み行く中、奴を追うように飛んでいく、鋭く黒い影を見た気がした。
綾鼓 汐
弐の型・紅緋
『
炎の波紋。
血流操作により、波紋エネルギーと共に熱を手足に集め、髪の毛を焼き切る程の高温を生み出す。
あくまでも温度を上げるだけで、実際に炎を生み出すには可燃性の物が別途必要。
因みに、髪の毛の燃焼・灰化温度は300℃。
猗窩座
何故目の前の人間(?)にこんなにも苛立つのかもわからないし、何故こんなにも此奴の言葉が神経を逆撫でるのかもわからないし、何故此奴が傷ついた姿を見て自分が動揺しているのかもわからない。
柱は殺せないわガキに啖呵切られるわで精神的にもう滅茶苦茶。
この後こっぴどいパワハラを受けるが、綾鼓を殺した(と鬼舞辻は判断した)ことでギリギリ許された。
杏寿郎とあの小僧は絶対に殺す。
鬼舞辻 無惨
やっと死んだかあの女。