─────ペキンッ
その音は確かに金属の何かが折れる音だった。
室内に響き渡り、誰しもが耳にしたであろう。
ある人物は青ざめた表情で。
ある人物は予想外といった表情で。
またある人物は終始表情を変えずにじっと見ている。
そして俺は……
「まじ、かよ……」
それは”叢雨丸”の切っ先が岩にぶっ刺さったまま折れたことに関しての反応でもあるが、同時に何も知らない将臣に霊気が反応したことに対して驚いた反応でもある。
「あ……」
張本人・有地将臣は、まるで魚の目のようにキョトンとした表情で御神刀の折れた断面を見つめる。
何度か元の位置に戻すような動作をするが、まぁ戻る気配はない。
「へ、へ、へへへへ……うへへへへへ」
しまいには汚い笑みをこぼす。
「なにこれ笑うんだけど、え?なに?あばばばば」
引き攣った笑みと青ざめた表情はまさに滑稽。
「なぁ、なにこれ見てみろよ廉太郎。ほら、折れたぞ。引き抜くどころかへし折ってやったぞ」
「ちょ!?お前はこっち持ってくんな押し付けんな!しっしっ!」
「お前ふざけんなよなーにが何も言われないだ!?これ絶対言われるだろが!!!」
「俺関係ない!!俺は折れなんて一言も言ってない!」
「こんな時につまんないダジャレぶちかますんじゃねぇ!!」
「知るか!諦めろ!これが現実だ。前を向け、下を向くな!!」
やんややんやと揉め散らかす将臣と廉太郎を対照的に、芦花姉と小春は静かに『アタシ、そろそろ戻ってお仕事しなくちゃぁ』とか、『私も宿題残ってるし……』なんて見て見ぬ振り、触らぬ神に祟りなしなんてことわざを体現した行動に出る。恐ろしき女性陣。
まぁ確かに御神刀を折ったなんて、神の怒りに触れるどころか命を持っていかれるようなことだからなぁ。
「待って!置いていかないで!!1人にしないで!!」
「あー俺もそろそろ狙ってる女の子とデートの時間だぁ」
廉太郎もご覧の通り。
「ふっざけんな廉太郎!」
「さらばだ将臣。無事生きて帰れたら女の子の1人や2人紹介してやるぜ!!」
汁という汁を目や鼻や額から飛び散らせる友人・将臣を背にして、廉太郎、小春、そして芦花姉は一目散に退散する光景があった。
薄情なヤツらであった。
「……佳正ぁ」
「……(ふいっ)」
隅で壁に寄りかかりながら一連の流れを見ていた俺に、助けを求める子犬のごとく視線を向ける将臣。
別に他意はないが視線を逸らしてしまう。
「佳正、たすけてくれぇー」
「……」
知らぬが仏。
「……」
「ひぃぃっ!祖父ちゃんごめん!!」
彼は、きっと命を散らすであろう。
俺は静かに将臣が玄十郎に連行される光景を眺めていた。
─────第七輪 責任─────
本殿内に残されたのは、俺と──宙に浮かぶ小柄な少女、ムラサメだけだった。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、耳の奥がきーんと鳴る静けさが広がる。
「……やっぱり妙じゃな」
ぽつりと漏れたムラサメの声が、その静寂を割った。
俺は壁に背を預けたまま、片眉を上げる。
「妙って、何がだよ」
「叢雨丸じゃよ。あれはな……持ち主の心を試し、認めた者にしか反応せぬはずの刀じゃ」
紅い瞳がじっと俺を見据える。
その目は冗談を一切含まない。背筋が、すっと冷える。
「反応、ってことは……さっき将臣に反応したのも、つまり……」
「うむ。あやつは御神刀の霊気を引き出した。それ自体、そう容易く出来ることではない」
ムラサメは顎に手を添えて、しばし思案するように目を細める。
まるで遠い昔の出来事を思い出そうとしているような顔だ。
「でも結果はあれだぞ? 見事に折ったじゃねぇか」
「……折れたのではない。刀が、己で断ったのじゃ」
「断った?」
「刀が、自ら」
理解が追いつかず、俺は眉をひそめる。刀が自分で決める? そんな馬鹿な。
「叢雨丸はな……選ぶのじゃ。斬るべきものと、守るべきものを。時には持ち主すら選び捨てる」
「選び、捨てる?」
その言葉に、思わず胸の奥がざわめく。
俺も……捨てられる側に入るってことだろうか?
「お主も、かつて試されておる。だが──結果は、まだ保留じゃ」
「……保留?」
ムラサメは答えない。
ただ口元をわずかに吊り上げる。その笑みが、俺の中の警戒心をいやにかき立てた。
「じゃあ、何か理由があるって言うのか」
「理由……うむ、それを今ここで語ることはできぬ。いや、語らぬ方が良い」
「……濁すなよ」
「濁すのではない。今のお主が聞いても、答えは出せまいということじゃ」
ムラサメはじっとこちらを見つめ、その瞳の奥に測りきれない感情を隠しているようだった。
「ただ一つ言えるのは─叢雨丸があの者に反応したのは事実。そして、それはこの先、避けられぬ道筋の一つだということじゃ」
「避けられない道筋、ね」
「そうじゃ。お主も、覚悟しておけ。刀は折れても、その意味は折れぬのじゃからな」
ふわりと俺の横をすり抜けて、本殿の出口へ向かうムラサメ。
その背中を見送りながら、俺は折れた叢雨丸の切っ先と、あの時の将臣の表情を思い返していた。
──なんで将臣に、あの刀が応えたんだ。
胸の奥に、小さな棘のような疑問が残ったまま、俺はムラサメの背中を眺める。
そして息を吐き、俺はゆっくりと本殿を後にした。
外に出ると、午後の陽が少し傾きかけていた。
石畳に長く伸びた影が、境内の空気をどこか寂しく見せる。
将臣たちが戻ってくる気配はなく、本殿の周囲は異様なほど静まり返っていた。
ついさっきまで、境内には太鼓の音や屋台の呼び声、子どもたちの笑い声が溢れていたはずだ。
けれど、叢雨丸が折れたという一報が走った途端、それらはまるで潮が引くように消え去った。
参道に並んでいた屋台も、半ば片付けられたまま放置され、色鮮やかな幟が風にあおられて寂しげに揺れている。
人の気配は遠ざかり、今残っているのは、地面に落ちた綿飴の袋や、まだ熱を帯びた焼きそばの鉄板の匂いくらいだ。
香ばしさと油のにおいが、やけに場違いに思えた。
さっきまでの喧騒が幻だったかのように、境内全体が重く沈んだ空気に包まれていた。
(……中に入りたくない)
別に怖いわけじゃない。
けれど、あの空間には、俺の中の何かをえぐる空気が満ちている気がする。
折れた叢雨丸。将臣の顔。そして、あの時の──守れなかった瞬間。
全部が一気に胸の奥に押し寄せてきて、息が重くなる。
逃げるつもりじゃない。
でも、一歩踏み込めば、またあの時の後悔と罪悪感に足を絡め取られそうで……。
それが怖い、と認めるのは簡単だ。けど、それを言葉にするのはあまりにも惨めだった。
遠くから祭囃子がかすかに聞こえてくる。
あの賑やかさは、まるで別世界の音だ。
ここだけ時間が遅く流れているようで、石畳に座り込めば、そのまま夜まで動けなくなる気がした。
ふと、桜の枝が風に揺れて花びらがひとひら、俺の肩に落ちる。
その儚さに、妙な胸騒ぎを覚えた。
そんな時だった。
「佳正君!」
背後から、規則正しい二つの足音が近づいてくる。
振り返ると、鳥居をくぐってやってくる二つの人影。
一人は白い着物に淡い水色の羽織をまとった、端正な顔立ちの女性──芳乃。その隣には、柔らかい物腰の男性、安晴がいた。
「芳乃様、安晴さん……」
芳乃様は小走りで近づき、胸に手を当てて息を整えながら見上げてきた。
安晴は優しい微笑みを浮かべ、軽く会釈する。
「佳正君、無事でよかった……玄十郎さんに『来てほしい、叢雨丸が折れた』ってだけ聞かされて。詳しいことは何も……」
安晴が穏やかな声で続ける。
「僕はね、さっき玄十郎さんから一通り事情を聞いたよ。大変だったね。例の子……は中にいるのかな?」
「ああ。玄十郎さんと一緒にいるはずです」
「そうか。じゃあ僕たちは中へ入ろう。芳乃にも、まずは見てもらった方がいい」
安晴が促すが、俺はわずかに間を置いて首を振った。
「……いえ、自分は大丈夫です。少し、ここで空気を吸ってから行きます」
「そうかい。じゃあ、僕たちが見てくるよ」
安晴はそれ以上は踏み込まず、芳乃様を伴って本殿へ向かう。
石畳を渡り、式台で履物を揃えて戸口をくぐる二人の背中を、俺はその場から見送った。
いつの間にか入口には玄十郎が立っていて、なにやら険しい顔つきで安晴と会話をしている。
───叢雨丸は選ぶ。持ち主すら選び捨てる。お主の答えは、まだ保留じゃ。
幼い頃、彼女と顔を合わせた時には、そんな核心めいた話は一度もなかったのに。たった一言で、足元の石畳が少しだけ冷たく感じる。
——刀は折れても、その意味は折れぬ。
ムラサメの声が、境内の風に紛れて薄くなっていく。
俺は花びらを指先で払い、遠くの本殿を見上げた。
───時は遡ること十数分前───
玄十郎に腕をつかまれ、ずるずると奥へ引っ張られていく。
広間の空気はひんやりとしていて、畳も柱も手入れが行き届いている。
古さはあるが、どこか新しい香りが漂っているのは、掃き清められた空間特有のものだろう。
俺は思わず鼻をひくつかせた。……なんだろう、ここまで清潔感のある本殿って、かえって落ち着かない。
「お前はここで待っておれ」
玄十郎が言い残し、奥の間へと姿を消す。
声色からして、どうやら誰かを呼びに行くらしい。
ひとりきりになった瞬間、室内の空気がすっと変わった。
静寂というより……耳の奥がくすぐったくなるような、妙な気配。
「俺、これからどうなるんだ?」
右往左往する俺にここで待つよう言われたものの、手持ち無沙汰でどうしようもない。
廉太郎も芦花姉も小春も帰って───というか逃げて、今この場には俺1人。
頼みの佳正も暗い顔をしたままどこかに消えた。
「不安だ……俺、死ぬの? それとも弁償の為に借金取りに追われて地下労働施設で監禁されるのかなぁ」
あれやこれやと嫌な想像ばかり思いついて、身震いが止まらない。
「もういっその事逃げてしまおうか? いやでもなぁ」
あまりに申し訳なくて、自然と部屋の隅で正座待機してしまう。
「はぁ、もう諦める。大人しくするから早く処分を決めて欲しい」
「やれやれ。何物騒なことを言っているのだ、お主は」
「うおっ!?」
声が、聞こえた。
振り向くと、目の前──いや、目の高さより少し上に、ふわふわと宙に浮かぶ小柄な少女がいた。
薄緑の髪、紅い瞳。そして着物の袖のような服をひらひらと揺らしながら、俺を見下ろしている。
「お主が、吾輩のご主人か?」
「な、なな!?なんだ?!」
「おお、その驚き様。ちゃんと見えておるし聞こえておるな」
「ゆ、幽霊?」
「違うっ! 吾輩は断じて幽霊などではない!!」
「でも、なんで浮いて……」
「吾輩の名前はムラサメ。この神社に祀られる御神刀──叢雨丸の管理者。まぁ叢雨丸の魂のようなモノだな」
宙に浮かぶ若干10数歳と思われる少女、ムラサメはそう名乗った。
「お、お前が……あの刀の……復讐?」
「だから吾輩は幽霊ではない! それに刀はすぐ元に戻る! ほれ」
ムラサメはゆるりと宙に両の手をかざす。
その掌の間に、まるで夜明け前の水面に差す光のような、淡く透き通った輝きが滲み始める。
「目覚めよ、叢雨丸──」
静寂の中で、その光は呼吸をするかのように脈打ち、やがて細い糸となって舞い上がり、折れた刃の断面へと吸い込まれていった。
空気がわずかに震え、かすかな鈴の音のような響きが耳をくすぐる。
切断面の奥から、失われたはずの形が滲み出すように現れ、ひと筋の銀色の輝きが刃を縫い合わせていく。
まるで時が逆流し、刃が誕生した瞬間の記憶が再び形を取るかのようだった。
最後に、微細な光の粒が刀全体を包み込み、すっと消える。
そこには、折れる前と寸分違わぬ叢雨丸が、静かに、しかし確かな存在感を放ちながら佇んでいた。
「す、すげぇ……」
俺は息を飲んだ。
修復された刀は、まるでさっきまで折れていたことなどなかったかのように、清らかな光沢を放っている。
「ほれ、この通りだ」
「まさか、本当に?」
あんなにぽっきり折れていた叢雨丸が元通りになる光景、宙を舞うロリっ娘。
現実離れした光景を目の当たりにした俺は、驚きのあまり逆に冷静さを取り戻していた。
「話、聞く気になったか?」
「まぁ……こんなの見せられちゃあね」
「これからよろしく頼むぞ、ご主人」
「ごめん、そのご主人ってなに?」
都会のメイドさんがいっぱいいるカフェで聞くような呼称に、ムズムズしたものを感じながら問う。
「ご主人はご主人だ。お主は叢雨丸を抜いたのであろう?」
「まぁ抜いたというか……へし折ったというか」
「それはどちらでも構わぬ。あの岩から叢雨丸を離したのはお主なのであろう?」
「あぁ、そうだ」と俺は頷く。
ふわふわ浮いていたムラサメは静かに降りてきて、足を床につける。実態はあるのだろうか。
「それは決して誰にでもできることではないのだ」
「そうなの?」
「吾輩と叢雨丸は対の存在。選ばれた者は叢雨丸を扱う資格を持つが……同時に、叢雨丸に選ばれぬ限り、その力は牙を剥く」
ムラサメの紅い瞳が、じっと俺を射抜く。
「そして、ご主人の前任……佳正は───」
そこで彼女は言葉を濁す。
しかし、その目は何かを言いかけて飲み込んだ者のものだった。
「ま、今はよい。この話は追々話すとしよう」
今非常に気になる事を後回しにされてしまったが───佳正が前任だったとは、一体どういうことなんだ?
(初耳だ……そんな話聞いたことない)
親しき友人の知られざる過去を知ってしまった気分になり、嬉しいような、悲しいような、そんな気持ちになった。
「つまり、俺は叢雨丸に選ばれたってことでいいの?」
「そうじゃの、今はその認識でよかろう」
「さっき綺麗に元通りになってたけど、それもお前の力?」
───叢雨丸。
幼少期に祖父ちゃんから聞かされたことがある。穂織の神から授かった伝説の刀だと。
当時の俺には理解できず、単なる御伽噺だと思っていた。
だが、刀が元通りになる光景を目の当たりにし、それがただの御伽噺ではなかったと理解せざるを得なかった。
「お前ではない! ムラサメという名前があろう!」
「ムラサメ」
「いきなり呼び捨てとは」
「じゃあ、ムラサメちゃん?」
「それはそれで威厳がないが……」なんてブツブツ文句を言っているように聞こえるが、最終的には「まぁご主人だしいいか」と軽い感じで納得したらしい。
ムラサメは胸を張って(物理的にはあまり張れていないが)、続ける。
「叢雨丸は神力を宿らせ妖力に対抗する為に存在する刀だ」
「妖力……?」
「あぁ。だが、ただの刀に神力を宿らせるのは至難。そこで必要となったのが”人の魂”なのだ」
神力を魂に、魂を刀に宿らせ、神力と成すのが叢雨丸。
そしてその魂こそが吾輩なのだ──と、えへんと胸を逸らして威張るムラサメ。
(……いや、その胸張っても……いやいや、思っても言うな俺)
そこで、ふと一つ疑問が浮かび、なんとなく聞いてみた。
「……肉体は?」
───直後、ムラサメの顔から笑顔が消えた。
が、直ぐに彼女の顔には笑顔が戻ると、
「大昔の話だから今はもうないのだ」
さらりとそんなことを言ってのけた。
俺はそれ以上追求できず、「そうか……」と空返事しかできなかった。
「いわゆる人柱になったようなもんじゃな」
「え、じゃあやっぱり幽霊なんじゃ───」
「幽霊ではない! 全然違う! 一緒にするな!! 吾輩は神の使いなのだ! 幽霊などとそそそそんな根拠のない存在と一緒にするなっ!」
必死に否定しながら、ムラサメが俺の目の前にぐいっと迫ってくる。
距離が近すぎて、思わず俺はのけぞった。
その拍子に──
(や、やべ……!)
バランスを崩した俺の手が、彼女の胸元あたりにそっと触れてしまった。
……本当に、恐る恐る、指先でかすめる程度だったのに。
「……なにをしておる?」
紅い瞳が、じりじりと細くなる。
声は低く、しかしはっきりと怒気を含んでいた。
「ち、ちがっ……! いや、今のは事故で!」
「事故であろうとなかろうと、吾輩の尊厳に触れたことに変わりはないのじゃが?!」
「すみませんでしたあああああっ!!」
慌てて正座し、頭を床にこすりつける俺。
その頭上で、ムラサメはふんっと鼻を鳴らす。
「次はないと思え、ご主人」
……この”ご主人”って呼び方、なんか色々と複雑な気分になるのは俺だけか?
「何を騒いでおる」
と、奥の扉が開かれ玄十郎が戻ってきた──いや、戻ってきたというより、二人を伴って現れた。
その顔は相変わらず険しい。
「……誰かと会話しておらんかったか?」
「え? あー……まぁ……」
本当のことを話して良いのか迷い、曖昧な返事で濁す。
けれどそこまで興味無さそうで、玄十郎の視線はすぐに床の方へ向かい、「む?! 刀身が……!」と声を上げた。
「将臣、これはどうしたのだ」
「まぁ、刀の精霊みたいな子が直してくれたんだけど……そんな変な話信じないよね?」
俺が半分冗談混じりに言うと、玄十郎は眉をひそめる。
「それはムラサメ様のことか?」
「知ってるの?」
「ワシは話だけだがな。見える者から話だけは聞いている」
「例外はあるのじゃよ。例えば佳正とかの」
ムラサメが口を挟む。俺はなるほどなと小さくうなずいた。
「すまんが話を戻すぞ。叢雨丸の件だが、担い手になった以上お前には責任を取ってもらうことになった。まずは話を聞け」
そう言って玄十郎は、後ろに控える二人を紹介するように視線を向けた。
最初に前に出たのは柔らかな笑みを湛えた中年の男性だった。淡い色の装束に身を包み、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
その隣には、長い白髪を左右で結び、清楚な装いをした若い女性─背筋の通った立ち姿と涼やかな瞳が、どこか凛とした空気を纏っていた。数時間前、表で舞をしていた少女だ。
「はじめまして、有地将臣君。僕は朝武安晴、建実神社の神主です。気軽に安晴と呼んでくれていいからね。僕も将臣君と呼ばせてもらうよ」
彼の口調は終始やわらかく、まるで初対面の緊張を解きほぐすような温かさがあった。その落ち着きに一瞬肩の力が抜け、俺も深く頭を下げる。
「この度はご迷惑をおかけしました」
「いやいや、むしろ僕の方こそ申し訳ない。将臣君にはこれから色々迷惑をかけてしまうと思うんだ」
彼の言葉は冗談めかしているようで、どこか本気の響きがある。
俺は姿勢を正し、真剣な声で返す。
「俺がしたことですから、できる限りの責任はとらせていただきます。で、何をしたらいいでしょうか」
「それなんだけどね。芳乃」
安晴は横に視線を向け、そっと合図を送るように手を動かした。
呼ばれた娘が一歩前に進み、上品に会釈をする。
「はい。はじめまして、有地将臣さん。朝武芳乃です。」
彼女の声は透き通っていて、礼儀正しい仕草と相まって、場の空気を柔らかく包み込むようだった。
その気品ある佇まいに、思わず背筋が伸びる。芳乃は俺をまっすぐ見つめたまま、静かに問いかける。
「あの、叢雨丸を抜いたというのは本当ですか?」
「うん。抜いたというか折ってしまったというか……」
「間違いないんですか?」
「……?」と首を傾げた俺の横から、芳乃がもう一度確認するように尋ねる。
「本当なんですか? ムラサメ様」
「ん? 間違いないぞ、目の前の者が、吾輩のご主人だ」
ふわふわと宙に浮かぶムラサメが、得意げに胸を張る。
「朝武さんも、ムラサメちゃんが見えるの?」
「ムラサメ……ちゃん?」
「吾輩のご主人だから、それくらいは許したのじゃ」
「佳正君は、どうなるんですか?」
「それはじゃのぉ……ちょっとあやつの立場が今難しいところにあるからすぐには判断できないのだ」
「やっぱり会話できてるから見えてるんだね」
俺が感心したように呟くと、ムラサメは軽く頷いた。
「芳乃も吾輩が見える人物の1人なのだ。ご主人のように叢雨丸に選ばれたわけではないがな」
「それは巫女さんだからですか? 安晴さんは?」
「僕は見えないよ。入婿だからね。直系の者じゃないと───」
安晴は肩を竦め、少し苦笑して答えた。
「お父さんっ、余計なことは言わなくていいです。ムラサメ様も」
「そうは言うがな、吾輩のご主人になった以上は───」
「ムラサメ様のご主人は佳正君でしょう。大丈夫です、私が全部何とかしますから」
「あの、何の話ですか?」
心の中で、置いてけぼりを食らった子どものような感覚が広がる。
俺の目の前で交わされる会話は、まるで暗号か何かみたいで、言葉は聞こえているのに意味が掴めない。
芳乃も安晴も、当たり前のように何かを共有していて、ムラサメまでその輪の中にいる。
なのに、当の本人である俺だけが、事情を知らないまま立たされている──そんな妙な疎外感が胸の奥をざらつかせた。
こういう時の「気にするな」ほど、気になる言葉はないのに。
「有地さんには関係のない話ですから気にしないでください」
俺の抱える内心の事なんて露知らず、芳乃はピシャリと言い切る。
「はぁ…やれやれ。とにかく、これが僕の娘、芳乃だよ。それで、こちらが叢雨丸を抜いた、有地将臣君」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「でだ、将臣君。君が叢雨丸を抜いてしまった以上、将臣君をこのまま帰すわけにはいかなくなった。それは芳乃も理解しているね?」
「……はい」
「将臣君も、責任を取ってくれるんだよね?」
「もちろん、俺にできることなら」
その瞬間、安晴さんの口元に浮かんだ笑みがやけに鮮明に見えた。
にこやかで、柔らかく、どこまでも穏やかな微笑み──だが、背筋に冷たいものが走る。
この人は、今まさに俺に何かとんでもないことを告げようとしている。
根拠なんてない。ただ、その笑みの奥に、もう逃げ場がないと悟らせる何かがあった。胸の奥がじわりと重くなる感覚と一緒に、嫌な予感がゆっくりと膨らんでいく。
「理解が得られて嬉しいよ。じゃあ叢雨丸を抜いた責任として───芳乃と結婚してもらいたい」
言葉が落ちた瞬間、室内の空気がぴたりと止まった。
鼓動だけがやけに大きく響き、誰も息をするのを忘れたかのようだった。
「──え?」
「───はい?」
芳乃が瞬きをし、小首を傾げて問う。
「お父さんの、娘?」
「そう」
お互いに顔を見合わせ、同じ疑問符を頭に浮かべたまま固まる。そして───
「け、けっこんんんんんんんんっ!?」
俺と芳乃の叫びが、本殿の梁を震わせるほどの声量で響き渡り、床にまで震動が伝わるようだった。