吹雪が止んだ。
雲の消えた星空が、夜の闇を照らしている。アリューシャンの海に、二対の影が伸びていた。一瞬の違いもない、文字通りの写し鏡。
その片割れが、ぐらりと崩れる。
夥しい血が流れ落ち、導かれるように彼女も膝をつく。全身に突き刺さった魚雷は爆発を呼び、爆発は炎を呼び、炎は全身を駆け巡る。血と炎が入り混じり、グロテクスな華が咲いていた。
まるで日の出だ。神通はそう感じた。
真っ暗な地平線から伸び、孤独に光を放つ。瞬く間に昇っては沈み、それを繰り返す。これは、一晩だけの太陽。軽巡棲姫の残り火は、太陽のように激しいが――春のように暖かくもある。
彼女に憧れて、私はここまできた。
スネークを通じて、彼女を知り、その上で私は私の道を選んだ。自分の道への分岐点、その最後に立っていたのが、彼女だ。
その太陽は、もう沈む。一瞬の輝きを残して、あとは消えるだけ。これから私を照らすのは私だけなのだから。
「……負ケタノネ……私ハ……」
海面に倒れた軽巡棲姫は、夜空を仰ぎながら呟いた。負けて、これから沈むというのに、どこかすがすがしい表情をしていた。
彼女の顔を隠していた面は、真っ二つに割れていたのだ。肌は青白かったが、自分そっくりの顔だ、一部を除いて。
「貴女、目が」
「……戦艦棲姫ニ、目を潰されたからかしらね」
D事案による復活は、完全な蘇生ではなかった。余りにも酷い傷は、深海凄艦に変貌しても治らないのだ。
ソナーを使っているからといって、聴力が良すぎるとは思ったが、そういうことか。視力や聴力といった五感の欠けた人は、代わりに別の感覚が鋭くなるという。脳で言うなら機能代償という、生命に備わる機能の一つだ。
「それとも……もう何も見たくなかったから、かしら……」
しかし代わりでしかない、失ったものは戻らない。軽巡棲姫のなくしたものは、視力だけだったのだろうか。
「でも、どうしてかしら……今、貴女の顔が観れないのが……とても苦しいの……」
神通は、おのずとしゃがみ込んでいた。
軽巡棲姫の手を取り、自分の顔に触れさせていた。彼女は撫でるように手を動かしながら、口元を緩める。
「……別に、後悔なんてしてないわ。人も国も壊そうとしたことも、艦娘をいっそ、全員沈めようとしたことも」
軽巡棲姫の憎しみに、神通は強く共感した。命も仲間も誇りも利用された無念は、深海凄艦でなくとも理解できる。
しかし軽巡棲姫は、その中で別の思いも抱いていたのだろう。そうでなければ、今ここで、彼女が泣く訳がない。
「でも、違ったのね……私はきっと、この結末を望んでいた……」
憎しみに呑まれていた、下種に成り果てていた。だが、それでも彼女は、どこまでも神通なのだ。私と同じ誇りを秘めた軽巡洋艦の化身だ。
「貴女に証明して欲しかった……私が、信じられなくなってしまったことが、本当に……正しい思いだと……」
軽巡棲姫は、神通を否定していた。それはかつての自分を否定する行為だ。だがその
「終わらせて、欲しかった……」
涙が流れる度に、彼女の体が消えていく。亡霊艦隊と違う、深海凄艦として正しい死を彼女は迎えようとしている。
「私の、ことは……忘れなさい……私は『神通』という艦のイントロン……消えることが……運命です……」
「馬鹿なことを言わないで下さい」
軽巡棲姫は、がらんどうな眼を見開いた。
何故彼女は、こんな自分を泣きながら抱きしめているのだろうか。とでも思っているに違いない、だから振り解かれないように力を込める。
「貴女は、随伴艦を連れてこなかった。独りで戦いに来た」
彼女は、正面から戦いたいからと言った。だがそれが嘘だと、戦闘の中で神通は見抜いていた。
「こんな陰謀塗れの戦いに、仲間を巻き込みたくなかったからではないんですか」
それは、軽巡棲姫に残った最後の誇りであり、縋る支えだったに違いない。
美保関沖の罪、誇りで隠した無念。認めたくない淀み――私の思いは、その淀みから生まれたものだ、だからこそ。
「……でも」
「忘れません、貴女の全てを引き継ぎます――任せて下さい、『神通』」
強く、風が巻き上がる。手元から星空に向かって、桜吹雪が歌う。それは一瞬だけ輝いて、曇天の中へと散っていった。
確かに聞こえた、『お願いします』と。
透き通った、私の声で。
「了解しました――」
同時に、神通も倒れ込んだ。
疲労は、とうに限界を越えていた。急速に霞んでいく視界に、激しくなる吹雪が見える。このままだと凍死してしまう。
そんな馬鹿なことがあってたまるか、絶対に沈むものか。先輩から託されたものを、此処で沈めてはならない――しかし無情にも、神通の意識は吹雪に掻き消された。
*
声が聞こえる。
誰の声だろうか、聴きなれた声だ。ゆらゆらと揺れる感覚が心地よく、また瞼を閉じそうになる。
「起きたか」
「……スネーク?」
神通は今、スネークに抱きかかえられていた。状況を理解すると同時に、恥ずかしさで意識が覚醒する。慌てて体をよじり、抱っこから脱する。
「そうだ、核弾頭はどうなったんですか」
核がなければ川路と取引はできない、仲間たちの安全は保障されないままだ。
「ああ、核を手に入れる必要はなくなった。お前が気絶している間に、状況は一変した」
「どういうことですか」
「合衆国側の艦娘を率いていたDARPA長官が、逮捕された」
対艦娘用核弾頭を作った当時の責任者は、開発をモセスで行っていた。
しかし偶然北方棲姫の襲撃を受け、輸送する準備もなく、偽装工作だけ済ませて脱出する羽目になった。輸送自体は可能だったが、ばれないよう本土に持ち込む事前準備が間に合わなかったのだ。
それから時間が経ち、日本政府が――核だとは気付いていなかったが――
あげくそれでも駄目ならと深海凄艦と手を組み、明石の拉致や直接襲撃と言う手に打って出た。表に出にくい特殊部隊を独断で動かしてまで、隠蔽しようとした。しかし、あまりに敵対的な行動をとった開発責任者――DARPA局長は、ついにそのツケを払うことになった。
DARPA局長の逮捕に伴い、彼の指示に従っていた艦娘たちも全員逮捕され、包囲されていた別動隊は保護された。別働隊にはこれから事情聴取が行われる。
彼女たちは利用されていただけ、酷いことにならないといいが、とスネークは呟いた。
それに伴い、日本政府も対応を変えざるを得なくなる。
向こうが非を認め手を引いたのだ、なのに日本が何時までも核弾頭に拘っていたら、事体は余計にこじれていく。隠し場所がモセスだと分かっただけでも、儲けものと考えるべきだろう。
「核弾頭は無事だったんですか」
「……いや、一つ奪われた」
「奪われた!?」
戦艦棲姫が核を発見したのは、神通が軽巡棲姫との決着をつけた直後――つまりスネークと北方棲姫がモセスに上陸する直前だった。それに核弾頭は重量も凄まじい、イロハ級のコントロールも北方棲姫に戻っている。そんな中では、一発だけ盗むのが限界だった。
「それでも核ですよ!?」
「分かっている、私はこれから北方棲姫と共に、核弾頭の行方を捜す。仲間もいる」
「仲間?」
「青葉と、伊58だ」
神通が気絶している間に、取引をしていたのだ。
それは伊58の提督を助け出す代わりに、自分に協力してほしいというものだった。提督が助かればそれでいい彼女は、その条件を呑んだ。今更日本に戻れるはずもない。
一方青葉はというと、彼女は任務の為だ。
そもそも青葉が単冠湾泊地に送られたのは、スネークの監視のためだ。その任務を続ける為であり――スネークを見ていたいという、個人的な感情もある。
任務を続けている限り、古鷹たちの安全が保障されるのも、理由の一つだったらしいが。
「なら私も」
「駄目だ、お前にはやるべきことがある。いや、言うべきことだ」
神通はふと、吹雪の向こう側の明かりに気づく。その明かりは、保護され事情を聞かれている仲間たちの光だった。
振り向くと、スネークの姿が遠ざかっていく。
「悪かった、あいつの始末を、お前にやらせてしまって」
「え?」
「あいつを沈めるのは、私の役割でなくてはならなかった」
神通は、スネークの本心を始めて聞いた気がした。英雄の虚像でも自由を追い求める蛇でもない、一介の艦娘としての姿が、無線機越しに見えた。
「だがお前はお前の意志で決着をつけた、なら今更どうこう言うことはない。そのゴーグルは礼代わりにやろう」
背中を向けた彼女が、振り返る。
「それでも、一言だけ言わせて貰う」
沈黙が終わるのを、神通は待つ。
少し迷ったのは、今更遅すぎたからだろう。それでも言いたかったのだ――スネークの言葉を聞き、神通は思った。
「ありがとう」
瞬間、吹雪が止んだ。
同時にスネークの姿も、霞のように掻き消えた。代わりに目の前にいるのは、会いたくて仕方がなかった仲間たちの姿だった。
*
神通は姉妹と共に、少し離れた場所にいた。
監視は必要ない、逃げようとすればレーダーで分かる。逃げる理由もない訳だが。神通が離れたのは、この会話を他人に聞かせたくなかったからだ。
「おかえり、神通ちゃん」
「はい、戻りました」
同時に、那珂が抱きしめてきた。
正直痛かったが、拒絶する理由はない。彼女が力を入れる度、神通も腕に込める力を強める。そうやってお互いが生きていることを確かめる。川内は静かに、二人を見守っていた。
「体調は大丈夫なんですか、私がいない時、異常な不快感に襲われたと聞きましたが」
「大丈夫だよ、それをやった川路はもう単冠湾から逃げたらしいからね」
「川路が? では提督はどうなったんですか?」
富村提督は、任務に失敗したとして川路に拘束されていた。彼もまた政府に利用されていただけだったのだ、そんな終わり方ではあまりにも酷い。不安が顔に出ていたのか、川内が肩を叩き、無線機を出してきた。
「これは?」
「今提督と繋がってる、大丈夫、提督も無事」
無線機の奥からは、慌ただしい音が聞こえる。ことの後始末に、色々な職員が雪崩れ込んでいるのだろう。その中の一つに、疲れを隠せていない富村の声が聞こえた。
「提督、聞こえますか」
「その声、神通か、君も無事だったのか!」
提督が喜ぶと、自然とこちらも嬉しくなる。この泊地にいたのは全員、何らかの形で利用された被害者ばかりだ。同じ境遇の仲間が無事だったことに、心から安堵する。
「そちらはどうなったんですか、合衆国側の事情はスネークから聴きましたが」
「ああ、日本も日本で、慌ただしくなっている。だが君達が悪くなる流れにはならない、させないよ」
「……どういうことですか?」
米国が動いたことによる影響は、ただ単に核を諦めたことに留まらなかった。
そもそも事の発端は、DARPA局長が単冠湾をブラック化させたことに始まる。これは当然、合衆国の責任になる。
しかし、その後はどうだろうか。
川路という日本政府の代役が行った所業は、それこそブラック鎮守府の運営に他ならない。米国は一切関わっていない、日本による行為である。
そして、今合衆国は、その事実を証言できる艦娘を確保してしまっている。
そうなれば日本の立場は、凄まじく悪化することになる。冤罪ではあるが既に一度世界からバッシングを受け、すぐにまた同じ過ちをやったことになる。今度こそ国連の介入を受け、艦娘大国日本は完全に瓦解するのだ。
だが日本にもカードはある。合衆国が作ってしまった三発の新型核弾頭だ。
艦娘や深海凄艦に核を含む通常兵器が効かないのは、何か超常的な力場が働いているからだ。新型核の開発はつまり、そのバリアを如何に破るかが課題だった。
その為に、シャドー・モセスの研究所には、夥しい数の
核とブラック。
今日本と合衆国は、それぞれの喉元に致死性の毒を塗り込んだナイフを突きつけた状態なのだ。だがそのナイフは実質、硝子でできている。
そう、証拠がない。
どれも証言に留まり、肝心の物的証拠がない。核に至ってはスネークと北方棲姫が管理してしまっている。核抑止に例えるならば、出まかせで言ってみた核同士を突き付けているような物なのだ。
〈どちらも噂に過ぎない、今お互いが沈黙を決めれば、一切外に漏れずに終わることができる〉
〈では政府は、この件をうやむやにするつもりで?〉
〈いや、誰かが責任を取らねばならない〉
戦闘が起きていた件までは、うやむやにできない。となると考えられるのは、戦闘が起きた理由を誤魔化すためのカバー・ストーリーだ。
神通の脳裏に不安がよぎる、カバー・ストーリーの裏で消される可能性だ。川路のやったことを思い出すと、もう簡単に政府を信じられなくなってしまった。
〈安心してくれ神通、言ったろう、悪い方向には
〈何ですって〉
提督の言葉を聞き、胸に巣食っていた不信感だの何だのは吹き飛んだ。何を馬鹿なことを、こんな核弾頭まで絡んだ事件の責任を負えば、ただでは済まない。下手をしなくても軍法会議に送られて、ろくな議論もなく処罰されるに決まっている。
〈私は、私がそんなことの為に戦ったと思っていたんですか〉
〈いや、『神通』がどんな意志で戦うのはマニュアルで知っている〉
〈なら何故、私が護りたい仲間は、貴方もですよ!〉
『神通』という艦娘は、誰よりも仲間を大切にする。遺伝子でそう決められている、軽巡棲姫でさえそこからは逃れられなかった。それを利用したのが川路であり、富村提督だ。しかし、彼の場合は止むを得ない事情があったに違いない。こんな形ではなく、彼も助ける形でことを終わらせたい。
〈私は、駄目だ〉
〈どうして〉
〈私はただ、死ぬのが恐かっただけなんだ〉
神通は、伊58は大切な人を人質に取られて脅された。
しかし富村の人質は、自分の命だけだったのだ。任務に失敗すれば、責任を取る形で始末される。表の歴史から彼の存在は抹消される。ブラック鎮守府運営の責任を全て負って。それと引き換えに、この任務に従事したのだ。
〈私は自分が助かるためだけに、君達を利用した。あのマニュアルだって君達の全てを侮辱するものだと分かっていたのに〉
〈そんな、そんなこと仕方がないじゃないですか〉
誰だって死ぬのは嫌だ、それを否定してしまっては、生命としてのあり方まで否定してしまう。過去から逃れられない亡霊でも生きたいと願いのだ、今を生きる人間なら生を望んで当たり前だ。
〈誰かを利用した時点で、私は川路や政府の同類だよ〉
〈……これしか、ないんですか〉
〈悲しまなくていい、これは始めて、本心からそうしたいと思った行動なんだ〉
人の記憶から消えるということは、最初から存在しなかったことと同じだ。誰からも思い出されず、歴史の沼に埋もれる。大戦の名前に括られて、個々の存在を忘れられていた――かもしれない――艦娘として、最大の恐怖。
それを何故望むのか、神通は分からない。
〈君に憧れた、どこまでも愚直に、馬鹿みたいに、盲目的に――それでも尚、仲間を信じて戦える君の姿が眩しかった〉
〈どうして、嬉しそうな声を出すんです〉
〈当り前じゃないか、憧れてた人に、これで一歩近づけるんだ。傲慢かもしれないけどね〉
文句など言える筈も無い、かつての自分もアーセナルギアに憧れていたのだから。
提督の場合虚構の英雄ではなく、本物の私を見た上で判断したのだ。止めることはできない。
〈……提督、短い間でしたが、お世話になりました〉
〈そう言って貰えると、幸いだよ〉
〈でも利用されたことは許さないので、代わりに一つ約束して下さい。またいつか、貴方の元で戦わせてください〉
もしかしたら、彼の判断が後に正しくなるのかもしれない。
今は間違っていても、また会った時には真実になっているのかもしれない。生きていれば、それを変えられるチャンスは幾らでも来る。駄目だったのなら、その時は――世界を変えていけばいい。
〈ありがとう、君に会えて――〉
〈その言葉は、また今度で〉
〈……そうだね〉
無線は切れた、寂しさもあった。しかし不思議なことに、悲しみは湧いてこなかった。姉妹たちが傍で見守ってくれていたからかもしれない。あの戦いも直接見ていないが、見ていてくれただろう。
いや待て、見ていた?
神通は今更、自分がどうやって助かったのか疑問を抱く。モセス付近は常に猛吹雪が吹いていた、しかも凍死寸前だ。如何にアーセナルギアが高性能なレーダーを積んでいても、凍死するより早く見つけられるのか。
「どうしたの神通ちゃん」
「いえ、大したことではないのですが」
今抱いた疑問を二人に話してみる、すると彼女たちは眼を丸くして固まった。少し呆れているようだが、何か可笑しなことを言ってしまったのか。
「気付いてないの?」
「いや、自覚するだけの余裕がなかったんだよ」
川内は神通の手を握ってみせた。
おのずと視線は、二人の手に向かう。川内に重なった神通の手は、細くしなやかに光を帯びていた。
手が、光っていた。
「改二練度到達、おめでとう」
改二改装が可能な練度になると、体が淡く輝く。横須賀で教育を受けていた時に教わったことを、今更思い出す。
「改二……これが……?」
「軽巡棲姫を沈めたから、それで一気に経験が上がったんだよ」
「その光が、スネークの目印になったんじゃないかな」
事実としては、そうだろう。
しかし神通は、これがただ敵を沈めた武功とは思いたくなかった。彼女が助けてくれたのだと、信じることに決めた。
また吹雪が舞い上がる、桜吹雪が一瞬だけ、幻影を作り上げる。
今は何月だったか、確かもう、四月に入る。
氷が融け、桜と春が訪れる。終わりと始まりは同じ地平にある、そうやって命は続いていく。私はそこに立っている。
そして、また歩き出すのだ。
新しい命が生まれる、その地平まで。
*
あれから数か月が過ぎた。
春はとっくに通り過ぎ、汗が止まらない夏に差し掛かっている。特に単冠湾から遠く離れた横須賀では、尚のこと。
あの核を巡る事件から時間が経ったが、今のところ、私たちが何かされたことはない。提督が責任を負ってくれたお蔭だ。
音沙汰はないが……青葉が纏めた極秘作戦の情報を彼は持っている。殺される可能性がなくなっただけでも、大分安心できた。
しかし他の仲間とはすっかりバラバラになってしまった。
スネークは青葉と伊58を連れて、北方棲姫の元に。そこで核弾頭を探しつつ、忍者や亡霊艦隊について探っている。木曽と多摩は別の戦場に、明石はまだ治療を受けている途中だそうだ。折角出会えた姉妹とも、別れてしまった。
川路の行方はさっぱり分からない。しかし元々日本政府の工作員だ、別の基地で何か暗躍しているのだろう。良い気分ではないが。代わりに捕縛された米艦娘たちは、復帰プログラムを受けている最中、余計な犠牲が減ったことは、素直に嬉しかった。
そして神通は横須賀に配属されていた、護りたい仲間はいない基地に一人。しかしその戦いは、単冠湾とはまるで違う戦場だ。
「神通さん! 準備できました!」
いつかあの時出会った艦が、彼女たちが精一杯に叫ぶ。うっかりすると綻ぶ顔を締め付けて、彼女たちを神通は見据える。
「左弦、第六駆――雷撃戦、開始」
あの戦いがどこかで評価されたのか、神通は駆逐艦を率いることになった。またあの子達と戦えると思うと、嬉しくて仕方がない。慣れない指導さえ、やる気で溢れる。
彼女等を、無駄死にさせて溜まるものかと、私が叫ぶ。
やはり、そうなのだ。
どうやっても、あれだけ酷い目にあっても、それは変わらない。『神通』とは、仲間を護る性を持っている。そういう艦娘だと遺伝子に刻まれている。ここから逃げることは、生きている限り不可能だ――軽巡棲姫も、最後までそうだった。
けど、それだけではない。
単冠湾泊地の仲間と別れたが、新しい仲間と出会えた。出会いと別れを延々と繰り返し、終わりに向けて進んでいく。
遺伝子が二重螺旋をしているのは、きっとそれが理由だ。
独りではなく二人、くっつき、そして離れる。立場も場所も価値観も一か所に留まらず、螺旋のように廻っていく。
その道のりは遺伝子に記されていない、私だけのものだ。私は遺伝子という楽譜を、道のりの楽器で弾き鳴らす。そこにこそ価値がある。かつての仲間がいない此処での戦いも、いつか誰かを護る力になる。
私は神通だ。
建造で幾らでも造れる、一介の神通だ。
けど此処にいるのは、他の誰でもない。栄光の第二水雷戦隊旗艦を務めた、川内型軽巡洋艦の名を受け継いだ、『神通』だ。
海上自衛隊 あぶくま型護衛艦
DE230 「じんつう」
排水量 基準2,000kt
全長 109m
全幅 13・4m
機関 ガスタービン×2基
ディーゼル×2基 2軸
機関出力 27.000PS
最大速力 27kt
乗員 約120名
兵装 62口径76mm速射砲×1
SSM4連装発射装置×1
アスロック8連装発射装置×1
3連装短魚雷発射装置×2
高性能20mm機関砲(CIWS)×1
地方警備隊の主力として建造された彼女は、今日も故郷の海を護っています。
「で、どうだった?」
「何の話だ?」
「保護された艦娘のことだよ」
「予想通りだ、
「抵抗はしなかったの? あれはあれで、裏仕事専門の特殊部隊だったよね」
「相手は艦娘と人間を組み合わせた、特殊ハイテク部隊だ」
「そうか、じゃあ、やったのは『FOXHOUND』の大佐?」
「あいつ自身は気づいていないが。ともあれ全滅――いや、思い出した、生き残りが一人と……あれは生きている、でいいのか?」
「どっちでもいいよ、誰?」
「『Ⅴ』は生き延びた、逃亡先は恐らく、アフリカ中央の武装国家」
「スネークはどうするの?」
「自由にさせておけ、あいつも、これ位の『真実』は掴んでいる。白鯨の正体も、じきに。私は横須賀辺りで様子を見る、お前は」
「本部へ戻るよ、木曽のとった映像に、チラッと移ったデータも、見せなきゃいけないからね」
「このシルエット、白鯨はやはり、あの――」
DNAを媒体とした遺伝情報のこと。アデニン、グアニン、シトニン、チミンの四つの塩基によって構成されている。二重螺旋構造をしており、この螺旋が解かれ他の遺伝子と組み合わさることで、新たな組み合わせを持つ遺伝子が生まれる。
遺伝情報には優勢と劣勢があり、文字通り優勢遺伝子の特徴が発現する可能性が高い。尚これは決して、劣勢遺伝子が優勢遺伝子より劣っているという意味ではない。あくまで発現し易いか否かという点である。
またこれとは別に、遺伝子が転写される際、省略される部分が存在する。これはイントロンと呼ばれ、逆に省略されない箇所はエクソンと呼ばれる。
この技術を応用したものとしてクローンがある。既に動物や植物等では生まれているが、人間のクローン体は一般的に成功例がないとされる。クローン体の身体的特徴は、指紋や血管のパターンといった後天的特性を除けばオリジナルと同一とされている。
人間のクローンは、多くの国や宗教で認められてない。スポーツや戦闘に適したクローンは必然的にその役割を強制されることになり、基本的人権を認めないという、ある種の奴隷制度に繋がるからである。
しかし一方で人間のクローン技術を用いれば内蔵等の治療が可能であることや、不妊に悩む人々にとっては、子を残す唯一の方法ともされる。
遺伝に関する現象は未だ未解明な点が多い。第二次世界大戦前はフランシス・ゴールトンによる優生学が主流だったが、戦後はダーウィンの進化論が基本となった。尚余談ではあるが、この二人は同じ祖父を持つ親戚関係にあり、容姿もよく似ていたとされる。
文中の引用は
『艦隊これくしょん―艦これ―いつか静かな海で2』(著:さいと一栄 原作:田中謙介/株式会社KADOKAWA)
による。