ボロボロの埠頭を歩きながら、地平線を仰ぎ見る。
ソロモン諸島の太陽はとっくに沈み、丑三つ時は越えてしまった。体に纏わりつくような暑さの中、吹き抜ける風はとても心地よい。不意に思い出す、あの夏の呉で見た、最後の景色を。
振り返ればほぼ廃墟、要る筈の仲間も夜に隠れて見えない。今の私は一人だ、まるで夏の呉にそっくりだ。寂しさもまた、風のように抜けていく。記憶も感情も、夢みたいにふわふわと、弾けては消える。
現実感がどこか抜けているのは、暑さのせいか、夜だからなのか。
それとも、後二日と経たずに、ショートランド泊地が消えてしまう事実が、信じ切れていないからなのか。
時間はもう、二日もない。
今動けるのは古鷹と衣笠だけ。二人の調査した深海凄艦の動きと、回収した基地のデータ。二つを組み合わせることで、G.Wは白鯨の輸送先を突き止めた。アーセナルが言うには、G.Wは全世界のネットワークを監視し、検閲できる程の情報処理能力を持っているAIだ。どうしてそんな物騒なスペックがあるのかは、答えてくれなかった。
代わりに教えてくれたのは、アーセナルギアのスペックだった。一時的とはいえ共同戦線を張る以上、どんな艦なのかは教えておかないと不味いのが理由だ。しかし青葉は、そのスペックを完全に呑み込めてはいなかった。
数千発のもミサイル兵器を搭載し、核ミサイルの運用能力さえ保有。更にG.Wを中心とし米軍四軍を掌握、コントロール可能。挙句の果てにメタルギア・レイという、完全なステルス性と高い潜水能力を備えた水陸両用戦車が25機。
説明は丁寧だったが、理解が及ばない。スペックは分かったが、一方でアーセナルギアの正体をより複雑なものに変えてもいた。何故そんな艦が作られたのか尋ねようにも、G.Wの時と同じくだんまりを決め込んでいる。
多分、ただならぬ理由があるのだ。それはきっと、トラウマに近い記憶だ。何となくだが察した青葉はそれ以上の言及を止めることにした。辛すぎる過去を無理やり掘り返す必要はない。
「しかし深海凄艦は強大だ、白鯨の護衛用に、配備されている戦力もこことは比較にならない」
眉にしわを寄せながら、アーセナルが地図に点をつけていく。
白鯨が配備されている基地の正面には、膨大な深海凄艦。しかもソロモン諸島を守るヘンダーソン飛行場から、航空機が無数に飛んでくる。
対してこちらは6隻。アーセナルは対姫用なので除外、青葉自身は無傷だが、艤装が修理中。神通はいまだ拷問の傷が治っていない。まさか生身の青葉をカウントする訳にもいかない。よって実質3隻。正攻法は無理だった。
「そこでこの基地と同じく、私が単独で潜入する。そのまま白鯨を破壊し、敵の目論見に風穴を空ける」
「あたしたちは、ただ待つだけなのかい?」
「深海凄艦もこの基地を我々が制圧したのは知っている筈だ。攻め込まれた場合の防衛を頼む」
現状では撤退もままならない。青葉の艤装は破壊されてしまうし、まともに動けない神通はどうなるのか。逃げたとしても、怪我人を追いながら、何処に逃げろと言うのか。
「なら行けないのは青葉と神通さんの二人ですね、青葉の体は動けるのに」
逆に、艤装が無事で体がボロボロなのが神通である。
「何を言っている青葉、お前は私の潜入について来て貰う」
「青葉が? どうして?」
「万一敵に見つかった時、白鯨の破壊工作の時の警戒。バックアップが一人欲しいと思っていた。防衛戦力の艤装持ちを回すのは愚行だ。艤装は使えないが、体は無傷なお前が適任だ」
アーセナルという艦娘にバックアップが必要なのかは置いておく、バックアップがある分に越したことはない。損耗しているのは艤装だけなので、生身で動く分には問題も無い。だが青葉には当然、潜入任務の経験も訓練もない、できるとは思えなかった。
「P90を貸しておく、深海凄艦にも効果はある。それにG.Wも支援してくれる。できるな?」
期待されている、と青葉は感じた。
憧れでもあるアーセナルに頼られていることが、とても嬉しかった。なら応えなければならない、それに―――できることがあるのに、待つしかないなんて、絶対に耐えられない。
「分かりました、頑張ってみます」
「なら待機は私だけですか」
残る神通が無力さに嘆いていた。
「馬鹿を言うな、白鯨を破壊した後は本格的な戦闘になる。私が姫を始末するまでの間、露払いが必要だ。その時がお前の出番になる、だから今は休んでいろ」
白鯨を破壊すれば、ショートランド泊地の壊滅と、敵の目論見は防げる。計画を砕かれた敵が逆上するのは誰にだって予想できた。今出番がないのではなく、後の為に神通は出撃しないのだ。
「分かりました、そう言うならこの神通、力を蓄えていましょう」
「頼むぞ、あの時空母棲姫を取り逃がしたのは、お前のせいでもあるんだからな」
アーセナルが笑った。物凄く邪悪な笑みを浮かべていた。今のが本心から出たのか、ジョークなのかはさっぱり判断がつかない。心なしか凍り始めている空気を何とかしようと、青葉が神通へ手を伸ばしながら立ち上がる。
「心配ありませんよアーセナル、神通さんは物凄く強いですから!」
「そうなのか?」
「そんなことは、私なんてまだまだです」
「何言ってるの、私たちを鍛えてくれたのは神通さんじゃない」
衣笠の懐かしそうな眼を見て、青葉も昔を思い出す。艦娘として建造されてから、まだまだ人と艦の折り合いがつけられなかった頃、彼女がやってきた。噂で聞いていた鬼教官の登場に、第六戦隊は例外なく震えていた。
予想通り訓練は鬼そのものだった。しかし訓練でない時の彼女は、鬼とは無縁だった。特に理由がなくてもいてくれた。日常の相談に乗ってくれたし、食事にだって誘ってくれた。要はバランスだ。訓練が厳しいからこそ、そうで無い時は優しくなる。無論、訓練の厳しささえ、優しさから生まれたものだと、間もなく理解した。
「神通さんがいなければ青葉たちはいません。今はそれどころじゃありませんが、新聞趣味をしようと決意できたのも、神通さんが後押ししてくれたお蔭です」
「元々興味があったでしょう、私は後押ししただけです」
「その後押しがなければ、青葉は動けませんでしたよ」
まだまだトラウマに悩まされていた青葉は、こんな趣味に走って良い物かと悩んでいた。それよりやることがあるのではないか。だが神通はそんな悩みを、笑って吹き飛ばしたのだ。『なら一号は是非私に、貴女の伝えたいことを知れたなら、とても素敵ですから』。そして青葉はジャーナリストになったのだ。
「止めて下さい、あの時はどうすれば貴女たちと打ち解けられるか、必死だっただけです」
と言うものの、顔が若干綻んでいるのは隠せていない。
「ま、そういうこった。神通姉ちゃんの強さは、あたしたち全員が保障する」
「姉? 神通は川内型ではないのか?」
「ワシントン条約でねじれちゃったけど、あたしは元々川内型の一番艦になる予定だったのさ。んでもって古鷹型は川内型の設計を元にしている。その発展が青葉型。だからある意味、あたしたちは神通姉ちゃんの妹なのさ」
ついでに言うなら古鷹型は本来、加古の方が先に施工し加古型になる筈だった。しかしクレーンの事故などで遅れ、古鷹の施工が先になり古鷹型になっている。発展形の青葉型も古鷹型にくくられたりする。どちらが姉で妹なのか、分かったものではない。
だが、神通を姉と呼ぶのはそれだけではない。
彼女が伝えてくれた艦娘らしさ、人間らしさ。私たちは全員、彼女を真似て生きてきたと言っても良い。技術的な、だけではない。意志を受け継いだ
「そこまで言わなくても、十分当てにしている。では今から行ってくる、ついてこい青葉」
経験なしでのバックアップは不安しかないが、何故か興奮もしている。
それは良い。しかし妹である私が
「作戦目標は白鯨、拠点は『コロンバンガラ島陸戦基地』――アーセナルギア、任務を開始する!」
「青葉、出撃しちゃいます!」
そこは、軽巡神通の轟沈地点に他ならなかった。
あの因縁の海域へ出撃していく二人を見送り、更に近海の哨戒へ向かった二人を見送る。衣笠はもう少し、この基地で修復剤を探すと言う。そして神通はただ一人、アーセナルに言われた通り体力温存につとめていた。
皆立派になったものだ。各々ができることするのを見て、神通はそう感じた。最初の頃は本当にひよっこだったのに、成長とは速い。対して自分はどうだろうか、拷問で受けたダメージ如きで、引っ込まざるを得なくなっている。
実際、その気になれば戦える事実が、この気持ちに拍車をかけていた。
艤装は殆ど負傷していない、拷問の傷も落ち着いてきている、多少の無理をすれば出撃できるのだ。だが神通の行動は、無傷な仲間の足を引っ張ってしまうだろう。
〈結局修復剤は見つからないか〉
〈衣笠が頑張ってくれているのですが、正直難しそうです〉
〈助けた意味は余りなかったらしい、残念だ〉
アーセナルは露骨な落ち込みを見せていた。
しかし神通を苦しめようとか、自責の念を作ろうとする意識はない。本心から落胆していた。悪意は微塵もなく、純粋に自分の努力が無駄になったのがショックらしい。どちらにせよ役に立たないというのは、気持ちの良いものではない。
〈アーセナル、流石に今のは見過ごせませんよ〉
〈事実を言ったまでだ、だいいちレイに背負われて移動しているお前が言える状況ではない〉
〈艤装の修復はあと二時間程度で終わります〉
〈出番がなければいいが〉
青葉の艤装を使う状況とは、つまり白鯨の破壊に失敗した状況だ。
それだけでチャンスが潰えはしないものの、生存はより厳しくなる。できるならアーセナルの言う通り、使う機会はない方がいい。
〈ただ妙なことがあります、出力が正常のままなんです〉
〈正常なのが、おかしいのか?〉
〈今の私たちは提督とのリンクが切れていて、そのせいで艤装不調に陥っています。今は出力が低いことが正常でないといけません〉
〈提督がいないと戦えない、安全装置のようなシステムか〉
〈あの、その点で気づいたことがあるんですけど〉
おずおずと、手を上げて発言許可を求める青葉の姿が、無線越しに想像できた。
〈もしかしてアーセナルギアは、艦娘であると同時に提督なのではないでしょうか?〉
〈ありえません、提督適正を持つのは人間だけです〉
〈でも、彼女は妖精と会話していました〉
馬鹿な、あり得ない。
安全装置である提督適正を、艦娘が持っている。賢い猛獣に檻の鍵を預けるのと同じだ、意味がない。しかし妖精と会話できる存在は、事実として提督しかいない。
〈……私は何なんだろうな〉
アーセナル自身にもその理由は分からないらしい、そもそもアーセナルがどういう艦なのか神通は知らない、聞いても彼女は話さない。史実を存在のルーツとする艦娘にとって、それはどれ程の恐怖なのか。だから青葉はきっと、理解できる今のために動いたのだろう。神通はそう感じた。
〈良ければ、写真を取ってもいいですか?〉
〈断る、顔が政府に露見するのは絶対に嫌だ〉
〈なら許可を下さい、このソロモン諸島でのアーセナルの戦いを、記事にしたいんです〉
〈お前は何を言っている?〉
〈青葉はアーセナルがどんな艦なのか分かりません、聞いても教えてくれません〉
〈レイテの英雄として祭り上げられているんだろう、そこから引っ張って来ればいい。どうせ私の発生に関する憶測が飛び交っている筈だ〉
青葉に半ば無理矢理見せられた、『英雄』のコミュニティサイトには、色々な憶測があった。『米国が建造した極秘兵器』、『脱走した深海凄艦の成れの果て』もしくは『深海凄艦を裏切った正義の味方』。『並行世界から』または『未来からの艦娘』。確かめられない以上、それは全て嘘でもあり、真実でもある。
〈そんな証拠もないものは記事にしません、それに……アーセナルも分からないんですよね、自分がどこから来たのか〉
〈ああ、艦の記憶はあるが、何が起きてこんな体になったのかは覚えていない〉
〈尚更ですよ、そんな記事は貴女を不安にさせるだけです。そんな記事は望みません。青葉が伝えたいことは、皆さんの色々なことです〉
〈色々なこと?〉
〈日常に埋没してしまうような個性や、本人が恥ずかしがって隠しているようなこと。だけど青葉たちは戦場に生きていて、知る機会もないまま終わってしまうかもしれません。でもそれは、とても悲しいと思いませんか〉
それは、始めて聞く青葉の信念だった。あの時不意に言った一言が、気がつけばここまで立派に成長していたのだ。嘘偽りなく誇らしいと思った、しかし逆に、自分が惨めに見える。その気持ちを押し隠し、神通は黙っていた。
〈だから青葉が、こう言っては傲慢かもしれませんけど、伝えるんです。その為にも知りたい、英雄である貴女がこのソロモン諸島で、どんな素敵な面を見せるのか〉
〈なるほど、傲慢だな〉
〈過去を知られたくない気持ちは分かります、だけど、今この時は伝えて良いですか?〉
〈大本営が許すなら構わないさ、だが写真は駄目だ〉
大本営はアーセナルギアの存在を公には認めていない。あの大戦果が正体不明の存在にもたらされたとなれば、軍の支持に関わる。青葉がこの戦いを記事にできる確率は低い、それでも彼女は伝えようとしている。
〈許さなくても、いつか話せるかもしれません。青葉は大本営の意志じゃなく、自分の意志で残すものを決めます。そうですよね、神通さん〉
「私ですか?」
身に覚えがない話が飛んできて、神通は誰も見てないのに自分を指さした。
〈言ってくれたじゃないですか、自分の意志で情報は選びなさいって〉
そこで神通は思い出した、新聞をしたいと言い出した青葉にかけた警告を。
情報とは扱いによっては非常に強力だ、だからこそモラルや社会規範を意識し、自分で伝え方を考えなくてはならない。無暗に人気を集めようと、パパラッチのような行動をしてはいけないと。
〈ただ周りに求められるまま、情報を吐いてはいけない。個人の意志がないなら、ジャーナリストに存在価値はありません。今時個々人に必要な情報は、検索エンジンやフィルターバブルが返してくれますから〉
「ええそうでしたね、すいません、言った本人なのに忘れていました」
〈まあ大分昔ですからね、でもお蔭で青葉は、自分の意志で伝えることを伝えられています〉
〈戦場に埋もれがちな、誰かの日常か〉
〈何時死んでも青葉たちはおかしくない、でも青葉の残した記憶が誰かに残れば、その人の中で生き続けられます。青葉はそうやって、誰かを生かすことができる〉
しかし神通が感じたのは、背筋が凍るような悪寒だった。
何だ、今のは。私の愛おしい妹は、何を伝えようとしている。そんな気持ちは露知らず、悍ましい妹は喜々と語る。
〈勿論アーセナルの新聞第一号は、神通さんに届けます〉
〈作れればだがな、もうコロンバンガラ島に入る。無線を切るぞ――〉
〈待っててください神通さん、『運命の軛』なんて青葉とアーセナルが引っ繰り返してきますから!〉
そうか、この悪寒の正体は。
神通は気づく、青葉を悍ましくしてしまった歪みの正体を。不味い、このままでは。私が青葉に伝えたことは、伝えられていない。
神通は叫ぶが、無機質なハウリングが帰って来るだけだった。
遅かった、もうこちらから無線は繋げないだろう。敵地のど真ん中でおしゃべるなどできない。しかし今の青葉に必要なのは、その無意味なおしゃべりだ。
「どうして、気づかなかったんですか!」
神通はコンクリートの床を殴りつける。何度も何度も、拳が血で滲んでも。拷問の痛みが全身を走るが、全く感じない。それどころではない、私はとんでもない間違いをしてしまった。
運命の軛。
それはレイテの英雄同様、艦娘の間で語られる有名な噂だ。
例えどんなに頑張ろうと、足掻こうと、その艦娘は元となった史実通りの最後を迎えるという、物騒な噂話。
しかし実際、あの海戦、あの戦いの再現が発生し、あの通りの結末が演じられる事例は発生している。
原因は何なのか、深海凄艦が史実を再現するのと関係あるのか。
誰も確かめられない噂は曖昧に、運命という言葉に内包されて拡散していった。
取材やらなんやらでネットに没入する青葉がそれを知っているのは、ごく自然な流れだった。
だが、まさか。
あの噂がここまで青葉を捕えているとは思わなかった。噂の是非はどうでもいい、肝心なのは、このままでは青葉はまず間違いなく最悪の結末を迎える予感だ。
そして、その呪縛を強めてしまったのは他ならぬ自分だ。
あの時、新聞をしたいと言った真意を汲み取れなかったばかりに、そして本心を誤魔化した言葉をかけてしまったばかりに、私の意志は伝わらなかった。
伝えなければ、まだ間に合う。
伝えることを、伝え方を間違えてはいけないのだ、今度こそは。
〈しかし……何故新聞なんだ?〉
〈と言いますと?〉
〈SNSの発展で、簡単に個人の意見を発信できる時代だ。わざわざ新聞なんて面倒な手段を取らなくても、SNSや自前のサイトを使えばいいじゃないか〉
〈そうですね、やはり私にかつて、従軍作家の海野十三さんが乗っていたからだと思います。それにパソコンで情報を探すより、自前の足でネタを集める方が性に合っていると言いますか〉
〈なるほど、そうやってストーカーまがいの行為に及んでいるのか〉
〈それは偏見です! いや、そういった『青葉』が多いのも事実ですけど……青葉は違いますよ!〉
〈そうか〉
〈アーセナル。今青葉のSNSや、彼女の周囲の人物のSNSを調べてみた〉
〈ジ、G.W!?〉
〈ストーカー、盗聴、個室への侵入と言った呟きが多く上がっている。どれも一線は越えていないが、その一線の上でダンスを踊っている。言い方によっては犯罪にならない……かもしれない程度にギリギリだ〉
〈……青葉〉
〈…………恐縮です!〉
〈おい待て、無線を切るな! 話はまだ――〉