File15 北方戦域
「DNAが二重螺旋の構造をしているのには、きっと意味があるのだろう。
ひとつではなく、ふたつ。ひとりではなく、ふたり。直線ではなく、螺旋。その先にあるものは、ただの終わりではない何かだ。」
一人の少女が椅子に腰かけている。
少女は厚手のコートを深く着込んでいて、表情はうかがい知れない。しかししきりに体を動かし、思い出したように立ち上がり――また座るのは、決して寒さだけが理由ではなかった。
自分を落ち着かせようと、深く吐き出した息が、白く広がっていく。そう見えた途端、大きな揺れがおき、息が霧散した。
少女を運ぶ軍用トラック。
揺れが激しいのは、道路の整備が悪いからだけではないだろう。いや、吹雪の叩き付ける音が強過ぎて、タイヤの騒音さえ聞こえないのだ。
隙間なく密閉されているのに、突き刺してくる寒波。既に乗り込んでから数時間が経過している。
いつ着くのか。少女はそう思い、コートのフードを少しだけ上げた。
その瞳は、興奮と不安がない交ぜになったダイヤモンドの原石だった。これから行く、初の戦場、単冠湾泊地。新兵という原石。
少女は椅子に置いた、小さなバックサックから、資料の入った
『川内型軽巡洋艦二番艦 艦娘 神通』
ここからだ、ここから私の物語が始まる。
新兵としての物語が。
武功艦『神通』としての、新たな物語が。
握る登録票に、力が入る。写真に小さなしわが入った。
まだ新兵の神通に、配属命令が下ったのはほんの数日前のことだった。
大湊警備府が管轄する単冠湾泊地。数日かけて、ようやく直通の軍用トラックに乗り込んだのである。その背中には、疲労の色が濃く出ていた。
だが、顔に疲労はなかった。
目を輝かせながら、到着を心待ちにしている。建造されてから一か月間、横須賀の研修施設で延々と訓練ばかりしていた神通は、屈折した感情を持て余していたのだ。
それは新兵特有の未熟さもあったが、別の理由もあった。
訓練中に耳にしたあの噂だ。大本営は認めていないが、レイテ沖や、ソロモン諸島を解放したという英雄の存在。彼女は英雄に強く憧れた。だからこそ、早く実践に出て、英雄と同じ舞台に立ちたかったのだ。
そういっても体の疲れはある。長旅のせいで首を上下に揺らしてしまっていた。それでも寝なかったのは、他人の目線があるからだ。
「…………」
神通の向かい側に、彼女は座っていた。
大湊を出る船の中で彼女と出会ってから、一緒の旅をしていた。軍用トラックに乗っているのだから、軍の関係者で間違いない。目的地も同じ単冠湾だ。
自分と同じコートを着込んでおり、フードのせいで顔は伺えない。わずかに見える美しい銀髪で、神通は女性と判断した。長いドライブにすっかり飽きたのか、彼女の傍らには、バベルの塔と化した灰皿が置かれていた。
「私に用でもあるのか」
不機嫌な目で、女性が睨み付けてきた。凄まじい威圧感を受け、慌てて話を考える。
「あ、いえ、行き先は単冠湾泊地ですか?」
「どこでも構わないだろう、お前には関係のないことだ」
突き放した態度に、神通は少し落ち込んだ。
「お前こそ何の用だ?」
「用? 用と言いましても、艦娘として配属されただけですが」
「今このタイミングでか?」
そう言って彼女は首を傾げていた。
配属は常に起きている。時期によって多い時はあるが、いつだって起こりうる。タイミングも何もない。
「お前、あそこの現状を知らないな?」
と言われても何のことか。
神通は目線を合わせたまま、ついでに口を半開きにして固まっていた。銀髪の女性は、呆れたように椅子に凭れ掛かる。何となく気に入らない。
「何も知らされていないというわけか」
「どういうことですか?」
「すぐに分かる。まああそこに変な期待を持たないことだな」
「……何なんですか貴女は」
質問ばかりしてくる彼女に、不満が湧いてきた。何だって単冠湾への期待を壊されなければいけないのか。
「ただの傭兵だよ、
PMSCsは、今もっとも活発な産業だ。
深海凄艦によるシーレーン断絶により、世界は失業者で溢れた。その供給は、深海凄艦に対する軍拡で補充される。と思われたが、艦娘で埋まってしまった。
だからといって、治安維持や哨戒、国境警備といった自衛隊本来の仕事は消えない。だがそれに艦娘は投入できない。彼女たちはあくまで対深海凄艦用兵器であり、対人戦には使用してならない――という、艦娘保有国、暗黙のルールがあるからだ。
その為に兵士を増やす軍費はもうなかった。その役目を負ったのが、PMSCsだった。艦娘に仕事を取られ、行き場を失った軍人の受け皿としても機能し、瞬く間にPMSCsは全世界規模まで広がり、世界の主要産業まで伸し上がったのだ。
「傭兵が軍の基地に?」
「憲兵隊の業務を陸軍から委託されたんだ。艦娘のせいで陸の予算は少ない、削れる部分は削ろうってことだ」
憲兵隊とは、軍内における警察組織である。兵士が軍規に違反していないかを監視し、規律を保つための組織だ。その設立には、陸軍の意見が強く反映されている。艦娘のおかげで権力が増大した海軍に対抗するためだ。
「だからって、憲兵隊の仕事を委託していいものなんですか」
「癒着もある、社長が元艦娘でな。平社員の私が知ることではないが」
「癒着って……」
平然と違反行為を口にするが、珍しくもない話だ。
解体された艦娘は、そのまま人間に戻る。しかし軍艦としての宿命故か、平穏な生活になじめず、軍への出戻りやPMSCsへの就職が後を絶たない。自治体の復帰プログラムも余り役に立ってはいないようだ。これによって、PMSCsは勢力を更に加速させるのだ。
その経済効果も相まって、
「しかし、女性の経営者ですか」
「変な話か?」
「いえ、どうも
「極限状態でより冷静な判断をできるのは女性だ、肉体的には劣るが、軍が男所帯というのは、前世紀の考え方だ」
「艦娘が女性なのも、もしかして」
「それは妖精に聞かないと分からないが、艦娘が戦闘に適しているのは客観的な事実だ」
「この体も?」
「恐らくは」
ふと、分厚い手袋に覆われた自分の手を見つめる。
取り外すと、華奢な指が少し熱を帯びていた。
自分の体温で温められた指が、少しづつ冷たくなっていく。熱と冷たさ、麻痺したような痺れ。ぼんやりと、現実ではない感覚を感じている。
けど、これは現実の感覚。切り離されたようでも、艦だった頃には分からなかった痺れ。それは彼女が、生物であること、遺伝子で構成された生き物の証明。痺れた指が、触れられない何かに触れていた。
再び冷たくなる指を見て、神通は思う。
この指はどれだけ、彼女に似ているのだろうか。これだけで熱を奪われる華奢な指。しかし男性の骨ばった指より、普通の女性よりもトリガーを引きやすい指。
「アーセナルの手は、もっと力強いのでしょうか」
「……レイテの英雄とかいう、大本営のプロパガンダか」
「私は、彼女みたいな艦娘になりたいんです」
夢を語るような気分で――実際に夢なわけだが――神通は『英雄』アーセナルへの思いを語り始めた。呆れ返る彼女にも気づかずに。
「どんな困難な局面でも諦めずに、危機に陥った艦娘たちを助けてくれるあの姿に、私は憧れているんです」
「意図して助けた訳では無いだろう」
「そうでしょうか、私はそうとは思えません。レイテの時も、ソロモン諸島の時も、一切の見返りなく誰かを助けられるなんて――」
誰かを助けるために何かを成す。
まさに艦娘の理想形だ。
そんな艦娘になりたいと願う神通にとって、アーセナルギアは憧れの的だった。
「私は彼女のような英雄になりたいんです、大切な人を護れるだけの力を持つ……そんな艦娘に」
「下らないな」
神通の夢を、彼女はまた一言で否定した。
「英雄など誰かが勝手に造り上げた妄想に過ぎない、お前の考える英雄アーセナルは実在しない。いいか、これは忠告だ。英雄に憧れるのは止めろ。憧れる限り――お前は英雄にはなれない」
灯の灯ったタバコを、彼女は神通に向けて突き立てた。
全身から、英雄に対する嫌悪感が溢れ出ている。ここまでアーセナルギアを否定したいのか、神通には全く分からなかった。
「それに、その夢は決して叶わない。特に単冠湾ではな」
指先のタバコを口に加えて、彼女はフードを深く被り目線を塞ぐ。これ以上の会話はしないということか。
こんな人と、単冠湾で一緒なのか。
上手くやって行けるのか不安で仕方がない。全員と仲良くできる訳がないが、初対面がこれなのは正直かなりきつい。
「……早くつきませんかね」
ぽつりと呟いた一言は、霞の中へ消えていった。
*
それからは徹底して無言のままだった。
神通は資料に目を通し、彼女は惰眠を貪っている。気まずい空気はそのままだが、これ以上悪化させることもないだろう。何度か出そうになったため息を、4、5回のみ込んだ頃、彼女が不意に目を開けた。
「動かないな」
「ええ、どうしたんでしょうか」
一度ブレーキをかけたっきり、ジープは動かなくなってしまった。この辺境で渋滞はありえない。
「おい、何をしている」
女性は運転席への扉を開け、運転手の肩を叩く。
その度に体が振り子のように揺れ、叩く度にふり幅が大きくなる。そして勢いよく、地面へと倒れ込んだ。
「何っ!?」
「ひっ……!?」
倒れた拍子に、神通の方へ向いた顔を見て、悲鳴が漏れる。
運転手の額には、どす黒い大穴が空いていた。そこからとめどなく、血の濁流が流れている。瞳も黒く染まり、何も映していなかった。
「し、死んでる!?」
「何をしている、敵襲だ!」
神通は、これが死体だとは思えなかった。
いや、これ以上に酷い外見となった死体は見慣れている。しかし人としての
運転手の顔には、焦りも絶望もなく、何時も通り普通の顔をしていた。襲撃に気づく間もなく死んだのだ。恐怖を感じる暇がなかったのは幸いかもしれないが、前触れのない死を感じさせるその顔に、神通は吐き気を堪えるのが精一杯だった。
「――神通後ろだ!」
「え、何で私の名前――」
「深海凄艦だ!」
神通が振り向いた先には、竜の頭があった。
白い肌をした巨大な蛇の胴体に、黒い装甲がついている。先端には頭があり、左右にそれぞれ主砲が。頭上部分には飛行甲板が設置されている。それはまさに、今火を噴かんとする竜の頭だった。
始めて、そして心の準備もなく遭遇した深海凄艦に、神通は一歩も動けないでいた。こんなので英雄を目指す気か、と走馬燈の誰かが自嘲する。同時に走馬燈の誰かが、こんなところで終わるのか、と絶叫した。逃げなければ、だが体が間に合わない。
「クソ、これが同じ神通か!」
間一髪で神通を助けたのは、気に入らなかったあの女性だった。彼女は神通を抱えながら、窓ガラスを蹴り破り外へと飛び出す。発射された主砲がジープを消し飛ばすまでに、コンマ数秒しかかからなかった。
「いったい何がどうなっているんですか!?」
「上だ、ジープの上のあいつが敵だ」
燃え盛るジープの上に、
もうもうと立ち込める霧で良く見えないが、シルエットだけで分かる。角も棘もないただの人の影。そこから長大な
それはイロハ級の中で最狂と呼ばれる個体の影だった。
「そんな、戦艦レ級!?」
神通は絶望した。
個体の意志が希薄なイロハ級の中で例外的に、姫に従わないことがある深海凄艦、それがレ級だ。隷属しない理由は簡単、強過ぎるから。下手な姫よりも遥かに強いので、制御が困難なのだ。
そんな化け物が、目の前にいる。
しかも実戦経験のない新人と、ただの人間の前に。どう考えても生き残れる訳がない。だが今少しでも時間を稼げるのは自分だけだ。彼女を護らなくては。
「お前、艤装はあるか?」
「いえ、ありません。先に単冠湾に送られていたんです、でも時間を稼ぐくらいはできます」
「その必要は、ない」
そう言って彼女は、レ級へ向かって行った。
正気ではない、人間が深海凄艦に勝てる可能性はない。神通は慌てて止めようとしたが、何と膝が笑っていて一歩も動けないことに、今更気づいた。
「一隻程度で、この私を止められると思うなよ」
「――――ッ!!」
声にならない絶叫と共に、レ級が跳躍する。空中から放たれた砲撃は、女性の周囲を完全に覆い尽くす。空中から散布された三式弾のような飽和攻撃、一撃でも喰らえば死ぬ。次々と降り注ぐ砲弾が、爆発とともに塵を撒き散らす。
塵が収まった頃には、女性の姿は何処にもなかった。
肉片一つ残らず死んでしまったのだ。空中から着地したレ級は、神通の前に降り立つ。この期に及んで、まだ足が動かない。いや、動く、後ろになら。
レ級が一歩踏み出すたびに、神通も一歩引く。
だが長くは続かない。
更に下がろうとしたところで、道が途絶えてしまった。
そこから先は、崖になっていた。
見下ろす限り、底の見えない断崖絶壁が、神通の背中だった。落ちた先は岩礁塗れの海に違いない。もう逃げることもできない。
再び前を向くと、レ級が目と鼻の先まで迫っていた。
漆黒のレインコートと霧に隠れた顔は、墨で塗りたぐったように真っ黒だった。それでも神通は漆黒の能面に、こちらを嘲笑うレ級の心を見た。
心臓が煩く鳴り響いて、耳の奥が痛くなる。膝も手も震えて、全身が死にたくないと悲鳴を上げる。神通の心も悲鳴に耳を塞ぎ、視界さえぶれ始める。黒いレ級のコートだけが、霧に混じって揺れていた。
「とった」
神通の眼の焦点は、たったその一言で合った。
気配もなく、彼女はレ級の背後に回り込んでいた。いったい何時? その答えは、服の端が燃えていることで理解する。あの一瞬で燃え盛るジープの真下に逃げ込んだのだ。しかし何時爆発してもおかしくないジープの中に逃げるとは。
反射的に振り向いたレ級の体が、突如、宙を舞った。
足を蹴られ、同時に腕を強く引かれてバランスを崩したのだ。そのままレ級は空中を一回転し、頭部から地面へと叩き付けられる。生々しい音が聞こえると、レ級の首は180度回転していた。
「これで完了だ、大丈夫だったか」
「は、はい……ありがとうございます……」
「分かったろう? お前が英雄になるのは不可能だ」
全く言い返せなかった。あの状況で足どころか、指一本動かせなかったのだから。しかしそれを認めたくもないので、神通はひたすら黙り込んでいた。ここまで近くにレ級が現れたことより、自分の未熟さを悔しがるので一杯だったからだ。
「仕方がない、ここから単冠湾までは歩きだな」
と、彼女が神通に手を伸ばす。
それを取ろうとした瞬間、彼女の背後から、
無論首が180度回転したので、レ級は死んでいる。
なのに、
「後ろです!」
「なっ!?」
背後にいたのは、首がねじ曲がったままの、レ級だった。
気づいた時には遅く、レ級は長大な尻尾を全力で叩き付けようとしていた。何故生きている、首が折れれば深海凄艦だって死ぬのに。再び走馬燈が走ろうとする。
「邪魔ですよ!!」
しかし、吹き飛ばされたのはレ級の方だった。
凄まじい勢いで突っ込んできた軍用ジープに吹き飛ばされ、首の折れたレ級はそのまま崖の下へ落ちていった。ジープの方は激突の衝撃で、ギリギリ踏み止まる。
「シエルさんと神通ですね!」
ジープから顔を出したのは、ピンク色の髪の毛をした、ツナギ姿の女性だった。助手席には同じくツナギを着た、黒髪の男性が乗っている。シエルとは―――普通に考えて、彼女のことだろう。
「そうだ、お前は?」
「私は工作艦明石です、隣の人は――」
「艦娘ではないが、メカニックの川路だ。悪いが説明している時間はない、神通、この艤装を装備するんだ」
川路というメカニックが、乱暴に艤装を押し付けてくる。それを取ろうとした途端腕を掴まれ、後部座席に放り込まれた。
「何があった、こんなところまでレ級がいるなんて。単冠湾はそんなに酷い状況なのか」
「説明している時間はないと言った」
シートベルトもつけずに急発進し、神通はシートに背中を叩き付ける。乱暴な運転の中で、神通はどうにか叫んだ。
「一体何が起きているんですか!? 説明して下さいよ! 泊地の人は何をしているんですか!?」
「じゃあ今の状況だけ言います!」
ジープの音に混じって、遠くから爆音が響きはじめる。それに消されないよう、明石が声を張り上げて叫んだ。
「単冠湾は今、深海凄艦に襲撃されているんです!」
「――襲撃!?」
「後は生き残ったらだ、二人共それで納得してもらう」
川路の一言は、有無を言わさなかった。
霧は晴れたと言うのに、これからの展望は全く見渡せない。走り抜けるジープの煙が、空を覆い尽くす。まるで嵐の前兆のように。
冒頭の引用は
『メタルギアソリッドサブスタンスⅠシャドー・モセス』(著:野島一人/角川文庫)
による。
川内型軽巡洋艦 二番艦 『神通』
『華の二水戦』旗艦として名を馳せた軽巡洋艦の、艦娘としての姿。一ヶ月程前に神戸の建造ドッグにて建造、そこから一か月間横須賀で研修を受け、単冠湾泊地に急遽配属となる。
しかし壮絶な史実に反し、当人の性格はよく言って控えめ、悪く言えば自信に欠けている。その分『レイテの英雄』アーセナルギアや、『ソロモンの救世主』青葉に憧れている。当然『改二』には至っていない。
大本営の統計によれば、大概の『神通』は改二改装を行った時点で性格が大幅に改善されるとあるが、これが戦闘経験を積んだからなのか、他に原因があるのかは不明。